神について何故ひとは哲学しないのか?

このQ&Aのポイント
  • ひとはなぜ神について哲学しないのかについて考える。
  • 日本人にとって神についての勘違いが多いことが指摘される。
  • 偶像崇拝という勘違いが一般的であると言える。
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神について何故ひとは哲学しないのか?

 せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

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回答No.10

今晩はです。 この点については、 bragelonneさんと眠り猫の神に対する考え方が近いので(最近、あれほど強く否定していた《非経験》もありかなと思い始めています。まぁ、私は、この術語を積極的に使う気にはなりませんが…)、 特にツッコミを入れたくなるところもないのですが、 ☆☆☆☆☆☆  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。 ☆☆☆☆☆☆ には多少の違和感を覚えます。 たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。 この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。 決して無条件でこのことを信じているのではない。 まして、この場合、少なくとも表面的には《神》はでてこないと思います。信じているのは、神ではなく、人間の善性や理性といったところでしょうか。 なので、人間の善性や理性は、bragelonneさんがここでいう《かみ》という概念───概念という言葉を使うと、叱られちゃうかな───と合致しないのではないですか。 また、 「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。 まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。 ☆☆☆☆☆☆ にある、《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。 これ、本質問にはまったく関係しないのですが、 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。 仏教の本家、インドでは、仏性・buddha-dhatuなる語は、ほとんど使われていないようですね。使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。 なのですが、なぜか、中国では如来蔵よりも仏性という言葉の方がもてはやされた。で、中国から仏教を輸入した日本でも、如来蔵ではなく、仏性という言葉を使うようになった。 で、 このdhatuという言葉が、なかなか曲者らしいですよ。通常、漢訳では、これには《界》という字をあてるらしいのですが(たとえば、法界=dharma-dhatu)、なぜか、《性》(=基体?の意味か)。私が使っている辞書にはのっていないのですが、仏教の百科事典とも言える世親の『倶舎論』には、dhatuには《種族》とかって意味も示されています。なので、buddha-dhatuは、《仏の種姓》とも訳すことができるんでげすよ。こちらの方が、カースト制度のインドにはふさわしいような気もするんですが。。。 いやまあ、細かい議論は抜きして、《ブッダター》はまずいと思いますよ。 そうそう、だいぶ前───といっても二・三カ月ほど前ですが───に教育テレビの地球ドラマティックとかいう番組で見たのですが、 アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、 《かみ》に該当する言葉がないそうです。 確か、この先住民の使用する言語には、テンス・時制(未来・過去のテンス)がない。現在時制しかない、という話も出ていましたよ。その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。 で、この部族に訪れたアメリカ人の宣教師、信仰が揺らいで、(キリスト教の)神様を捨てちゃったそうです。 で、現在、言語学者になり、この部族の言語の研究者になったそうです。 この話を聞いて、眠り猫は、 「なんか嘘くせぇ話だな~。ねぇのは、キリスト教でいうところの神・Godという概念だろうが……」 と思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  この間つまりねこさんのご不在のあいだ けっこう感覚的には複雑な思いが生じて来ており いま 微妙な気持ちではあります。  質疑応答が進展しているようなしていないような 複雑な感覚です。  同じ質問をつづけているのですが それでも進展が少しづつあるような感じを一方でいだき 他方では こりゃあもうだめだというようなシルシのようなものが見えているようにも感じます。  まア 愚痴です。気を取り直してまいります。  ★ ~~~~  たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。  この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりです。しかも この場合の《信じる》は 神を信じるという用法から派生したものだと見ます。経験的なものごとや人間を対象にした場合も 信じるを使うというのは 強調の用法であるとです。  あたかも神を無条件に受け容れるという場合に準じているようだということで 人間やものごとを信じるという用法を見つけたのだと。  だって 信長も自分を神だと言い出したようですし アラヒトガミを言う契機もあったでしょうし これらは 《神》をタトエとして用いる二次的派生的な用法だと見られます。  八百万の神々の場合は 二次的用法というよりは 《神》の分身だと見ておくと分かりやすいようです。    女将とかうちのカミさんというときには どうなんでしょう。  次は 別の問題のようです。  ★ ~~~~  「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。  まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ これについての答えは かんたんです。  《非思考ないし非経験》ゆえ 《道理に合うか合わないか》は人間にはついぞ分からないということになりますから。  神は 無根拠だということになるようです。  経験合理性に合うか合わないかの思考を超えています。  ★ ~~~~  《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。  ~~~~~~  ☆ これはつまりこういうふうにすでに神ないし聖霊にかかわって《精神のハタラキ》があるというときには すでに非思考の庭がわが心に成って信仰という動態がはたらきはじめたあとのことだと見ます。  たしかに  ☆☆(趣旨説明欄) 6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  ☆ というように《聖霊がやどる》のを――無根拠に――自覚したあとでは 《精神のハタラキ》は(そして 同時に身における知覚やヒラメキなるハタラキも同じくだと見られるのですが) そのやどった聖霊(ないし自性清浄心)が作用していると捉えてもマチガイではないでしょうね。  少なくとも主観の内では そのように認識しうると考えられます。自分の思考や感性を超えた内容がふと得られたというときには・つまりヒラメキにおいては そう認識されうると思います。  恩寵の光と自性清浄心とをひとしいと見てよろしいでしょうか?  ★ 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。  ☆ ええ。いつだったか それを見て あれーっと思ったのです。ですが ブッダターもあるみたいです。こちらのほうが 分かりやすいので使っています。どうしても使い分けしなければならないようでしたら おしえてください。  ★ 使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。  ☆ ええ。駒沢大の何とかいう先生の『如来蔵思想の何たら』という著書を読んだことがあります。タターガタ・ガルバのほうが 何というか正式なんでしょうか?  でも   一切衆生 悉有仏性  なる文句は よく引き合いに出されるようですよね。  と言いつつ 岩波の仏教辞典を見てみたら ブッダターは出ていないですね。どこでわたしは見たのだろう?  たしかにヱブ上でも検索してもなかなか出て来ないようですね。  ローマ字の buddhata でようやく次が出て来ました。  http://www.drjenniferhoward.com/terminology/Buddhata.asp  《 buddha nature うんぬん》とあります。  ふうーう。ぜんぜん無いってことはないようです。  つまりたぶん もし無いようでしたら わたしが勝手に シューナター(空)から類推して ブッダターをつくってしまったかも知れません。  次のサイトでは 《 Derived from ’buddhadatu’ (Sanskrit), which means ’essence of the Buddha,’ referring to the Buddha Nature or seed. 》と説明しています。  http://www.experiencefestival.com/buddhata  ブッダダートゥの簡約なかたちなんでしょうか?  いちおうどうしてもダメだというのでなければ 使うことにしたいと思いますが?  ★ ~~~  アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、  《かみ》に該当する言葉がないそうです。  ~~~~~  ☆ こういう話は 初めて聞きました。  ただし 日頃思っていることは そう言えば日本語に《かみ》はあっても 《信じる》はなかったのかなアです。  《まこと。まことに思う》といった表わし方なんでしょうか?  そうすると 《かみ》の語がない場合もひょっとしてあるのかなアとも思いますが ねむりねこさんは 《アニミズムとしてのかみがみ》はあって ただひとつの神としてのカミがないのだろうという見立てなんですね。  これは どう捉えればよいでしょう?  ★ ~~~~  その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。  ~~~~~~  ☆ そう説明されると そうかなぁとも思ってしまいましたが よく分かりませんね。  あぁ ありました。  ▲ (ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観) ~~~   http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%80%E3%83%8F%E3%83%B3%E2%80%95%E2%80%95-%E3%80%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%9C%AC%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3-%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88/dp/4622076535  § 内容紹介  とにかく驚きは言語だけではないのだ。  ピダハンの文化には右/左の概念や、数の概念、色の名前さえも存在しない。  神も、創世神話もない。  この文化が何百年にもわたって文明の影響に抵抗できた理由、そして  ピダハンの生活と言語の特徴すべての源でもある、彼らの堅固な哲学とは……?    ● (同上:カスタマーレビュー / 「宗教」なんかいらない民族)~~~   ・・・彼らは、直接経験からしかものを語らない。よって、彼らが実際に「見た」自然界の精霊などの若干の信仰的対象を除いては、いかなる抽象的な宗教も起源の神話も持たない。・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ アニミズムはあるみたいです。  《宗教がない》という報告があるとしたらそれは 自覚ないし自省しないかたちにおける無神論なんでしょうか?

その他の回答 (49)

回答No.40

