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犠牲死によい死とわるい死とがあるか?
- 犠牲死によい死とわるい死とがあるか?ひとを生かすためにすすんで犠牲となる場合における死はたたえるべき意志行為であるか?
- 犠牲死によい死とわるい死とがあるか?いや、意志行為としての死はすべてのろうべき行為ではないか?
- 自死も――たとえばイジメに遭っての自死も――ひとごろしであってのろうべき意志行為であるのではないか?
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こんばんはです。 ☆(α) ひとを生かすためにすすんで犠牲となる場合における死は たたえるべき意志行為であるか? ◇《神風・特攻隊》をたたえる人は、結構、いますね。 しかし、これは、戦局に何ら影響をもたらさず、単なる《無駄死に》《犬死》以外の何物でもない。 《特攻隊》の話は、絶対に美談にしてはならない!! 特攻隊員の死を悼むことと、特攻を美談にすることは、まったく違う話です。 ☆(β) 犠牲死に よい死とわるい死とがあるか? いや 意志行為としての死はすべてのろうべき行為ではないか? ◇呪うべき行為なのでしょう。 結果として、死を選択せざるを得なかった人ではなくて、 そのような状態を作り出したことをですが。 ☆(γ) 自死も――たとえば イジメに遭っての自死も―― ひとごろしであって のろうべき意志行為であるのではないか? ◇自死は難しいですね。 イジメやうつ病などで自殺をする人は、精神的に極限状態まで追い詰められており、そのために正常な判断を下せない状況に置かれているので。 だから、わたしは、イジメによる自殺のニュースなどを目にしたり、耳したりするたびに、もう涙が止まらないです。 自殺をする以外に選択肢がないほどまでの状況に追い詰められていたのか、と悲しくて悲しくてたまらないです。 と同時に、そこまで追い込んだ人たちに強い憤りを感じています。 ただ、自死を選択した人が視野狭窄に陥っていたことだけは事実でしょう。 《自死》以外の選択肢はあったのですから、《自死》すべきではなかった、といったところでしょうか。 《自死》という選択肢を取って欲しくなかった、ということで。 ☆(δ) 文脈・情況にかかわりなく無条件にこの(γ)の命題が言えるのではないか? ◇自死という選択をした人を責める気は、わたしには、まったくありません。 しかし、その選択が賢明でなかったこと、正しい選択でなかったことだけは確かでしょう。 呪われるべきものは、特攻やイジメによる自殺という状況を作ったことであり、そうした状況を作った人たちなのでしょう。 なのですが、《白虎隊》はまったくお話にならない。これは隊員らのまったくの事実誤認に基づいているので、全然、話にならない。 なんなら、「《白虎隊》の隊員は、みんな大馬鹿野郎だ」と極論してもいいわさ。 どんなにみっともなくても、まず、「いきること」を選択しなければならないんだわさ。 「いきること」を最優先させなければ、ならないんだわさ。 ☆(ε) 緊急避難などの条件は そのあとに来るとすれば来るのではないか? ◇ですね。「いきること」を最優先しなければいけない。 ☆(ζ) 原発事故における犠牲的行為は ほかの人を生かすためにおこなったゆえ讃えられるべきだと見るのではなく のろうべき行為をも欲しておこなったと解釈すべきではないか? ◇それ以外の選択肢があったのか、どうか・・・ この場合は、イジメなどによる自殺とは異なって、社会的な有形、無形の圧力、強制力が働いています。 「原発事故で甚大な被害をもたらしたのだから、たとえ、その結果として死んだとしても、その身を犠牲にしようとも、被害収束のために最大限の努力をしなければならない」といった、原発事故を起こした原発関連事業者などに対する日本社会の強い強制があったのでは。 たぶん、福島原発に関わった多くの人たちには、他の選択肢はなかった、と思いますよ。 そして、 わたしたちは、そのような強制をしたのかどうか、 このことを真摯に考えるべきだと思います。 そもそも、原発事故に関しては、日本人すべてが加害者なんですよ。 東電や原発関係者だけにその責任を押し付け、自分たちはまったくの被害者然とできるのか、 わたしには、日本人一般のその心性が理解できない!!
