神について何故ひとは哲学しないのか?

このQ&Aのポイント
  • ひとはなぜ神について哲学しないのかについて考える。
  • 日本人にとって神についての勘違いが多いことが指摘される。
  • 偶像崇拝という勘違いが一般的であると言える。
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神について何故ひとは哲学しないのか?

 せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

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回答No.10

今晩はです。 この点については、 bragelonneさんと眠り猫の神に対する考え方が近いので(最近、あれほど強く否定していた《非経験》もありかなと思い始めています。まぁ、私は、この術語を積極的に使う気にはなりませんが…)、 特にツッコミを入れたくなるところもないのですが、 ☆☆☆☆☆☆  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。 ☆☆☆☆☆☆ には多少の違和感を覚えます。 たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。 この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。 決して無条件でこのことを信じているのではない。 まして、この場合、少なくとも表面的には《神》はでてこないと思います。信じているのは、神ではなく、人間の善性や理性といったところでしょうか。 なので、人間の善性や理性は、bragelonneさんがここでいう《かみ》という概念───概念という言葉を使うと、叱られちゃうかな───と合致しないのではないですか。 また、 「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。 まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。 ☆☆☆☆☆☆ にある、《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。 これ、本質問にはまったく関係しないのですが、 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。 仏教の本家、インドでは、仏性・buddha-dhatuなる語は、ほとんど使われていないようですね。使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。 なのですが、なぜか、中国では如来蔵よりも仏性という言葉の方がもてはやされた。で、中国から仏教を輸入した日本でも、如来蔵ではなく、仏性という言葉を使うようになった。 で、 このdhatuという言葉が、なかなか曲者らしいですよ。通常、漢訳では、これには《界》という字をあてるらしいのですが(たとえば、法界=dharma-dhatu)、なぜか、《性》(=基体?の意味か)。私が使っている辞書にはのっていないのですが、仏教の百科事典とも言える世親の『倶舎論』には、dhatuには《種族》とかって意味も示されています。なので、buddha-dhatuは、《仏の種姓》とも訳すことができるんでげすよ。こちらの方が、カースト制度のインドにはふさわしいような気もするんですが。。。 いやまあ、細かい議論は抜きして、《ブッダター》はまずいと思いますよ。 そうそう、だいぶ前───といっても二・三カ月ほど前ですが───に教育テレビの地球ドラマティックとかいう番組で見たのですが、 アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、 《かみ》に該当する言葉がないそうです。 確か、この先住民の使用する言語には、テンス・時制(未来・過去のテンス)がない。現在時制しかない、という話も出ていましたよ。その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。 で、この部族に訪れたアメリカ人の宣教師、信仰が揺らいで、(キリスト教の)神様を捨てちゃったそうです。 で、現在、言語学者になり、この部族の言語の研究者になったそうです。 この話を聞いて、眠り猫は、 「なんか嘘くせぇ話だな~。ねぇのは、キリスト教でいうところの神・Godという概念だろうが……」 と思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  この間つまりねこさんのご不在のあいだ けっこう感覚的には複雑な思いが生じて来ており いま 微妙な気持ちではあります。  質疑応答が進展しているようなしていないような 複雑な感覚です。  同じ質問をつづけているのですが それでも進展が少しづつあるような感じを一方でいだき 他方では こりゃあもうだめだというようなシルシのようなものが見えているようにも感じます。  まア 愚痴です。気を取り直してまいります。  ★ ~~~~  たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。  この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりです。しかも この場合の《信じる》は 神を信じるという用法から派生したものだと見ます。経験的なものごとや人間を対象にした場合も 信じるを使うというのは 強調の用法であるとです。  あたかも神を無条件に受け容れるという場合に準じているようだということで 人間やものごとを信じるという用法を見つけたのだと。  だって 信長も自分を神だと言い出したようですし アラヒトガミを言う契機もあったでしょうし これらは 《神》をタトエとして用いる二次的派生的な用法だと見られます。  八百万の神々の場合は 二次的用法というよりは 《神》の分身だと見ておくと分かりやすいようです。    女将とかうちのカミさんというときには どうなんでしょう。  次は 別の問題のようです。  ★ ~~~~  「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。  まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ これについての答えは かんたんです。  《非思考ないし非経験》ゆえ 《道理に合うか合わないか》は人間にはついぞ分からないということになりますから。  神は 無根拠だということになるようです。  経験合理性に合うか合わないかの思考を超えています。  ★ ~~~~  《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。  ~~~~~~  ☆ これはつまりこういうふうにすでに神ないし聖霊にかかわって《精神のハタラキ》があるというときには すでに非思考の庭がわが心に成って信仰という動態がはたらきはじめたあとのことだと見ます。  たしかに  ☆☆(趣旨説明欄) 6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  ☆ というように《聖霊がやどる》のを――無根拠に――自覚したあとでは 《精神のハタラキ》は(そして 同時に身における知覚やヒラメキなるハタラキも同じくだと見られるのですが) そのやどった聖霊(ないし自性清浄心)が作用していると捉えてもマチガイではないでしょうね。  少なくとも主観の内では そのように認識しうると考えられます。自分の思考や感性を超えた内容がふと得られたというときには・つまりヒラメキにおいては そう認識されうると思います。  恩寵の光と自性清浄心とをひとしいと見てよろしいでしょうか?  ★ 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。  ☆ ええ。いつだったか それを見て あれーっと思ったのです。ですが ブッダターもあるみたいです。こちらのほうが 分かりやすいので使っています。どうしても使い分けしなければならないようでしたら おしえてください。  ★ 使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。  ☆ ええ。駒沢大の何とかいう先生の『如来蔵思想の何たら』という著書を読んだことがあります。タターガタ・ガルバのほうが 何というか正式なんでしょうか?  でも   一切衆生 悉有仏性  なる文句は よく引き合いに出されるようですよね。  と言いつつ 岩波の仏教辞典を見てみたら ブッダターは出ていないですね。どこでわたしは見たのだろう?  たしかにヱブ上でも検索してもなかなか出て来ないようですね。  ローマ字の buddhata でようやく次が出て来ました。  http://www.drjenniferhoward.com/terminology/Buddhata.asp  《 buddha nature うんぬん》とあります。  ふうーう。ぜんぜん無いってことはないようです。  つまりたぶん もし無いようでしたら わたしが勝手に シューナター(空)から類推して ブッダターをつくってしまったかも知れません。  次のサイトでは 《 Derived from ’buddhadatu’ (Sanskrit), which means ’essence of the Buddha,’ referring to the Buddha Nature or seed. 》と説明しています。  http://www.experiencefestival.com/buddhata  ブッダダートゥの簡約なかたちなんでしょうか?  いちおうどうしてもダメだというのでなければ 使うことにしたいと思いますが?  ★ ~~~  アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、  《かみ》に該当する言葉がないそうです。  ~~~~~  ☆ こういう話は 初めて聞きました。  ただし 日頃思っていることは そう言えば日本語に《かみ》はあっても 《信じる》はなかったのかなアです。  《まこと。まことに思う》といった表わし方なんでしょうか?  そうすると 《かみ》の語がない場合もひょっとしてあるのかなアとも思いますが ねむりねこさんは 《アニミズムとしてのかみがみ》はあって ただひとつの神としてのカミがないのだろうという見立てなんですね。  これは どう捉えればよいでしょう?  ★ ~~~~  その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。  ~~~~~~  ☆ そう説明されると そうかなぁとも思ってしまいましたが よく分かりませんね。  あぁ ありました。  ▲ (ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観) ~~~   http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%80%E3%83%8F%E3%83%B3%E2%80%95%E2%80%95-%E3%80%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%9C%AC%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3-%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88/dp/4622076535  § 内容紹介  とにかく驚きは言語だけではないのだ。  ピダハンの文化には右/左の概念や、数の概念、色の名前さえも存在しない。  神も、創世神話もない。  この文化が何百年にもわたって文明の影響に抵抗できた理由、そして  ピダハンの生活と言語の特徴すべての源でもある、彼らの堅固な哲学とは……?    ● (同上:カスタマーレビュー / 「宗教」なんかいらない民族)~~~   ・・・彼らは、直接経験からしかものを語らない。よって、彼らが実際に「見た」自然界の精霊などの若干の信仰的対象を除いては、いかなる抽象的な宗教も起源の神話も持たない。・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ アニミズムはあるみたいです。  《宗教がない》という報告があるとしたらそれは 自覚ないし自省しないかたちにおける無神論なんでしょうか?