~~~~~~  『四箇格言』――なぜそうなのか。理由もたずねてみて欲しいなぁ。 ~~~~~~ 良観忍性という高徳なお坊さんが鎌倉にいたからです。 『立正安国論』を読んだことがないので、嘘か本当かは分かりませんけれども、 最初期において、日蓮は、真言への攻撃をしていなかった、 ───武士の都、鎌倉では、真言宗の教勢が強くなかった。真言はこの時の日蓮の眼中になかった!!─── そうです。 『四箇格言』で真言亡国となったのは、 良観忍性が律(宗)の僧侶ではなく、実は、真言宗の僧侶であったことを、 日蓮がのちに知ったから、 などと、下世話なことをいう人は言っております。 (渡部照宏の『仏教』か『日本の仏教』などに、この経緯がしるされていた、と記憶しています) 良観忍性については、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E6%80%A7 ここの補足に、忍性と日蓮の確執(?)の話がいくつか紹介されています。 ついでに言うと、 歴史的事実はどうであれ、 この日蓮の忍性への恨みつらみは、未だに、日蓮系の宗派には根強く生き続いており、良観忍性を極悪人に仕立てております。 そして、信者もその話を信じています。

bragelonne
質問者

お礼

 すみません。ご説明をありがとうございます。  ▼(ヰキぺ:忍性) ~~~  文永8年(1271年)日蓮から祈雨法くらべと法論を挑まれるが、負ける。  ~~~~~~~~~~  ☆ なんて記事もありましたが 要するに  ★ 良観忍性という〔真言律宗の〕高徳なお坊さんが鎌倉にいたからです。  ☆ という理由だけで 律や念仏や禅のほかに真言亡国をつけ加えたということなんですか。  教義上の理由はないんでしょうかねぇ。    けれども なんかあっちの質疑応答は 剣呑になって来ていますね。  わたしもけんかをしますが どうも質がちがうように感じられます。  やっぱり法論で結着をつけるのがよいでしょうね。  ありがとうございました。

回答No.39

ガンダリー語ですか、はじめて聞く名ですね~。 でも、中村元が『感興の言葉』───説一切有部のダンマパダみたいな奴───の注釈の部分で、パーリ語やサンスクリットでは理解不明な、南方系の言葉があるとか、書いてますね。 すべてではないにしろ、一部は、何だか分からない言語で書かれた、先行するテキストがあって、それを参照して、『感興の言葉』が編纂されたということなのでしょうね~。 ~~~~~~~  アーナンダ何とかさんなんですね。編集者かなにか。 ~~~~~~~ 第一回結集という伝説によれば、 お経の部分は、アーナンダを中心にして、 戒律の部分は、ウパーリを中心にして、 ということになっています。 まぁ、伝説です。 研究者は誰も、この第一回結集を信じていません。 たしか、説一切有部の『大毘婆沙論』に書かれている伝説ですよ、これは。 ということで、 お経の始まりの「如是我聞」、「わたしはこのように聞きました」の《わたし》は誰かというと、建前としては、《アーナンダ》ということになります。 間接・直接の違いはあるにしろ、アーナンダは、ゴータマ・ブッダからこのように聞いた、聴きましたというわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  パーリとガンダーリ それにあと三つほど出ていますね 言語が。  或る程度は似たり寄ったりですので 互いに方言であるとも見られるのかどうなのか。・・・

bragelonne
質問者

補足

 『四箇格言』――なぜそうなのか。理由もたずねてみて欲しいなぁ。  もしくは 書き添えておいてくださいな。

noname#195588
noname#195588
回答No.38

このようなサイトを見つけました。 A Comparative Edition of the Dhammapada http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-Texts/C3-Comparative-Dhammapada/index.htm ガンダーリー語とかどうやって学習するのやら。 それにしても、パーリ語のダンマパダも氷山の一角なんですねえ。

bragelonne
質問者

お礼

 アーナンダ何とかさんなんですね。編集者かなにか。  ご回答をありがとうございます。  

回答No.37

そうそう、いままでこんなことを思ったことがないけれど、 考えてみれば、 南伝仏教(Theravada)で盛んに作られた《本生譚・ジャータカ》なんて、聖者に対するお布施を正当化する一連の著作群と考えることもできるんじゃないですか。 ジャータカは、 ゴータマさんが、聖者にお布施をすることによって、無量の功徳をつみ、最後には悟りに至った、 と言っているわけですから。 かつて、ゴータマさんがウサギだったころ、聖者がその地を訪れるんですよ。 でも、ゴータマ・ウサギさん、日々遊び暮らしていたから、蓄えが全くなかった。 ゴータマ・ウサギさんとお友達の二匹の動物は、その聖者さんにお布施したんですけれど、ゴータマ・ウサギさん、お布施をすることができなかった。思いあまったゴータマ・ウサギさん、焚き火の火の中に飛び込み、その聖者さんのご飯になった。 なるほど、なるほど、 これは《(聖者への)お布施=(非聖者の)最大の功徳》であると言っているわけだ。 なんで、オレ、いままでこのことに気づかなかったんだろう。 とことんバカだな~、オレって奴は。 kazamidoriさんの質問に答えることによって、一つお利口になったかも、 わ・た・し!! ジャータカについての説明は、以下のサイトで。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★ ~~~~~  考えてみれば、  南伝仏教(Theravada)で盛んに作られた《本生譚・ジャータカ》なんて、聖者に対するお布施を正当化する一連の著作群と考えることもできるんじゃないですか。  ~~~~~~  ☆ これなどは すでに犯罪行為に匹敵するのではないかとさえ思われます。  きわめて手の込んだ誘導法をも兼ねた(滑り込ませた)オシエのようです。  僧と在家 聖と俗 この二分法は けっして市民らのあいだによき共生をもたらすものではないと――短期間では・また身分制などの時代情況のもとでは分からないようなのですが―― 思われます。  僧・聖に対してだとは初めには分からないままながら 自分の身を犠牲にして 相手を助ける。といった説話が多いようです。  人びとの心のきよらかな部分であるブッダターにひびくような誘導策的オシエでしょうか。・・・  うまいことつくるものです。これでもか これでもかと。・・・