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- NemurinekoNya
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自死、自殺が本質問のテーマに関係しているので、かなり危険な曲を二曲ご紹介します。 ジサツブシ https://www.youtube.com/watch?v=3vvJePdnydQ 死にたいよ。のうた https://www.youtube.com/watch?v=5lYQjcpJvO4 《バカの飲み薬》、《過呼吸ダンス》以上にシュールな曲なのですが、 なかなか考えさせられる曲です。 是非ぜひ、お聞きになってください。 死を軽く扱っているとの批判もあろうかと思いますが、 死に意味や尊厳はありません。 尊厳や意味があるのは生なのですから、これくらいでちょうどいいのではないでしょうか。
お礼
☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~ このとき(* フクシマ原発での事故処理にあたるとき) 《諸般の事情をかんがみて 犠牲的な行為を敢行する》という発想ではなくて そうではなく 《犠牲による自死というのろわれるべき意志行為を われはいますすんで欲し これをおこなう》という決意で もしそうだとしたら 実行して欲しい。と考えます。 自死にしてもひとごろしであるという命題を どこまでもはづさないようにして おのおのの実存行為をすすめて欲しい。これが 質問の趣旨であり ねらいです。どうでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という同じ反応になります。 むろん ◇ 尊厳や意味があるのは生なのですから ☆ という前提に立ってのことです。 ご回答をありがとうございました。
- globef
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>ということは 犠牲になって死ぬことも >老衰で死ぬことも ころされて死ぬことも 死に変わりない。 >★ 死に尊い、尊くないもない! >☆ のだと。 >つべこべ言うべき問題ではないと。 「死は、死 それ以上もそれ以下もなく 死に尊い、尊くないもない!」としか書いてないのに <つべこべ言うべき問題ではないと。>と 勝手に 湾曲した解釈を さも私が、書いたように解釈するのでしょうか? 犠牲になって死ぬ事、老衰で死ぬ事 殺されて死ぬ事に 良い、悪いとか 死に方に「評価」する意味がわかりません 「死は、死です。」 そもそも 質問していて 屁理屈で反論をする事、自体 アナタの中で回答が出ているのに ココに質問という形で聞くのは、変じゃないの?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ <つべこべ言うべき問題ではないと。>と 勝手に 湾曲した解釈を さも私が、書いたように解釈するのでしょうか? ~~~~~~ ☆ まちがっていましたか? むろん推測で解釈したものです。マチガイでしたら 取り消します。 ★ ~~~~~ そもそも 質問していて 屁理屈で反論をする事、自体 アナタの中で回答が出ているのに ココに質問という形で聞くのは、変じゃないの? ~~~~~~ ☆ 《推測による解釈がマチガイであったこと》と《屁理屈で反論すること》とは 別です。 あなたの中では それらがさらに同じに見えたのかも知れませんが 推測のほうは取り消します。 ということは もしその推測のほかに《屁理屈での反論》をわたしがしているのしたら それを指摘してください。 それがないと ただの印象批評であり それだけでは 絵日記を見せられたような感じしかしません。 ★ ~~~~ アナタの中で回答が出ているのに ココに質問という形で聞くのは、変じゃないの? ~~~~~~~ ☆ そのすでに出ている回答が 間違っていると思ったから あなたは回答をしたのではないのですか? そういう回答やあるいはぎゃくに賛成の投稿を 情報交換としておこなうのが この質疑応答の場ですよ。 繰り返しますと 質問者は 自分自身の内にみづからの回答を得ていようが得ていまいが さらによい答えを問い求める。こういうことでしょう。 ところで ★ ~~~~~ 犠牲になって死ぬ事、老衰で死ぬ事 殺されて死ぬ事に 良い、悪いとか 死に方に「評価」する意味がわかりません 「死は、死です。」 ~~~~~~~~ ☆ というご回答は <つべこべ言うべき問題ではないと。> と言っているにひとしいのではありませんか?
