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卒業論文についてです
自分は「(広義)源氏の発展」について征夷大将軍の地位に着目してやってみたいとおもっています! 何か参考になるような良い仮説はありませんでしょうか? お願します!
- be_able_to
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- TANUHACHI
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追記。学部の卒論の趣旨からすれば、歴史学科のそれは「史料をキチンと読めるか」「論文の書き方を習得しているか」との部分に重点が置かれています。そのため教員側は学生に対し、新たな仮説の提示など端から求めてもいません。それほど甘い世界でもありません。 それに具体的にいえば、征夷大将軍としての室町殿にどれほどの権力がありましたか?。戦国時代に「公儀」と呼ばれたのは如何なる階層の者でしたか?。 それほどに質問者は「中世的王権論」に関する知識も乏しく、権力装置としての将軍の意味も理解しているかどうかもあやしい。 今のままの課題設定を指導教員に相談してみてご覧なさい。たち所に教員からはクレームが付くはずです。あるいはそうしない教員ならば余程の能無しでしかない。
- TANUHACHI
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こんばんは、こうした質問をする場合には幾つかの前提が必要です。 (1)「征夷大将軍」の位置付け (2)「なぜ征夷大将軍でなければならないのか」もしくは「征夷大将軍でなくとも権力者としての地位を確立得たのか」の問題。 これらは全て過去の研究者により「王権論」「幕府論」「公武関係論」などの形で議論されています。 古くは黒田俊雄氏と永原慶二氏による「中世社会をどう規定するか」との議論を筆頭に、90年代から続いている今谷明氏と新田一郎氏による室町王権の問題等々研究成果も山積みです。 質問者がどの様な問題意識からこの問題にアプローチを試みているのか、この文面からは何も明らかになってもいない上に、この対象を学部の卒論で扱うなどとは無謀の至りです。 そも征夷大将軍の発生から変質そして確立された幕藩体制論にまで時間軸の視野と権力構造での位置付けを把握していない限りでは不可能です。少しはご自身の足元を見つめ、個別実態に基づく課題設定をすることが大切です。それにしても指導教員が「こんな大それたテーマ」をよく認めたものですね。少なくとも僕ならば完全にアウトにします。それほど質問者には前提が伴ってもいない状態で諸説をツマミ食いするだけのレポートにもならないものを提出する形となってしまうことも目に見えています。 もう少し「具体的な対象」を明確にしていただけませんか。僕も現在は学生の卒論指導に携わっていますが、質問者ほど非常識な学生も珍しい。史料はどうしますか?。研究史整理はどうしますか?。問題の分析視角はどうしますか?。一先ずの結語から次の段階への課題の橋渡しと展望はどうしますか?。 現在の質問者様ではこれらの質問に一つとして応えることもできないはずです。それから歴研や日本史研究、中世史研究などの雑誌論文には目を通していますか。毎年5月の史学雑誌には目を通していますか?。これらに目を通していないのであれば、恐らくは研究動向すら知らないはずです。歴史学科では歴史趣味の雑学談義に花を咲かせるほど暇はありません。少し考え直してみてください、時既に遅すぎますがね。
- catandneko9876
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「(広義)源氏の発展」についての本をたくさん読めば 仮説が見つかりますよ。 頑張って下さいねー。
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