回答No.36

こんにちは、です。 この際ですから、ゴータマ直伝の仏教を自称するTheravadaへの、一般の人が抱いている幻想を覆しちゃいま~す。 ホニャララさんではなく、 眠り猫こそ、このカテにおける、最大の《仏敵》、 眠り猫こそ、《獅子身中の虫である》と呼ばれようが、かまいやしない。 だって、眠り猫は、《asraddhya》のヤカラだから(笑い)。 みずから、ハッキリと、そう自称しています、自認していますんで。 ☆☆☆☆☆☆ 眠り猫が考えるに、 Theravadaとは、厳格戒律主義の教え・宗教(?)と考えるとよいのではないですか。 ユダヤ教の律法主義みたいなもの。 ダメだ、名前がでてこない。サドカイ派から分離し、野山で隠棲生活を送ったグループがあったじゃないですか。クムラン教団とも関係するといわれる、あのグループみたいなもの。。。 そうそう、エッセネ派。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE Wikipediaでは、ファリサイ派から分派したと書いてありますけれど。 Theravadaとは、仏教のエッセネ派みたいなもの。 聖俗(の社会)は徹底的に断絶している。 出家者は、定められた戒律を守り、あとは、瞑想(ヨーガ)をすればヨシとする。在俗のもは、三宝を敬い、五戒を守って生活をすればよい。 で、出家修行者にお布施をすることが、世俗の信者の(最大の)宗教的義務であり、来世につながる───来世と言っても、在俗の人が至れる来世は、仏教でいう天国・《天》まで。と、一般的にはされている───功徳を積む行為。 新たなバラモン(梵行者の意味で~す)と、それを経済的に支える非バラモン。。。。。。 まぁ、そんな体系、システム。。。。。。。 かつて、Theravadaに属する一派で出家修行をした、日本の仏教学者の石井米雄によれば、 「最初は大変だったけれど、その生活に慣れてしまえば、この(出家)生活は、案外ちょろいものだ」みたいなことを書いています。 何がいちばん大変だったかというと、「食事は一日二回で、午後に食事をしてはいけない」というオキテだったそうです(笑い)。 日本の仏教ですと、出家修行者・僧には250(女性出家者には350)ほどの戒律があるそうですけれど、 極論をすれば、この戒律だけを守ればいいんですよ、Theravadaの出家修行者。 そして、この戒律を守るものが浄行者・梵行者、聖者・arhat(応供・お供えに値するもの)とされ、一般のものから尊敬される。 で、 袈裟のつけ方もこの掟には含まれます。そして、こうした細則が、数の上では、戒律のほとんどすべてらしいんですがね~。 日本の出家者に要求される戒律をチラッと見たところ、ご飯の食べ方とか、水中戯戒(海水浴の禁止か?)みたいなものまで含まれていますよ。 戒律形式主義、それがTheravadaの実態で~す。 ついで、ついで。 日本を含む北伝仏教では、お坊さん、建前として、お肉を食べてはいけないでしょう。これは《不殺生戒》に抵触するから。 でも、南伝仏教では、違う。信者からお布施されたものであれば、出家修行者はお肉を食べてもいいんですよ。自らその動物を殺していないから、食べてヨシとする。出家修行者は、人前でも平気にお肉を食べる。 どちらにもそれぞれの言い分がありますけれども、 どちからが、《不殺生》道徳性、精神を体現しているのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。ねむりねこさん こんにちは。  ★ エッセネ派とクムラン集団  ▼ (ヰキぺ:エッセネ派) ~~~~  長きにわたって死海文書の作成者と思われるクムラン教団はエッセネ派に属するグループあるいはエッセネ派そのものであると考えられてきたが、ノーマン・ゴルブ(Norman Golb)のように異議を呈する学者たちも存在している。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 覚え書きとしてです。  まぁ  ▼ (同上) ~~~~~  新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ だそうですけれど。         *  テラワーダとは:  ★ ~~~~  新たなバラモン(梵行者の意味で~す)と、それを経済的に支える非バラモン。。。。。。 まぁ、そんな体系、システム。。。。。。。  ~~~~~~  ☆ どれだけ〔大昔のバラモン身分の者とくらべて〕えらそうにしているかは別として 同じような相互依存の体制。  ほかにも拾おうとしましたが 本文のほうをみなさんには読んでいただくとします。  獅子身中の虫ですか。  わたしはもう 誰ひとりとして知らぬ者のいない《破壊者》ですから。  親鸞の 最初は教団だったものは 親鸞が自分は破戒の非僧非俗なる者であり 弟子などはいっさい持たず(同志は 同朋であり) あるいはすでにその場でひとは誰もがブッダに成っている(即得往生・即身成仏)というのですから 宗教組織なる形態は消えてなくなる。じっさい一度消えた。蓮如が興して べつの信仰形態となった。  つまりたとえば親鸞は すでに破壊者であったと考えられます。  テラワーダの悪口はいくつかあります。スマナサーラとかいう人のホームページを見たとき こりゃあ何ぢゃいなと思ったのですから。  もうひとつ とっておきのご回答をもらっていますね。  

回答No.35