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noname#181644
noname#181644
回答No.9

お礼を聴いて、虚実皮膜論というタイトルを思い出しました。 それはさておき、。 虚とされている部分は想いの部分であると解釈しましたが、私は、それは虚とは思いません。 また、虚なるものが、事実世界に現象しないとも言えないので、虚と実のミックス具合については、 少し意見が異なるかもしれません。ケータイからですので、短文ですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  タトエがどこまで適当であるか。これは さらに検証する余地があると思います。  要は 事実に直接にはもとづかない人間の想像による表象というものを 《虚構》と言っています。  むろん主観真実です。  ただし それが妥当であるかどうかは 必ずしも問われず それは 事実認識と一緒にした広い主観真実として 自己表現されたときに 妥当性が問われます。  その内容がほかの人びとの主観真実と共同化できるか――つまり 常識となりうるかどうか 常識に合っているか――は そこで決められて行きます。  そしてわざわざ虚数を引き合いに出して タトエとしたのは何故か?  これは ひとの自己表現には ウソやマチガイをまぬかれないところがあるからです。  ウソやマチガイに気づいたときには 虚数の i を自乗することになります。 i を自乗して マイナス一(いち)( -1 )となって われがわれに還るからです。(実数部があるときにはです。実数部がゼロのときには すでにマイナス一( -1 )のみの状態になっていて 人とのまじわりが成し難くなります)。  ★ 虚なるものが、事実世界に現象しないとも言えないので  ☆ 虚なるものを自己表現して それが事実をかたちづくることはあり得ます。  虚と実のまとまった自己表現も 虚だけの自己表現も それらが事実世界にすでに現象しているなら そのことは 事実として認識されるようになります。  (ただし 不法行為などの無効の事実は なかったことになります)。  ★ 虚実皮膜論  ☆ 聞いたような知らないような感じで つまりはよく知らなかったのですが けっきょくわが自己表現は 自然科学の事実認識でさえもが 虚数部を許容した芸術行為だと思っています。

回答No.8

自由に意見していいなら、言いたい事は色々あるけど、個別テーマで進展が遅々として無い事はお互いさまで、似たような事を何度も言う事にしかならないでしょう。 おそらく神については、日本の風土にしみついた仏教的慣習で、それを語る事が全てにおいで無根であり無い事柄である、とでも言うに様な傾向があるのでしょう。 釈迦の無を実際理解していなかったから、無と言われて全てがそんなのありゃしねーだと考えていた。 そんなタコつぼ君の頑固さを、最近になってようやく私も目の当たりにしましたが、彼らについては「空」の内訳から切り崩せば陥落できるだろうと考えます。 私もぼちぼち進めますが、あなたの方がこの切り崩しは先に進んでいるかもしれないから、お先に薦められても問題ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 釈迦の無を実際理解していなかったから、無と言われて全てがそんなのありゃしねーだと考えていた。  ☆ ここが分かりません。  諸法無我の無でしょうか。《全てがそんなのありゃしねーだ》 これも理解が届きません。  ★ 無根 / 無い事柄  ☆ とつながっているのだろうか。これも分かりません。  ★ そんなタコつぼ君の頑固さを、最近になってようやく私も目の当たりにしましたが、彼らについては「空」の内訳から切り崩せば陥落できるだろうと考えます。  ☆ わたしとの違いについて述べます。    わたしはこの質疑応答の場で 分からないから質問する場合とかなり自信のあるたたき台を用意して問う場合とがあります。  自信のある場合でも 相手の理論や見方について批判するのであって だから人についてではありません。したがって《人をその議論によって切り崩す》という見方はしていません。  批判をするのは あくまで文章の中身についてです。(いわゆるアラシ回答に対して 人を問題にする場合は 例外です)。  このように思います。  分からなかったところは 考え続けますが その後の行方については いま何とも保証は出来ません。

