• 締切済み

武装SSの階級について

ナチスドイツの国防軍(陸軍・海軍・空軍・武装SS)の階級について質問があります。陸・海・空の軍人の最高階級は元帥ですが、武装SSでは最高でも上級大将のようです。ヒムラーの襟章は特殊ですがSSライヒスヒューラー(SS全国指導者)と訳されておりますが、元帥と同格なのでしょうか? そう言えばSAの幕僚長エルンスト・レームの襟章も特殊でしたね。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数1

みんなの回答

  • hgg83474
  • ベストアンサー率28% (37/131)
回答No.3

軍隊における階級と指揮下の部隊規模はほぼリンクしています。 武装SSを主に編成された最大規模の部隊組織が装甲軍まででしたから、 更に上位の軍集団以上のSS単独部隊が創設されていれば、 その後元帥が誕生していたかもしれませんね。 SSの野戦部隊は国防軍とは別組織でしたが、 別組織とは言えSSは国防軍よりも規模も小さくドイツ軍の編成上、 国防軍の組織下に組み込まれていました。 そのため国防軍の階級に順ずるように同様の階級がつくられました。 ヒムラーのSS長官という役職は戦闘集団の階級と言うよりは、 SS組織全体を統括するための政治的な意味合いが強かったように思います。 武装SSがその規模を増すごとにヒムラーの政治的地位もあがり、 その意味では一般の野戦軍の元帥よりもはるかに多くの権限が与えられていました。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.2

ヒムラーは、空軍のゲーリングのような地位にあったのではないでしょうか。 ゲーリングは、ナチスドイツのナンバー2の地位にあり、「Reichsmarschall (国家元帥)」という「ゲーリングだけの階級」にあり、ナチスドイツが消滅するまで「空軍総司令官」の。 空軍には何人も「Generalfeldmarschall(元帥)」がおり、要職に就いていましたが、ゲーリングの階級も職務も「別枠」だったと言えましょう。 ヒムラーは、武装SSと「普通のSS」の全体のトップであり、「親衛隊全国指導者」以外にも様々なナチスドイツのトップの役職を兼ねていました。 そうしたヒムラーが、武装SSの最高指揮官として制服を着る場合につけた階級章が、質問者さんの指摘される「特殊な階級章」であった、という程度のことでしょう。 海上保安庁は、「海軍のような組織」ですが、国土交通省の外局です。海上保安庁長官などの海上保安庁のトップの職には、海上保安大学校を卒業するなどして、海上保安庁の「士官」として勤務してきた人ではなく、東大法学部などを卒業した国土交通省の官僚が就任します。 海上保安庁長官は、制服を着ない「役人としての仕事」をもっぱらするわけですが、海上保安庁という「海軍のような組織」のトップとして儀式に出るような場合は、海上保安庁の士官の制服(海軍士官の制服と同じデザインです)の制服を着て、海軍大将(海上自衛隊では、海上幕僚長たる海将)と同様の階級章をつけます。海上保安庁で、その階級章をつけるのは、海上保安庁長官という「よそ者」一人だけです。 「親衛隊全国指導者」以外にも多くの要職に就いていたヒムラーの、「武装SSの最高指揮官」としての地位や階級章は、海上保安庁長官(国土交通省の官僚)が、海軍のような組織である海上保安庁のトップとして儀式に出る時の立場や階級章のようなもの、と考えたら分かりやすいと思います。 ヒムラーは、確かに「武装SSの最高指揮官」でしたが、それは彼のメインの仕事ではなかったのです。

  • octopoda8
  • ベストアンサー率37% (346/925)
回答No.1

こちらのサイトはいかがでしょう。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~reserch/Uniformen/da_waffenss.htm

関連するQ&A

  • 西郷隆盛の階級

    西郷隆盛は大日本帝國陸軍および海軍発足後、史上初の元帥(陸軍)となりました。 しかし、西郷どんの「元帥」は階級としての「元帥」であり、その正式名称は「陸軍元帥」なので、以降に誕生する敬称・名誉的な「元帥」即ち「元帥陸軍(海軍)大将」とは違いますよね。 その為、階級としての「元帥」が廃止された後、西郷どんは「陸軍大将」になってしまいますが、この場合、西郷どんは「降格」として認知されているのでしょうか? また、歴史上において西郷どんの自己最高階級は「陸軍元帥」と記載されている場合が多いですが、実際に最高階級を固定化するとなれば、階級廃止後の「陸軍大将」でしょうか? それとも、あくまでそれ以上の階級に位置していたわけだから階級としての存在が廃止されたとは言え「陸軍元帥」になるのでしょうか?

