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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:KY は 草の根民主制への第一歩ではないか。)

KYは草の根民主制への第一歩

noname#181644の回答

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noname#181644
noname#181644
回答No.14

ようやく質問者のおっしゃるクウキが何かわかったような気がします。感覚的にですが。 つまり、先生の言うことは聴かねばならない、とか、お上が言うのだから従わなければならない、などの、権力による強制力のようなことかなと。 合っていますか? それで大体OKならば、そういうクウキは別に必要ないでしょうね。権力という機能や強制力、決定権については必要だろうと思いますが、立場の上のものが言うのだから、個人的な見解でも自身を曲げなければいけないとか、そういうことは必要ないと思いますよ。 例えば、名画と言われているからといって必ず感動しなければならないなどということがないのと同じで、権威ある人が言うからと言って、従わなければならないなどということはないということですよね。 ただ、権威や権力を持っている人は強制力や決定権、人事決定権なども持っていますから、ある程度言うことを聞かないと自分の立場が悪くなってしまうとか、そういう計算はみなさんあるのではないかと思いますが、苦い話ですよね。 ただ、実際、政権などにしてもコロコロ変わるのは、国民に駄目出しされているからであって、日本の議会制民主主義は、機能している方だと私は思います。 話は咬み合ってきましたか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  つまり、先生の言うことは聴かねばならない、とか、お上が言うのだから従わなければならない、などの、権力による強制力のようなことかなと。  合っていますか?  ~~~~~  ☆ ええ。さらにふりかけをつけ添えるなら それはすでに言葉で伝えることを超えているというのが ミソです。  先生や先生の意をいだいた親らが 生徒らにすでに顔をしかめるだけで 《言うことを聞きなさい。したがいなさい》という意味のことを伝え得ているなら それは《クウキ通信》です。  つまりは お上が言っていることに逆らおうとしたら その場の周りの人たちが一斉に声も音も立てずにブーイングをし出したとか そのしかめ面だけで その人の心を決めつけようとする。出る杭を打とうとする。そのような情報通信のあり方。  ★ 立場の上のものが言うのだから、個人的な見解でも自身を曲げなければいけないとか、そういうことは必要ないと思いますよ。  ☆ ええ。このことです。そして 歴史上そのようなしかるべき潮の流れをかたちづくろうとしているのは じつは KY と呼ばれるその行為ではないか? というところまで議論を伸ばして問うているわけです。  上層部が言うのだからと言っても 問題は何を言うかその中身であって 誰が言ったかは関係ない。そんな子供だましみたいなクウキ通信は どうでもよい。――と KY の人が言っているとしたら それこそが あたらしい時代の幕開けなのではないか?  しんじんるい。    ★ 例えば、名画と言われているからといって必ず感動しなければならないなどということがないのと同じで、権威ある人が言うからと言って、従わなければならないなどということはないということですよね。  ☆ このことを KY の場合は 身をもってからだで表現しているはずです。  これは もともとそういう振る舞いの仕方が 自然で人間的で道理にかなっていて 人間にとってきわめて自由な・希望に満ちた人間のすがたなのではないか?  ★ ただ、実際、政権などにしてもコロコロ変わるのは、国民に駄目出しされているからであって、日本の議会制民主主義は、機能している方だと私は思います。  ☆ これはですね。たぶん――いえ そういう事態なのだと思うのですが それでも何かあたらしい潮の流れを嗅ぎ取ろうとするならば―― おもには外国との関係において 《クウキ通信》による権威づけや権威の保守が必要だと人びとにおいて考えられたからではないかと思います。  原発事故での対応のまづさも――つまり国内問題も――かかわっているでしょうが 情報隠しにかんしては 自民党も同じようなものだと思われますから おもに国際関係における危険さのような思いが 政権をふたたび昔の政党にもどした。のかと思っています。  ★☆ 話は咬み合ってきました〔ね〕。  

bragelonne
質問者

補足

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     《日本教=クウキ教》の批判です。  《押し籠もり》。  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからが周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

  • 民主制の中にも帝国主義(覇権思想)があり得る。

     § 1 まづ社会形態の類型をとらえます  市民社会(《わたくし》の S 圏=一階)と公民圏(《おほやけ》なるお二階 A 圏)との二階建てから成る国家という社会形態について 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) A圏とS圏との自由対話型:日本社会    (κ) 《民衆( S圏 )は自由暴君》型:アフリカ型社会  (ω) S圏内もA圏内も両圏相互としても 自由競争型:西欧社会    おおざっぱな分類です。《果たして民主主義でよいのか》のたぐいの質問とそのやり取りがつづいていますので それにちなんで何とか問題をほぐしたい。  これまでの大統領が任期を終えたあとには ことごとくと言ってよいほど石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて その大韓民国という社会は (κ)のアフリカ型ではないか?  中華人民共和国は 人民の国とうたっている割りには おほやけなるA圏のもっぱらの公民が暴君としてのさばっている。やはりアフリカ型か?  とは言うものの 現代にあっては おほやけなるA圏の人たちも 《わたくし》なる一人の市民としてそして人間として みんな自由でありその自由が互いにひとしく平等であるとうたった考え方は それとして普及しています。タテマエは 民主制です。  民主制のもとにあっても 日本型も西欧型も 対外的な帝国主義の動きは過去となりつつあるとしても 対内的な覇権主義が――じつはそれは過去の動きであったものであると同時に 現在にも残っているし―― はたらいている。という問題を取り上げたい。  § 2 民主制にひそむ覇権思想としてのアマアガリ・シンドロームについて  まづ (α)日本型と(ω)西欧型とにかんたんに捉えた説明をあたえて行きます。  (α) 対話型の社会形態は 国ゆづり型である。  (α-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  どのようにクニユヅリが成ったか?  S(スサノヲ)市民の中から出た公民 A (アマテラス)らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげた。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定し制約するような檻に住まわせたとも言える。これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (α-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群なる心理――が絡んでくると スサノヲ市民どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  すなわちこれらよき基礎とあしき部分とをふくんだところの《 S - A 》の対話型である。  そして 端的に言って アマアガリ・シンドロームは 覇権思想である。もっぱら《上から目線》によって成り立っている。  (ω) A と S とが《競争型》なるその《 A - S 》連関制  (ω-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A(おほやけ) = S(わたくし) 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  国ゆづりというよりは 国盗り・天下取り型になる。  (ω-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの社会的な意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているようでもある。  § 3  (α)および(ω) 両者を比較対照します   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向ではないだろうか。《法律》は その既成事実を保守するためにつくられる傾向があるのだろうか?  日本市民は――その昔 オホクニヌシとその息子のひとりは―― これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら 相手を神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは国の共同自治の権限を返せとは言えない。言わない。おとなしい。そして ただそれだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群が覇権思想となったヰルス)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。《主戦論》が優位に立つ場合もある。欧米主導のグローバル化に感染したゆえなのかどうか。  § 4  さらに別の A - S 連関制 とはどういう現実か  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民 S らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:《 S (=じつは 絶対的 A ) ∽ A 》連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。  対話型(α)と見た日本社会の《伝統》は そして 自由競争型(ω)と捉えた西欧社会とともに この民衆暴君型(κ)と見られるような社会と国家の動きに対して どのように対処して行くのがよいであろうか。  いったい何が問題なのか? 何が悲しくて何を問題としているのか?  お考えをお寄せください。