こんばんはです。 Wikipediaから引用。 ───────── 仏典の「原典」と呼ぶべき各国語に翻訳される以前の経典は、インドの言語による経典が中心になる。釈迦の用いた言語は、古代マガダ語的なものだろうと推定されるので、最初期の仏典は、この言語を使用したであろう。 現在残る経典で、最も古いのは、パーリ語の聖典であると言われている。しかしパーリ仏典は、5世紀前半に大乗仏教と共通する内容を意図的に排除・改竄したものなので、釈迦の教えをそのまま伝えているわけではなく、文献学的には大乗仏教よりも新しい経典である。 ───────── http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%85%B8 というわけで、 Theravadaのパーリ語経典の正統性自体が怪しいんですよ。 正統性を唱えるならば、 仏教が中国に渡来した、最初期に中国語に訳された阿含経の方が、むしろ、正統性の根拠を有しているですよ。あるいは、サンスクリット語に訳されたもの。しかし、サンスクリット語原典は、ほとんど失われているので、それを確かめる術がない。 以前、kazamidoriさんのところで書きましたけれども、ゴータマさんは、パーリ語なんかしゃべっていない。 だから、何がゴータマさんの本当のオシエなのか、分からない。大乗非仏説、同様に小乗非仏説さえあるくらいです。 スッタニパータを最古の経典とする根拠は、表現や用語が簡単だから、記憶に便利な韻文が多い、などなど。ダンマパダはスッタニパータに比べると、成立はだいぶ遅れるであろうが、韻文形式だから、古形をとどめているであろう。 スッタニパータやダンマパダが尊重されるのは、この程度の理由です。 今となっては、ゴータマさんの本当のオシエがなんであったのかは分からない。 と同時に、Theravadaの正統性など、ほとんどない。 そもそも、伝説どおり、Theravadaが上座部だったのかどうかも分からない。自らの正統性を主張するために、そのような伝説を作ったのかもしれない。 すべては、歴史の闇の中。 繰り替えして言いますが、 Theravadaの正統性は、まったくありません。 さらに言えば、植民地となったセイロンをキリスト教化するために、セイロンに渡った宣教師たちが、パーリ語で書かれた経典の研究をはじめて、その研究の影響がブツブツブツブツ。。。。。。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。そこまで紛糾していたのですか。――おっと ねむりねこさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。――知らなんだぁ。・・・  そこまで藪の中なのであれば むしろすっきりとしたかたちで それぞれの宗派や立ち場にのっとって 何々ブディズム かにかにブディズムという看板をそれぞれかかげて 互いに研鑽しあっていけばよい。こう思われます。  ゴータマ伝説を出汁にしてこれこれの理論ないし信仰形態を説いていると正直に言っていけば まだインチキ説をくつがえす人間の良心が見られるというものです。  ▲(ヰキぺ) パーリ仏典は、5世紀前半に大乗仏教と共通する内容を意図的に排除・改竄したものなので、  ☆ 前回のヰキぺでの《パーリ仏典は ブッダゴーサの場合 マハーヤーナ・ブディズムの内容を採り入れた》という一面と 両方の側面があることになりますね。いやはや。  ありがとうございました。  もう少し開いていましょう。

noname#195588
noname#195588
回答No.34

眠りねこさん、ありがとうございます。 ウパースや類感呪術の話で 聖書の神と人間が似ている話とか、プラトンのイデアの似像とか 思い浮かべました。 それにしても弥勒ですか。 上座部にしろ、大乗仏教にしろ、 最後は、弥勒菩薩とか阿弥陀仏とかを信じることになるんですかねえ。 なんだかんだいって、神様、仏様かあ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  参考までですが:  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.33

こんばんはです、 kazamidoriさん、 そして、 bragelonneさん。 ☆☆☆☆☆☆ 「《Buddha-gosha》なんて、全然、知らないよ~」というので、 kazamidoriさんがあまりにかわいそうなので、思いなおして、 英語サイトを調べてみました。実にいい加減に斜め読みしました。 Buddhagosaの英文説明のサイトを紹介します。 http://en.wikipedia.org/wiki/Buddhaghosa ここの《批判・Critics》におもしろいことを書いてありますよ~。 ブッダゴーサでさえ、Theravadaの修行法では、涅槃に至ることができる、とは、実際、信じていなかった。彼がVishuddhimaggaを書いたのは、弥勒さんが現れるまで、天(国)に生まれ変わり、そこに住むためだった。そして、弥勒さんの教えを聞いて、悟りを得ようとした。 Visddimagggaは、シンハラ語のテキストに依拠していて、パーリ語のそれじゃない、 みたいなことを書いてあります。 そして、締めくくりは、 ───────── According to Kalupahanan, Buddhaghosa was influenced by Mahayana-thought, which were subtly mixed with Theravada orthodoxy to introduce new ideas. Eventually this led to the flowering of metaphysical tendencies, in contrast to the original stress on anatman in early Buddhism. ───────── 大乗の思想の影響を受けていて、Theravadaの正統的な教えと混ぜ合わせて、新しい考えを紹介したそうな。 だわな~、 中村元訳の注釈にある《解脱の境地は、空にして無相》のブッダゴーサの主張は、大乗の空の考え方に近いもん。 空、無相、無願ってのは、大乗の空観だもの。 Theravadaの英文サイトの説明をちらっと斜め読みしたんだけれど、Theravadaは大乗の影響を明らかに受けているらしいよ。インドの新思想(やっぱ、僕の予想したとおり、説一切有部の学説じゃん)を数多く採用しているそうよ。 http://en.wikipedia.org/wiki/Theravada ☆☆☆☆☆☆ で、Vissuddhimaga(浄道論とか訳すんだろうな、これ)はこちら。 http://en.wikipedia.org/wiki/Visuddhimagga ここにも阿毘達磨的手法がどうたら、こうたらと、すこしだけ触れられていますよ。 Theravadaたって、そんなもんなんですよ。結構、いかがわしいんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきましてです。  ★ Theravadaは大乗の影響を明らかに受けているらしいよ。  ☆ えっ? えっ? えっ?  原始仏教そのままの内容というんぢゃないんですか? ゴータマに直結しているなんてのが うたい文句だったのではなかったか。・・・  ますます分かんなくなっちゃった。