noname#181644
noname#181644
回答No.7

細かく述べていただきありがとうございます。 >非思考の庭については あたかも虚構が主観真実として ほかの事実とともに 現実を構成します。その意味で《実在》です。目には見えないのですが。 の部分ですが、ここで虚構と言われているものは何でしょうか? 補足説明の方よろしくお願いします。 動的であり、静的である態度というのは、例えば理にかなっている、というのはいかがでしょうか。そのようなものをイメージしますが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 動的であり、静的である態度というのは、例えば理にかなっている、というのはいかがでしょうか。そのようなものをイメージしますが。  ☆ さとりは動態であると言ったのは 次のような意味です。    すなわち  ★ 理にかなっている  ☆ と見るのは 具体的に何らかの問題についてひとつの答えが提出されたときなどのことです。  つまり すでに動態的な過程において さとりはヒラメキとして得られ そこで知恵が発揮されます。  この生き動き存在するという動態を抜きにして 《最高のさとりだの知恵だのと 静態的なものを望むこと》は くるっています。それが得られたと宣言するのも おかしい。あたかもおれは神であると言って精神錯乱に落ち入ったようなものです。  人びとは やさしいから この狂気にもおつきあいして ブッダターなる概念を持つことができたりしています。けれども ウソはウソ――いくら方便でもウソはウソ―― そして中身のないことは中身がないのだとはっきり見てそう言わなければいけません。どうして千年単位で振り回されなければならないのでしょう?  ★ ~~~~~   >非思考の庭については あたかも虚構が主観真実として ほかの事実とともに 現実を構成します。その意味で《実在》です。目には見えないのですが。  の部分ですが、ここで虚構と言われているものは何でしょうか?  ~~~~~~~  ☆ この主題は たとえば次の質問で回答者のみなさんとやり取りしています。   【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html  理数系にはよわいので 特にこの質問ではみなさんに助けられてやり取りをしています。  一般に 複素数が a + bi と成っているように    自己表現= 実数部(事実) + 虚数部(虚構)  であるのではないかと問い求めています。むろんこれは タトエによっています。  つまり虚数部が 《虚構》のことです。  実数部が 《事実(つまり 人にとっては事実認識)》であり この事実と虚構とを合わせて 人間にとっての《現実》があります。  《現実》は 先の動態におけるさとりなる見方にも呼応して そのつどの《自己の主観の表現》としてその道のりをあゆむことです。人生は 巡礼の旅路です。  《虚構》――あるいは イエス・キリストの物語というように 想像力とヒラメキを駆使して表現した文章――は 言葉にした虚構(オシエでもある)とすでに成っているなら それは《思考の緑野や感性の密林》という経験世界に属します。    けれども そのヒラメキを得る前の状態としては 《非思考の庭》において《しんじる》というやはりこれも同じく動態が 作用していると考えられます。  《実在》という言葉は 特に使わなくてもよいかも知れません。  アブラハムは おこないや考えによってその存在がみとめられたのではなく しんじるによってだと言われます。

noname#181644
noname#181644
回答No.6

すいません、No.4訂正です。哲学可能かどうかは、三つ目のスターの話では無く、四つ目の自己の何がしの方でした。

bragelonne
質問者

お礼

 了解しました。  ★★(回答No.4) ~~~   ・今までにない自分自身。できなかったことが出来るようになった、(内面的に)生まれ変わった、など。つまり、自身の可能性を、神という言葉で仮に置き換えた。自己実現など。  これは哲学的に考究可能かもしれません。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 《神》と呼ぶのは あくまで二次的な派生用法だと断った上では 自己実現の過程として捉え得るかも知れません。