  • one pieceの海軍の階級について

    こんにちは。 私はone pieceにはまっており、様々な興味を抱いているのですが、作中における海軍の階級について皆様にご教示願いたい事柄がありますので質問させて戴きます。 階級は上から元帥、大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉・・・ と続いていきます。 質問は、それぞれの階級が、現実世界ではどの程度の地位にあるかということです。警察の階級や中央省庁の役職が分かりやすいので、詳しい方はお願いします。例えば、元帥が大臣、大将が事務次官みたいな感じで。 又、それぞれの階級が 例えば、元帥の場合は、軍人として最高位なので、海軍全体を従えることになります。海軍が100万人いたとしたら、それ全体。 大将は3人なので、約30万人。みたいな感じでお願いします。 問題はそこからです。 そのように考えて行くと、各、階級は、どれ位の人数を従えていた計算になるのでしょうか。 あと、作中の矛盾なのかもしれませんが、たしぎは確か海軍本部少尉(曹長)だったはずです。19で少尉ってかなり早い出世だと思いました。スモーカーと同じく、所謂キャリアみたいなものなのかな?と思いました。多分、青キジやガールもそうだったんだろうな。 ややこしくて、面倒くさい質問ですが、どうぞ宜しくお願い致します。

  • 陸士海兵出身以外の軍人の階級

    旧日本軍で、陸軍士官学校・海軍兵学校の主流の軍事教育を受けた軍人の他に 軍医や技術将校がいました。 このような人たちは、階級昇進について 陸士・海兵卒の人たちと 別の基準があったのでしょうか。 森鴎外は、軍医としては最高の役職の軍医総監を勤めながら、階級は中将どまりでした。 たとえば、陸士・海兵以外は大将になれないというような 規則があったのでしょうか。 よろしく御教示ください。

  • 陸海空軍に関する質問

    陸海空軍に関する質問です。 特に国や時代は問いませんので、いつの、どこの陸海空軍でも構いません。 (1)陸海空軍いずれかに配属になった者が、別の軍に移った例はあるのでしょうか? 例えば、空軍パイロットとして従軍していた者が、海軍の潜水艦に搭乗することになったという例です。 (2)陸海空軍は戦場も部隊構成も大きく異なると思われますが、それらは専門性が高く、互いに理解しえないものなのでしょうか(陸軍には海・空軍は理解できず、海軍には陸・空軍は理解できないといったように)。 あるいは、軍事という面では共通しているので垣根は割と低いのでしょうか。 (3)陸海空軍の最上位の地位(大将など)の上に、三つの軍を統率する地位(国家元帥・最高司令官など)が置かれることが多いと思います。 しかし、国家元帥や最高司令官といえど、陸海空軍いずれかの出身ですよね。 自分の出身以外の二軍についても、適切な意思決定が下せるのでしょうか? 例えば、アイゼンハワーはノルマンディー上陸作戦の最高司令官でしたが、彼自身は陸軍の出身ですよね。 陸軍出身の彼が、海軍や空軍に対して適切に指示が下せたのでしょうか?

  • 自衛隊に大将創設の動きは?

    自衛隊には大将に相当する階級はありませんが、創設する動きはあるのでしょうか 准将を創設しようかという考えはあるのに大将については聞きません。 幕僚長は在職中に大将相当の待遇を受けていますが、階級として制定するのには何か不都合があるのでしょうか 戦前の日本軍で大将は官吏最上級の親任官で内閣総理大臣と同格でした。文民統制の観点から総理大臣や防衛大臣よりも下位に位置づける為かとも思いますが、お手本の米軍では大将がいますね。正式な大将があった方が士気があがる気がします。 そこで、質問です 1. 公務員として幕僚長は事務次官より下位のポストか(例えば給料) 2. 米軍では現役の大将は常時何人くらいいるのか 3. 陸上総隊を作っても司令官が陸将では不都合ではないか 4. 現状の方面総監が大将でなくても問題はでていないのか 以上よろしくお願いします

  • リビアのカダフィー大佐について

    いつもお世話になります。 リビアでは、最高権力者にカダフィー大佐が君臨しています。昔は、中佐だったですけど。もっと上に軍隊なら少将とか大将とか陸軍大臣とかありそうなのに権力を握れるのでしょうか? 軍隊なら階級に従うのは当然だと思いますが、そんなに偉い地位でもないのに最高権力者と言われるのはどうしてでしょうか?

  • フランスを敗戦国扱いしようとした経緯。

    第二次世界大戦に於いて、戦後にアメリカがフランスを枢軸国・敗戦国にしようとしていたって話を聞いたのですが、これって何故なのでしょうか? ドゴールの政治上努力によって自由フランス軍をポーランド、オランダ、ベルギーの亡命政府と同格にしようと必死に頑張り、紆余曲折ありましたが結果的に成功して連合国・戦勝国になったと言われてますが、第二次世界大戦が勃発した時点ではフランスは連合国側で参戦しています。 1939年、ナチスドイツのポーランド侵攻により同盟国であったイギリスとフランスが相互援護条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告しています。 1940年5月10日、ナチスドイツがヨーロッパ西部への侵攻を開始し6月14日にはドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させ、その後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立されるのですが、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」(後に自由フランス)を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンス運動を支援し、フランスは二つに分かれます。 大戦後半になり、連合軍がノルマンディー上陸作戦を開始すると自由フランスのフィリップ・ルクレール将軍指揮下の自由フランス第2機甲師団が連合国側に参加して参戦し、パットン将軍らとパリ入城を果たしフランスを解放します。 ヴィシー政権は解体され、その正当性は認められず、自由フランスが正式なフランス政府として承認されましたので、フランスは連合国であり、開戦直後に降伏した訳でもないし、上記の様に宣戦布告から降伏まで1年弱、実際は兎も角両国は交戦状態でした。 ならば枢軸国・敗戦国する必要等ないですし、ドゴールの政治上努力しなくても、簡単に連合国・戦勝国扱いされる気がするのですが。