回答No.32

バラモン教の祭祀については知らないから、困ったな~。 というワケで、服部正明の『古代インドの神秘思想』から、馬祀祭に関する記述を引用。 ─────────  「AとBである」 という形式をとる同置の直截的な表現(ウパースいう奴)と並んで、それと同じ価値を持つさまざまな表現がプラーフマナ文献に見出され、それらは二つの事象の同置がどのような 意味を持つかを知る手がかりを与えている。まず、BはAの形態(ルーパ)であるといわれる例がある。 「造物主プラジャーパティはすべての動物───人間、馬、牛、羊、山羊───である」が、彼が天国へ行きたいと思ったとき、「これらの形態によっては(行くことが)できなかった。」そこで造物主は鷹の形をした火壇を築き、鷹となって天国に飛翔した、と『シャタパタ梵書』に物語られている。造物者と同置される動物が、造物主の形態と称せられているのと同様に、他の個所では、牡牛がインドラ神の形態であるといわれ、黒鹿皮はブラフマンの形態であるとされている。  BはAの「模像」であるという表現もよく用いられている。「造物主は……自分自身の模像を創り出した。すなわち祭祀である。それゆえに『造物主は祭祀である』といわれ る。」レンガで火壇を構築するに先立って、火壇の位置に小石で囲むが、その小石の数は360個で、祭詞と同置される歳に属する夜の数である。それらの小石が「夜の模像である。それらは360個ある。そして実に一年の夜も360である。」また「模像」と同じ意味を表わすのに、「……のようである」「……に似ている」という表現も用いられている。  Aを表わす語に接頭辞をつけた形容詞をBの述語として、Bが「Aに所属する」、または「Aの性質をもつ」ことを意味する場合がある。馬祀祭の際に行祭官は、馬をつなぐためのダルバ草の綱に酥油(液状バター)を塗る。「酥油は実に威力である。馬は造物主の性質をもつ。彼はまさしく造物主を威力によって強化するのである。」  馬祀祭は強大な勢力を持った国王が、勝利と王権の反映のために実施する大規模な祭式 で、聖化した駿馬を一年間自由に放って行くにまかせ、四百人の軍勢が百頭の馬とともに随行して、馬をあらゆる危難から守り、一年を経て、もとの地点に帰った馬を犠牲にして行う祭儀によってそれは終了する。その馬祀祭をどの季節に始めるべきかという点について、『シャタパタ梵書』は次のように述べている。 「夏に始めるべきであると一部の人々は言う。夏は実に王族の季節であり、馬祀祭は王族の祭祀であるからである。〔しかし〕まさしく春にそれを始めるべきで ある。春は婆羅門の季節であり、誰でも祭祀を行うものは、いわば婆羅門となって祭祀を行うのであるから、したがって春にこそ始めるべきなのである。」婆羅 門・王族・庶民階級を順次に春・夏・雨季に同置されていることは先に述べた。ここでは所有格の語尾をともなった語形によって、「春・夏は婆羅門・王族の季 節である」と表現し、同置された諸要素の間に所有・所属の関係があることを示している。 ───────── 何(A)かと何(B)かが少しでも似ていれば、「(○○の点において)AとBは同じである」と同一視する、ことを《ウパース》といいます。 で、このウパースという思考法から生まれたのが、有名な《梵我一如》、「汝(アートマン)はそれ(ブラフマン)である」という有名な言葉。 つ・ま・り、この言葉は、アートマンとブラフマンは、多くの点で異なることを前提としているんだわさ。 《梵≒我》という意味は、本来、この言葉にはない!! 誰がなんと言っても、本来、そんな意味はない。 ブラーフマナ的思弁に従えば、 あれは、相異には目をつぶって、「同一である」とウパースしろ、と言っているにすぎない。 《梵≒我》ならば、 創造主プラジャーパティは馬、ブラフマンは黒鹿皮と同じになってしまう。 話を祭祀の話に戻して、 神さまと似ているから、それをお供えすれば、神さまの力が増すであろう。今は潜在化しているその力が顕在化するであろう。 ってわけ。 たとえば、 雨が降らないのは、雨の神さまの力が弱まっているから。だったら、お供え物をして、それで勢力を増させて、雨を降らせよう、 というのが、バラモンの祭式原理。 この本に書いてあると思うけれど、バラモン教は、フレーザーのいう《類感呪術》ってわけ。こんなものは、原始心性の産物だ、非近代の宗教だ!!と酷評している、らしい。 ☆☆☆☆☆☆ ブッダゴーサ(仏音)、名前くらいは知っていますが、どんな人か、その思想がどんなものか、さっぱり分かりません。 南伝仏教、Theravadaでしたっけ、全然、知りません。というか、まったく興味ありません。 説一切有部で、事足りるんで。 「なんでも、教義を四諦説から縁起説へと変えたらしい。」ですか。 ブッダゴーサ、5世紀の人ですよ~。大乗の《空》とゴータマさんの《縁起》説を結びつけた龍樹のずっと後の人ですよ~。説一切有部の学説は、そのずっと前に完成の域に達していますし。。。。。。 わたしたちが知るいわゆる十二縁起説も、有部の学説ですし。。。。。。 ブッダゴーサが注釈書を書いたということは、それまでしっかりとした注釈書がなかったということでしょう。 先行する有部の『大毘婆沙論』とか参考にしているんじゃないですか~。 Theravadaのことは、まったく、知りません。 ゴメンなさいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご説明をおわづらわせ申しました。ありがとうございます。  テーラワーダは 何だか違ったもののように感じますね。(感じだけですが)。  ★ バラモン教は、フレーザーのいう《類感呪術》ってわけ。  ☆ それもあるのでしょうけれど   ★ 有名な《梵我一如》、「汝(アートマン)はそれ(ブラフマン)である」という有名な言葉。  ☆ については 《わたしはわたしである》というような自己同一性に到っているように思っていたのですが。  そして その一如は  ★ ウパースという思考法から生まれた  ☆ のですかぁ。直感ないし直観からかと思っていました。  ★ 何(A)かと何(B)かが少しでも似ていれば、「(○○の点において)AとBは同じである」と同一視する、ことを《ウパース》といいます。  ☆ 感じだけから反応しますが ブラフマンとアートマンとについてその対比を 《何(A)かと何(B)かが少しでも似ている》というウパース類型にあてはめるのではなく 宇宙と小宇宙との一体(相似)を直観して ウパースなる方程式を導き出したのかと思っていました。  何を言っているのか自分でも分からなくなって来ましたが やはり《相似》というよりも 《一体》のほうがよいでしょうか。つまり やはり単純に《神がいると想定されて その霊がわれにやどる》といったヒラメキに発しているのではないか?  そこから むしろぎゃくにウパースなる思考法が持たれるようになった。のではないかと。  そもそも 宇宙の主宰神ブラフマンとわれなるアートマンとが《似ている》と見たというのは どこから来たのでしょう。  ★ ~~~  つ・ま・り、この言葉は、アートマンとブラフマンは、多くの点で異なることを前提としているんだわさ。  《梵≒我》という意味は、本来、この言葉にはない!!  ~~~~~  ☆ これについてもちょっと分からなくなって来ましたので 保留します。  単純な反応のままですが 残しておきます。

回答No.31

こんばんはです。 独り言、ひとりごと。 コンゼによる英訳。 ───────── There is no cognition, no attainment and no non-attainment. Therefore, O Sariputra, it is because of his non-attainmentness that a Bodhisattva, through having relied on the Perfection of Wisdom, dwells without thought-coverings. In the absence of thought-coverings he has not been made to tremble, he has overcome what can upset, and in the end he attains to Nirvana. 認識がない、達成(or到達)がない、非達成がない。 それゆえに、お~、シャーリプトラよ、 ボサツが、知恵の完成を頼りにすることによって、思考の覆いなしに住すのは、非達成(非到達)の故である。 思考の覆いがないから、彼は(恐怖で)おののくことはなく、(考えを)顛倒させるものを克服する。そして、最後にニルバーナを達成する(あるいは、ニルヴァーナに到達する)。   ───例によって、眠り猫による、超~いい加減な和訳─── ───────── 《na jnanam》=《no cognition》ですか、ブツブツ。。。 原文には、「no non-attaiment」という言葉はないし───「AはAでないから、Aである」って論理を使いたいのかな。で、力技でねじ伏せるつもり?───、そもそも、何を達成(attaiment)するのよ、これではさっぱり分からない、ブツブツ。 「attais to Nirvana」とあるから、涅槃の達成はないし、「涅槃の達成がない」がないということもない、という意味か。 それとも、認識(cognition)の達成、あるいは、認識への到達? っていうか、《na pratih・無得》のpratihは、attaimentの意味だろうか、ブツブツ。 コンゼの英訳は、玄奘訳にならってか、《na vidya》を削っているし。 定評のある《中村・紀野》訳は、結構、信用がならないので、 眠り猫が思うに、一番信用が置けるは《平川彰》訳の般若心経。 なのですが、これは《na vidya》を《智慧(般若)がない》と訳している。そして、ないはずの《般若(波羅蜜多)》で、般若波羅蜜多によって涅槃に達するとなってしまう。これでは、チンプンカンプン、ワケのわからない禅問答になってしまう。 でなくて、 この《vidya》は、。。。。 ヤメておこう。この考えは、あまりに過激だ。 なので、ヒントだけ。 《vidya》には、オマジナイ、呪文、真言の意味がありま~す。 そして、最後のオマジナイの前に、「般若波羅蜜多は、大いなる明知のオマジナイ《maha-vidya-mantro》」。。。。。。 このお経は、般若経。 《悟り・bodhi》や《般若波羅蜜》を神格化するのは、当たり前じゃないですかね。そして、《般若》は「サトリの母」とも呼ばれます。 日本では評判が悪いですけれど、 チベットの男女交合仏、 仏さんの方は、大悲(karuna)や方便(upaya)を意味し、お妃の方は般若(prajna)を意味します。男が抱かれているんですよね~、般若に抱(いだ)かれなければ、大悲や方便は生まれないってことを表現しているんでしょうかね~。 gate gate para-gate para-sam-gate bodhi-svhaha (いった いった 完全にいった みんなともに完全にいった。 菩提よ、栄あれ) このオマジナイも、解釈次第では、結構、いかがわしくなりますよね~(ポリポリ)。 しかし、ここでは、明らかに《悟り・bodhi》の神格化が行われています。《悟り》の神格化の実例!! 長々と独り言を呟いてしまった。また、悪い癖がでてしまった。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  《無所得》とは 何か? ~~~~~~ 平川彰は、《悟りに達することもない》と訳していますね。コンゼも、attainment to nirvanaの意味にとっているようです───省略されているので、正確にはわかりませんが───。 これならば、 「悟りに達することがないから、般若波羅蜜(の不思議なハ・タ・ラ・キ)によって、……」となって、意味が通ります。 般若波羅蜜はmaha-vidya-mantroのワケですから、 《般若・prajna》は、玄奘訳、コンゼ訳ともに抜けている《na vidya》のvidyaや《無智亦無得》の《智・jnana》とは違うことになります。 なので、矛盾なく、説明できることはできるんですが、 あまりに理に走りすぎていますかね、私の考えは。 少し先走りますけれども、 六波羅蜜の上にさらに四つの波羅蜜を加えて、十波羅蜜とする思想もあります。その最終段階が、智(jnana)波羅蜜(多)。般若波羅蜜で完成されるのは、般若の智慧、つまり、無分別智であって、仏の具体的な救済ハタラキを、身につけて、完全な悟りに至る。