noname#181644
noname#181644
回答No.5

先日、無所有所や非想非非想処のお話をしたと思います。この、非想非非想処が、おっしゃるところの不可知に相当しているのではないかと思います。 非知というのは、知に非ずといういみですが、字義を使い分けることが許容されているならば、智慧と言い換えることも出来うるかと思います。この智慧は、無相、を空にしたところ、無相空住(むそうくうおう)であり、それが覚りの境地とも言われていますが、この無相空住は、それ以前の、六識の空住と、無所有所の空住、非想非非想処の空住とは関係がないとされています。そういう意味でも、質問者の非知と称するところのポジショニングは、この無相と似ているかなと。しかし、無相すら空じてとらわれないという点で、少し違うかなと考えました。 したがって、不可知以前の名識はスルーして、ただ非知(の領域、言語によって規定された立ち位置)について論ずることが了なのではないかと思いますが、如何でしょうか。 また或いは、その非知の示唆するところとその先について。 私は、非知と称されているそれを、実在の空(=とらわれない)と仮に称して論述したいと思います。 実在であるというのは、ただ身に付いているということです。 生き方や振る舞い、所作が、清らかで身に付いているということを、実在と言いたいと思います。 しかしながら、それではただの高貴な人物にすぎない。そこで、その実在にとらわれない、という意味を付け加え、 (実質的に)高貴であるのに親しみやすい人、という人物像を打ち出してみた。 更に進んで、清い人、素直な人、など。 神とは異なるアプローチかもしれないが、私にとってはこのようであります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 非知。あるいはその非知なるナゾの何ものかが あたかも宿るわが心なる《非思考の庭》  これについては もし〔ゴータマ以外の〕ブディズムに拠るとすれば  ○ 自性清浄心 もしくは 一切衆生 悉有仏性のブッダター(仏性)  のことです。  ★ 無相 非想非非想処  ☆ については省略しました。無色界は 精神の緑野・思考の草原に属します。そこを超えているのが 非思考の庭ですから。  あるいは 実践の態度としては  ○ 無住処涅槃  が当てはまると考えてよいのではないでしょうか。往相還相なら この世における還相としての立ち場です。  ★ ~~~~  生き方や振る舞い、所作が、清らかで身に付いているということを、実在と言いたいと思います。  しかしながら、それではただの高貴な人物にすぎない。そこで、その実在にとらわれない、という意味を付け加え、  (実質的に)高貴であるのに親しみやすい人、という人物像を打ち出してみた。  更に進んで、清い人、素直な人、など。  ~~~~~~  ☆ 非思考の庭については あたかも虚構が主観真実として ほかの事実とともに 現実を構成します。その意味で《実在》です。目には見えないのですが。  目に・また心に目に見えるようになるのは ヒラメキとして何らかのイメージや言葉として表わし得る何かを得たときです。  つまり ブッダターまたは タターガタ・ガルバ(如来蔵)が 非思考の庭にやどる。そしてそれの ヒラメキなどをつうじての現実のはたらくすがた。これが 自性清浄心の実践だと考えられます。ボディサトワと言ってもよいと思われます。  その中身は ヒラメキを言葉にして表わしたその命題について 個々に実際には吟味・検証して行く。こうなります。これが さとりという動態的な過程になります。型にはまった静態的なさとりはありません。