  • ドイツ外相・リッペントロップの制服

     ナチスドイツは、総統のヒトラーをはじめ、軍人以外の主要幹部も制服を着用している写真が多く残されています。  多くは親衛隊の制服ですが、親衛隊の階級を持っていない場合は褐色のナチス党制服だったりします。  しかし、外相のリッベントロップは、しばしば他の幹部と違う制服を着た写真が残されています。(下記はいずれも同じタイミングですが、その他にもペタン元帥とヒトラーの会見時など、同じ制服を着用した写真があります) ◆1938年5月6日、ヒトラーのローマ訪問に随行した際 http://images.google.com/hosted/life/l?imgurl=85f019f9d9bc2f08&q=Joachim%20von%20Ribbentrop&prev=/images%3Fq%3DJoachim%2Bvon%2BRibbentrop%26imgsz%3Dxxlarge%26ndsp%3D20%26hl%3Dja%26safe%3Doff%26sa%3DN%26um%3D1 ◆同上、フィレンツェにて http://images.google.com/hosted/life/l?imgurl=3f7656a8d8c9f235&q=Joachim%20von%20Ribbentrop&prev=/images%3Fq%3DJoachim%2Bvon%2BRibbentrop%26imgsz%3Dxxlarge%26ndsp%3D20%26hl%3Dja%26safe%3Doff%26sa%3DN%26um%3D1  褐色でなくて黒、帽子の意匠もずいぶん違います。フィレンツェの写真を見ると、右端に写っているボーデンシャッツの着用している空軍の制服に似ている気もしますが、帽子の上部に装着されている国章がばかでかいのが気になります。  リッベントロップの着ている制服は、どういう種類のものなのでしょうか。また、なぜ彼だけが違う制服を着ているのでしょうか。  ご存知でしたら教えてください。

  • 戦時中の日本人は、実は”人道的”だった!

    ■杉原千畝 http://video.fc2.com/content/20140212AQ1qxmee&tk=T0RjME9EVXlPVFk9&yput=16236 日本の官僚、外交官。 第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる[1]。その避難民の多くが、ユダヤ系であった この話には続きがあって・・・ ■樋口季一郎 http://say-move.org/comeplay.php?comeid=1229192 日本の陸軍軍人。兵庫県淡路島生まれ。陸軍中将従三位勲一等。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。 1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連~満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めされていた。樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った。 その後も難民は増え続け、JTBの記録によると、満州から入国したドイツ人(ユダヤ人)は、1938年、245名となっている。松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。但し、亡命ドイツ人がすべてユダヤ人だった訳ではなく、多数の難民の殺到に関する文書的裏付けも目撃者もない。 オトポール事件については、当初2万人のユダヤ系避難民が救われたとされ、あまりの数の多さに事件の存在自体が疑問視されていた。これは樋口の回顧録の誤植から流布した数字であり、樋口の遺品から18名の写真が発見されるなど、真相が解明されつつある。 --------------------------------------------------------------------------------- その他にもイギリス海軍の海兵を救出した工藤俊作など、おおよそ国際社会からなんら非難される筋合いの日本人はいません。 ■工藤俊作 http://say-move.org/comeplay.php?comeid=1177415 日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国艦船の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として有名である。 従軍慰安婦という朝日新聞のデマで、これほどまでに侮辱されっ放しの日本人。 実はこんなにも人道的でした。 もっと声を大にして教育すべきでは? 日本軍人は明治時代から、世界で最も正義感が強く、実直だったと思います。 基本的には、今でもそうだと思います。

  • ドイツ降伏直前のベルリン周辺部隊の指揮系統について

    1945年4月~5月、ソ連軍によるオーデル河渡河からベルリン包囲・ヒトラー自殺までの間の ベルリン周辺で戦っていたドイツ軍部隊の指揮系統を教えてください。 東部戦線では北から順にマントイフェルの第3装甲軍、 シュタイナーのシュタイナー作戦集団、 ブッセの第9軍、 グレーザーの第4装甲軍、 西部戦線ではエルベ河東岸に布陣するヴェンクの第12軍、 さらにベルリンにはヴァイトリングのベルリン防衛軍が存在していたと思います。 このうち東部戦線の第3装甲軍、シュタイナー集団、第9軍は ハインリーチのヴァイクセル軍集団の隷下にあり、 第4装甲軍はシェルナーの中央軍集団隷下にあったと思います。 では、エルベ河の第12軍とベルリン防衛軍の直上の上位司令部はどこなのでしょうか? これらもヴァイクセル軍集団に属していたのでしょうか? それとも、ベルリン防衛軍は陸軍総司令部の直轄部隊で、 第12軍はカイテル元帥がヴェンクに直接ベルリン救援を命令していたように、 西部戦線部隊を統括する国防軍最高司令部の直轄部隊だったのでしょうか?