お礼を読みましたが、残念ながら質問者さんの言葉の意味がわかりません。前回答で妥当とおもっていましたが、何を問いたいのか、と言うことがわからないので、私にはもう答えて差し上げることができません。 何か文句をパラパラとつけられた気もしましたが、全体として意味不明であったので、それに応じることも難しいです。今回はこれにて失礼します。
お礼
おつかれさまでした。 ご投稿をありがとうございました。
人はいつかは死ぬのであるから、どのように死ぬのかというのは重要な事柄であり、生き様としての死に様を考えることは、有益であるとおもいます。つまり、だらしなくひーこら言いながら生存にしがみついて終に死ぬよりかは、自身の見出した希望に従って諦観以って死ぬ方が優れていると私は考えます。しかし、このような高貴な死に方をできる人は少なく、死に方を選べない人の方が多く、そしてそれが自然なことでもあるでしょう。 また、いじめによる自死は社会問題であって、その責を自死した本人に背負わせるのはあまりに酷であり非人道的であると言わねばならないでしょう。いじめはその時、その人の居場所を失わせて殺すという行為として成り立ったのであり、まだ自我の確立してない子供のこと、ガツガツ生きろという方が無理な話です。それに、社会人になっても職場いじめなどは多く存在すると聞いています。質問者風に言うならば、これこそ汚れたクウキの仕業であると私は考えます。他人事を決め込んだ大多数と、いじめを主導したグループには、なんらかの腐ったムードがあったはずです。 原発事故については、責任取って死んで来いとまでは言わないが、責任の所在を明らかにし、事件の収束に全国的に努力すべきだったし、きっとそうしたのだと思います。人災であった部分があるのであるならば、それについて審判を下すべきでしょう。
お礼
あまがたりさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ しかし、このような高貴な死に方をできる人は少なく、死に方を選べない人の方が多く、そしてそれが自然なことでもあるでしょう。 ☆ おそらく《理想と現実――あるいは 幻想と現実――》というふうに並べ立てるところから いわゆる《例外なる規定》が現われるのではないかと考えます。 また《高貴と卑俗》などという対立する二項をやはり並べ立てて思惟および行動を決めるという方式 これが影響しているのではないか。 質問は 自死も ひとごろしなのであるから 例外なくのろうべき意志行為だ そうではないか? と問うています。 然りなのか 否なのか。です。 ★ 自身の見出した希望に従って諦観以って死ぬ方が優れていると私は考えます。 ☆ それはそうでしょうね。でも問いは 別の切り口になっています。 言いかえると 《自死は それもひとごろしだから のろうべき意志行為だ》に同じ考えを持った場合 それでも実際に事件やその情況に応じてやむを得ない意志行為が その考えに反して 採られるかも知れない。そういうことはあり得るという見方です。 ★ いじめによる自死は社会問題であって、その責を自死した本人に背負わせるのはあまりに酷であり非人道的であると言わねばならないでしょう。 ☆ 《自死は ひとごろしだから のろうべき意志行為だ》と見ることと《自死を その本人に対して なじったり その責めを追求したりすること》とは 別です。 そしてむろん まだ考える余地はあったのではないかといったふうにその事態を分析することもあります。その結果 自死の責めを 本人に負わせることすらあり得ます。――ですが 《自死》をどう見るかと その行為をした本人をなじることとは別です。 そして同じくむろん その行為の以前にある人たちに対しては 自死はのろうべき行為なのだから もしそれを選択した場合には その認識と自覚とを持ってのぞめ。というふうにうったえるのも ほんとうです。 ★ いじめはその時、その人の居場所を失わせて殺すという行為として成り立ったのであり、まだ自我の確立してない子供のこと、ガツガツ生きろという方が無理な話です。 ☆ 何ですって? イジメやひとごろしを それとして成り立った人間の行為として 認めるのですか? ★ 自我 / 自我の確立 ☆ って何ですか? そんなものがどこにありますか? 《わたし》しかありません。《わたし》があるだけです。 イジメに遭って 《わたし》を忘れる子がどこにいますか? 《自我》などという勝手な言葉をこしらえて都合のいいことを言うことにばかり利用している。これほど哲学から遠い考えはないのではないか。 ★ どのように死ぬのかというのは重要な事柄であり、生き様としての死に様を考えることは、有益であるとおもいます。 ☆ とは思っていないではないですか。ただ世間受けするように作文しているだけぢゃん。世間では《自我》という言葉を使う場合がある だからおれも使ってやれ・・・これほど人間の実存から遠い生き方があるか。 ★ それに、社会人になっても職場いじめなどは多く存在すると聞いています。質問者風に言うならば、これこそ汚れたクウキの仕業であると私は考えます。他人事を決め込んだ大多数と、いじめを主導したグループには、なんらかの腐ったムードがあったはずです。 ☆ そこまでかいな 考える行為は。 【Q:パワ・ハラ電磁波はアース役が核反応させうるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7847204.html ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~~~~~ まづ 用語はすべて タトエです。とおことわりして。 ガミガミ電波が あるいはつまりテポドン・ミサイルが 入射して来たとき核融合なり何なりの核反応をひとは取りうるか? そのアース役になりうるチカラがあるか? 言いかえると 勝ち負けのたたかいをするのではなく 相手の人間という存在に対して譲歩し 相手のそのチカラをこちらはゴミ清浄化工場よろしく 人間の慈悲なるチカラで処理することが出来るでしょうか? これが問いです。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 原発事故については、責任取って死んで来いとまでは言わないが、責任の所在を明らかにし、事件の収束に全国的に努力すべきだったし、きっとそうしたのだと思います。人災であった部分があるのであるならば、それについて審判を下すべきでしょう。 ☆ 質問の趣旨は 《自死は ひとごろしゆえ のろうべき意志行為だが そののろわれるべきコトを おれはいま欲しておこなうのだ》とその勇気ある人びとは心の中で言ったとわたしたちは考えたいし そう欲する。これです。
- ukiyotonbo
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能天気暇人野次馬が原発事故を高見見物しよる。 ごちょごちょ言ってないで福島原発に許容値限界まで作業しに行ってこい。
お礼
うきよとんぼ氏よ こんばんは。ご回答をありがとう。 そうですか。そうかも知れないな。 ここでは このまま《ごちょごちょ言い》つづけますが そうですか そうかも知れないですな 上のほうへのぼって行ってしまっていますか。 《見物》ではないですがね。
- globef
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死は、死 それ以上もそれ以下もなく 死に尊い、尊くないもない!