noname#181644
noname#181644
回答No.4

難しいですね。微妙な言葉の違いを感覚されて使われているようです。 >ホモ・サピエンス・サピエンスは どうして《かみ》という言葉を持ったのでしょう? どのようにして持ち得たのでしょう? 神というのは、日本では、公僕のことをお上と呼び習わしたり、妻のことを家庭ではお上、女将(おかみ)と呼び習わしたりしていますが、問われているのはそういうことではないでしょう。 言葉で表現できうる以上、それに相当する何かがあった、或いはあるというのが妥当と思いますが、あくまで観念や概念として存在するとか、或いはさらに、いうなれば、概念よりもより概念的、つまり知の萌芽、(それ以前は非知)ということになるのかもしれません。イデアのイデア、というようにです。 しかしそれを求めてしまうと、いつまでもその求めが終わらないということにもなってしまい、或いは現実離れを起こして精神的な不具合を起こしてしまう恐れもあるかと思います。注意すべき所ではないでしょうか。 あくまで想定ですので、あやふやな文章を綴ることになってしまいました。面目ありません。参照にもならぬかもしれません。 個人的には三つ、四つの見解を持っております。 ・神というのは実在の民族であった。その長を神という。 ・乳幼児の頃に獲得した大人像 ・神というのはいわば手の届かない存在、スターダムのことを言う。イチローやマイケル・ジャクソン、など。 ・今までにない自分自身。できなかったことが出来るようになった、(内面的に)生まれ変わった、など。つまり、自身の可能性を、神という言葉で仮に置き換えた。自己実現など。 3つ目は哲学的に考究可能かもしれません。あくまで途中の考えであり参考にもならないと思います。気をつけて読んでくさださい。 また追って回答すると思います。ひとまずこれにて。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ ~~~~  言葉で表現できうる以上、それに相当する何かがあった、或いはあるというのが妥当と思いますが、あくまで観念や概念として存在するとか、或いはさらに、いうなれば、概念よりもより概念的、つまり知の萌芽、(それ以前は非知)ということになるのかもしれません。イデアのイデア、というようにです。  しかしそれを求めてしまうと、いつまでもその求めが終わらないということにもなってしまい、或いは現実離れを起こして精神的な不具合を起こしてしまう恐れもあるかと思います。注意すべき所ではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ この心配は ですから 要らないわけです。  わが心なる《非思考の庭》は ひょっとすると  ★ 知の萌芽、(それ以前は非知)  ☆ であり得ると思われます。つまり ヒラメキによる場合です。  ですが その《非知を擁している 非思考の庭》は 知に非ず・思考に非ずであるのですから   ★ しかしそれを求めてしまうと、いつまでもその求めが終わらないということにもなってしまい  ☆ という心配は いっさいありません。そのような《悪しき無限》が起こったとしたら それは《非知》ではなく《非思考の庭》でのことではないとはっきりしているからです。  《求める》のは けっきょく思考ないし想像によるものです。想像の産物として いろんな――偽(にせ)の――神がつくられてもいるようですが 非思考と言っているのですから 悪無限に落ち入るということは あり得ません。ということですよね。  いえ 観念として神を求めることじたいがあり得ません。  ですから 同じく  ★ 個人的には三つ、四つの見解を持っております。  ☆ につきましては ぜんぶ――申し訳ないですが――却下になります。    言いかえると お二階さんという偉いさんや 家のおっかないひとが お上や女将と《かみ》という言葉で呼ばれるのは あくまで二次的な言葉の派生です。(上( kami )と神( kamï )とは 発音が違うので別だという説もあります。アイヌ語には 日本語の神は 後者のカムイというような発音として入って行ったらしい)。  英雄やあたかも次元のひとつ上の存在といった意味合いの者を 神と呼ぶとしたら それも二次的な派生の用法によります。タトエとして言ったわけです。  《しんじる》という言葉も 信頼しているとか疑うことなくつよく思っているとかと言うためにたとえば《わたしはかれを信じている》などと――派生用法として――言ったりします。本来は 人を信じるということはありません。  そして 八百万のカミガミについては 《全体としてひとつの神》の分身として捉えるとよいと No.3のお礼欄に述べました。

