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大村喜前 千々石ミゲル

最近千々石ミゲルに関する小説を読んでいるのですが、そこに出てくる、大村喜前についてわからない点がいくつかあります。 幕府が豊臣家から徳川家と変わった後、幕府から大村家に長崎替地の案が持ち込まれたとあります。この長崎替地とは何でしょうか。 そして、大村喜前が大村家の存続を維持するために、大村家の一門の所領を返上すると書かれています。一門の所領の返上とは何でしょうか? そのためには、禁教が必要だと書かれていました、なぜでしょうか。 宜しくお願いします。

  • suns
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  • ithi
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回答No.1

sunsさん、こんばんわ。 大村氏はその成立が古く、そのため、禄高の割には家臣が多く、その上、家臣が城下町に住むものが少なく、2/3が農村に住んでいる体質の古い大名でした。そのくせ、禄高は3万石足らずの小藩でした。しかし、経済力が高かったのは、南蛮貿易の本拠地である長崎を領有していたからでした。。幕府からの命令で「長崎替地」は長崎をほかの土地と交換するということでしょう。 だから、、長崎を幕府の直轄地にされてしまうとその利潤もなくなるわけですから、経済的に苦しくなりますその上、藩主の直轄地が4000石しかないのに対し、大村庶家一門15家が合計で8000石あるわけですから、一門の意見を聞かないと内紛が起きかねません。また、財源の確保のために「一門払い」という強制的な所領没収をしたようです。「一門の所領の返上」とはこのことでしょう。 また、大村喜前自身キリシタン大名でしたが、棄教し、領内の切支丹を弾圧しました。おそらく、キリシタンの「平等主義」が藩主の権限を侵すものであるという考えからでしょう。また、「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」といって千々石ミゲルも棄教しましたが、これはヨーロッパで見てきた現実という物を鑑みてのことだろうと言われています。これも一つの理由だと思います。 詳細はこのURLを参照ください。 大村藩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E8%97%A9 千々石ミゲル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%80%85%E7%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB

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