お礼
ぐろべふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ということは 犠牲になって死ぬことも 老衰で死ぬことも ころされて死ぬことも 死に変わりない。 ★ 死に尊い、尊くないもない! ☆ のだと。 つべこべ言うべき問題ではないと。
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (α) ・・・ ◇ 特攻隊員の死を悼むことと、特攻を美談にすることは、まったく違う話です。 ☆ これは そう思いますね。 そしてもし讃えるとすれば 国の命運をかけたものと捉えた戦争に死を覚悟して兵士に成って行ったすべての人にだと考えます。 (β)・・・ ◇ ~~~~~ 呪うべき行為なのでしょう。 結果として、死を選択せざるを得なかった人ではなくて、 そのような状態を作り出したことをですが。 ~~~~~~~ ☆ そうでしょうね。しかも そのとき《死を選択せざるを得ない》としてその選択を実行するという行為については どうでしょう? 《のろうべき行為として自死をも欲した》と捉えてそのあと やっと もしそうなら たたえるべき行為だったと見るようになると思ったりします。 (γ) ・・・ ◇ ~~~~~ 自死は難しいですね。 イジメやうつ病などで自殺をする人は、精神的に極限状態まで追い詰められており、そのために正常な判断を下せない状況に置かれているので。 ~~~~~~~ ☆ 《正常な判断をくだせない状況にある》なら それは ふつうの意志行為ではないということだと思います。その場合は 別建てになるかと考えます。 すなわち ◇ 自殺をする以外に選択肢がないほどまでの状況に追い詰められていたのか、と悲しくて悲しくてたまらないです。 ☆ という場合には 一般的に言ってふつうの意志行為であるように思われます。そういう場合は それでも 自死はのろうべき行為なのではないでしょうか。 すなわち ◇ ただ、自死を選択した人が視野狭窄に陥っていたことだけは事実でしょう。 ☆ この《視野狭窄》が ふつうの判断力をうしなわせていない場合にはです。 すなわちそのように 自死をひとごろしだと のろってこそ ◇ と同時に、そこまで追い込んだ人たちに強い憤りを感じています。 ☆ というように いじめる側へのその人たち自身のそれぞれ自己到来を願いそこへと促すことが出来るのではないか? すなわち 少々こだわり魔になるとするなら ◇ ~~~~ 《自死》以外の選択肢はあったのですから、《自死》すべきではなかった、といったところでしょうか。 《自死》という選択肢を取って欲しくなかった、ということで。 ~~~~~~~ ☆ という見方は中庸でおとなしいと思われ その自死をえらんだ人に対しては 《自死も ひとごろしである。それを自覚して 自死をえらべ》と言ってやりたい。です。 ◇ ~~~~~ なのですが、《白虎隊》はまったくお話にならない。これは隊員らのまったくの事実誤認に基づいているので、全然、話にならない。 なんなら、「《白虎隊》の隊員は、みんな大馬鹿野郎だ」と極論してもいいわさ。 ~~~~~~~ ☆ わたしは このつてで言うならば 新撰組というのは バカ以前の状態にあると思ってしまいます。 (ζ) ・・・ ◇ ~~~~~~~ たぶん、福島原発に関わった多くの人たちには、他の選択肢はなかった、と思いますよ。 そして、 わたしたちは、そのような強制をしたのかどうか、 このことを真摯に考えるべきだと思います。 ~~~~~~~~ ☆ 微妙に違った見方を――初めから《自己主張》して来ており――さらに引っ張り出して来ますが このとき《諸般の事情をかんがみて 犠牲的な行為を敢行する》という発想ではなくて そうではなく 《犠牲による自死というのろわれるべき意志行為を われはいますすんで欲し これをおこなう》という決意で もしそうだとしたら 実行して欲しい。と考えます。 自死にしてもひとごろしであるという命題を どこまでもはづさないようにして おのおのの実存行為をすすめて欲しい。これが 質問の趣旨であり ねらいです。どうでしょう?