回答No.3

断っておきますが,議論する為の質問・補足は控え目に願います。 頭の中で哲学やっていても,飯の代わりにはなりません。 神棚からぼた餅なら別ですが。 宗教に開祖・教祖が居て教義が説かれている。信仰の対象は貴方が考えているよりずっと広いようです。自然崇拝も立派な宗教です。 火之神の岳=火山も信仰の対象でした。 アマテラスは太陽の恩恵。月夜見は月の光と暦の術をもたらしてくれた。 タカオカミ,ヒクオカミは共に水源の神。 ヒコホホデミは,干潟を干拓して粟や稗の栽培を教えた。ホホデミは穂が沢山出て実が実る事。 大神(大三輪)神社は奈良県の山体神。水源の神であり,実りと水から良い酒が出来たので酒造りの神としても崇められている。拝殿はあっても社殿はなかった。 京都の大岩山神社。少し大きめの岩ノ下から水がしみ出している。ここが一番奥深い水源。流れ下る内に水勢を増し,一帯の生活・農業用水となった。 等々,数え上げればきりが無い。あなたの考えは狭すぎる。頭の中だけの想像の産物。 補足は結構です。ご遠慮下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ことわっておきますが 規約における《情報交換》として質問の問い求める答えを互いに問い求めていくという姿勢です。おいやでなければ その意味での《議論》にもおつきあいくださるようお願いしておきます。むろん 無理に引き留めることはいたしません。  ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  頭の中で哲学やっていても,飯の代わりにはなりません。  神棚からぼた餅なら別ですが。  ~~~~~~    ☆ これは 下手な考え休むに似たりの場合でしょう。取り上げるに値いしません。  ★ ~~~~  (あ) 宗教に開祖・教祖が居て教義が説かれている。  (い) 信仰の対象は貴方が考えているよりずっと広いようです。  (う) 自然崇拝も立派な宗教です。  ~~~~~~  ☆ (あ)から(い)へどういうつながりで進めているのかが分かりかねます。  信仰の対象は 質問者が考えていることは 《非経験の場》として想定されるナゾです。一般に《かみ》と呼ばれます。どんな名で呼ばれようと・また《無い神》として持たれようと このカミは ひとつです。全体 としてのひとつですから どんな名称の神が来てもだいじょうぶです。  ★ (い) 信仰の対象は貴方が考えているよりずっと広いようです。  ☆ 《全体としてのひとつなる神》より広い範囲はありません。そういうたたき台としての説明内容になっています。  ★ (う) 自然崇拝も立派な宗教です。  ☆ 集団で同じようなマツリを持つなら いちおう宗教でしょうね。    ただしマツリが そのムラ(市町村)に固有のもので 特別によそのムラに輸出しようとか宣教しようとか思ってはいないようですので 基本的に見ておそらく 個人の信仰の――つまり自然環界に仮りの神を見る(つまり自然環界を媒介として神を受け容れる)という一人ひとりの信仰の――延長形態だと捉えて差し支えないでしょう。  つまり オシエを信奉し組織の権限関係によってその人の信仰のあり方や要するに世界の見方全般にわたって規定し時にはひとの見解を否定する(迫害する)というような宗教ではないはずです。  ★ 火之神の岳=火山も信仰の対象でした。  ☆ 山一般――つまり山岳信仰と言われるもの――ではなく 火山が信仰されていたというのは 知らなかったです。  ★ アマテラスは太陽の恩恵。月夜見は月の光と暦の術をもたらしてくれた。  ☆ 末っ子のスサノヲは?  ★ タカオカミ,ヒクオカミは共に水源の神。  ☆ おかみ( ökami )は 竜神と分かっているようですが 語源は分からない。その -kami は 神 kamï とは別らしい。  ★ ヒコホホデミは,干潟を干拓して粟や稗の栽培を教えた。ホホデミは穂が沢山出て実が実る事。  ☆ 〔アマテラスとスサノヲのウケヒにおいて生まれたところの〕オシホミミ―→ホノニニギ―→ホホデミという系譜ですから このホは すでに稲穂だと考えられます。  アワやヒエは――先ほどヰキぺを見たら そうは書いてなかったのですが――わたしの記憶によると スクナヒコナが〔その栽培法を〕もたらしたものと思われます。稲の伝来より一時代前だと考えられます。    スクナ=《少ない地(な)》とそして スサノヲの子孫のオホクニヌシのまたの名の オホナムチ=《大きい(多い)地(な)》の貴い人(むち)とが アワ・ヒエ・キビなどとコメとにそれぞれ比べられるかたちではないかと。  またスクナヒコナは 常世へ去って行ったとも言われるからです。(むろん 穀物は 稲が栽培されても ほかのものも並行して栽培されたわけですが)。  ★ 大神(大三輪)神社は奈良県の山体神。水源の神であり,実りと水から良い酒が出来たので酒造りの神としても崇められている。拝殿はあっても社殿はなかった。  ☆ オホクニヌシと関係するようです。また ヘビでもあります。例のイクタマヨリヒメとの婚姻譚に出て来ます。  この三輪山や纏向のあたりのヤマトは したがって イヅモとかかわりが深い。  飛鳥の宮や藤原の宮としてのヤマトは のちアマテラスオホミカミを オホミワ(大神)神社にまつって欲しいと言ったところ 大神神社はことわった。(のち広い意味の境内にある摂社の檜原神社には 祀ることを譲歩した。その後さらには 伊勢の地へ行った)。  いづれにしても 天孫降臨のその天孫なるホノニニギも スサノヲがアマテラスとのウケヒ(賭け)で勝ったときに生まれたオシホミミの系譜であり そもそもアマテラスとスサノヲとは 母親がすでに死んだあとではあるが 同じ父のイザナキから生まれた実の姉と弟である。  ひとことで言ってしまえば アマテラスは 弟のスサノヲに対して イジメをおこなっている。いまに到るまで おこない続けている。  ★ ~~~~  京都の大岩山神社。少し大きめの岩ノ下から水がしみ出している。ここが一番奥深い水源。流れ下る内に水勢を増し,一帯の生活・農業用水となった。  等々,数え上げればきりが無い。あなたの考えは狭すぎる。頭の中だけの想像の産物。  ~~~~~~~  ☆ これらヤホヨロヅのカミガミは 《全体としてひとつの神》のそれぞれ分身です。何の不都合もありません。  ★ 補足は結構です。ご遠慮下さい。  ☆ みっともないでしょう。

noname#181644
noname#181644
回答No.2

これは、神とは未知であるといっておられるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 れいんとーくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 未知  ☆ かどうかで言えば 次のように 神は 《非知》です。  ○ 世界のものごとにかんする知覚および認識または想定   経験事象     可知       既知       未知     不可知   非経験の場(そう想定されるというものです。あるか無いかは分かりません)     非知  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このようだと考えています。どうでしょう?  不可知というのは 《知り得ない》と規定したなら 《知り得ないと知った》ことになります。ゆえに 経験的な知覚や思考といった人間の能力において大きなカテゴリとしては捉え得るゆえに 経験事象に入ります。  神は 非知です。かんたんに《知り得ない》とか《言葉に表わし得ない》と言われることもありますが 詳しくは《知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾ》というかたちです。  ホモ・サピエンス・サピエンスは どうして《かみ》という言葉を持ったのでしょう? どのようにして持ち得たのでしょう?

  • sinntyann
  • ベストアンサー率10% (67/641)
回答No.1

アインシュタインが、「神がいると言わなければ説明のできないことがある」と言っている

bragelonne
質問者

お礼

 しんちゃんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  この質問としては なぜ哲学しないかですので きびしくまいります。  ★ アインシュタインが、「神がいると言わなければ説明のできないことがある」と言っている  ☆ なぜアインシュタインが言うと それが妥当だということになりますか?  ★ 「神がいると言わなければ説明のできないことがある」  ☆ ということは 神がいると言わなくとも説明できることもある。と見られます。  あるいは 神がいないと言っても説明できることがある。ともです。  神について哲学したいと思います。どうでしょう。

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