この四つは、後得智というわけです。 で、般若波羅蜜では、智波羅蜜の《智》の段階には至らない。。。。。。。 だから、《無智》であって、《無所得》。。。。。。 後付けの理論ですが、こう考えるのも可能なのかと。 でも、チベットの交合仏のところで説明したとおり、《般若》にしっかり抱かれていなければ、方便や大悲は生まれない。だから、《般若》はすべての《覚母》というワケなのでしょう、きっと。 後付けの理論になりますけれども。。。。。。 いずれにせよ、 《般若》のハタラキがなければ、《悟り》には至らないということでしょう。そして、このハタラキは、すべての人が有している。ただ、いま、そのハタラキ、本来の活動性を発揮していないってことになるのでしょうか。 『金剛般若経』のおまじないでは、般若波羅蜜そのものが神格化されています。 ~~~~~~  つまり 後天的な知識の所得 この問題が各論として残っているような。・・・ ~~~~~~ 無分別智は、ハタラキですよ。 それがどんなものかはわかりませんが、《所縁縁》つまり対象があれば、知識のようなものは生まれるのではないでしょうか。 ただ、そこには、自他の区別は存在しないんじゃないでしょうか。そして、あらゆるものが差別のない平等のス・ガ・タに見えるはず。 いわゆる、《カミさま視点》という奴ではないのでしょうか。 ~~~~~~~  ☆ というのは むしろ《般若波羅蜜多によって》に重きが置かれていましょうか?  でもこれなら 自然本性なるブッダターのチカラが泉に湧き出る水のようなハタラキをするということになるように受け取られますし。・・・ ~~~~~~~ 《般若波羅蜜多》に重点が置かれていると思います。 ~~~~~~  ○ 心に通常の自然本性の能力(ふつうの知性)をさまたげるもの  があっても その奥の自然本性には 泉の水が湧き出ているし 必要に応じて湧き出て来る。ときわめてかんたんに解釈しましょうか どうでしょうか。 ~~~~~~ 仏教は、そのアカをとれ、本来の輝きを取り戻せ、というオシエですよ。 キラキラと光るダイヤの原石を自分が持っていると本当に気づいたら、何としても、磨こうとするのではないですか。せっかく持っているのだから、わたしなら、せっせと毎日、磨きますけれども。 ──────眠り猫は、知識としてしか、このことを知っていない。オシエとしてしか、受け入れていない!! だっけ、眠り猫は、《不信・asraddhya》のヤ・カ・ラ!!────── ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ★ 理趣経ですもの、どっぷり俗世に浸かっていますよ。  ☆ に先行して その自然本性におけるボディサトワのすがたがある。そなわっている。と言っておかないと 理趣経を先行させてはこれまたおかしなことに成りかねません。ですよね。 ~~~~~~ えっ、「諸法及諸有 一切皆清浄」で足りませんか。 諸有はすべての《有情・いきもの》の意味で、本性として、すべて清浄だと言っているんですけれども。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  えっ、「諸法及諸有 一切皆清浄」で足りませんか。  諸有はすべての《有情・いきもの》の意味で、本性として、すべて清浄だと言っているんですけれども。  ~~~~~~  ☆ そのように自然本性を先行させているのでしたら 見解を同じくします。  つまり先回では  ★★(回答No.29) ~~~  欲そのもが悪いのではなくて、それにアカがついちゃっているので、本来のハタラキが発現しないのだ、といっているのでしょう。  ・・・・  欲の質的転換、《欲》→《大欲》。《我》→《大我》!!  ~~~~~~~~~~~  ☆ といった後天的なシガラミのほうから出発して わざわざ《欲の質的転換》をおこなって そのあと自然本性の状態に到る・・・というように受け取ったものですから。  ★ ~~~~~~  仏教は、そのアカをとれ、本来の輝きを取り戻せ、というオシエですよ。  キラキラと光るダイヤの原石を自分が持っていると本当に気づいたら、何としても、磨こうとするのではないですか。せっかく持っているのだから、わたしなら、せっせと毎日、磨きますけれども。  ~~~~~~~~  ☆ いちゃもんをつけているんぢゃないかと見られてしまうほど微妙なことだと思うんですけれど 《人間が自分の中に原石のあるのに気づき そのような自分の本来の輝きを見い出しそれを磨く》というときには どこまでが《与えられためぐみとしてのブッダターのハタラキ》で どこからは《人間の努力》なのか? これが分かりにくいように思うのです。  じっさいにこれは分かりにくくて 一概にさだめられないと思うのですが 分かっていることは 《ブッダター》が何よりも――時間的にではなく 存在のあり方そのものとして――先行しているということだと思いますが どうでしょう。  ブッダターゆえに 理趣経が説かれている。あたりまえのことだと思いますが 重要なことのように思います。  ★ 《般若波羅蜜多》に重点が置かれていると思います。  ★ いわゆる、《カミさま視点》という奴ではないのでしょうか。  ☆ これも微妙ですね。まづ説明理論として このとおりだと思います。思いますが わが心に非思考の庭が成ったあとでは そのように《カミさま視点=般若波羅密多》と説明された視野というものは もうおのれのその庭なる心に取り込まれている・・・ということになっていると思うんです。  《オシエとしてしか受け容れていない》とおっしゃっていますが したがって信仰が動き出してからは カミさま視点はもうどこかへ行ってしまっていると思います。  したがって じっさいに現象するのは そのつどその場面場面で必要なだけのヒラメキでありその解釈としての知恵なのだと捉えます。    その意味では  ★ おまじない  ☆ として捉えたほうが 実践的であるのかも知れません。  能天気・聖なる甘え・・・こういった状態というのはあんがい重要で大きな役目をになっていると言えるかも知れません。  ★ ~~~~    ☆ 《無所得》とは 何か?  平川彰は、《悟りに達することもない》と訳していますね。コンゼも、attainment to nirvanaの意味にとっているようです───省略されているので、正確にはわかりませんが───。  これならば、  「悟りに達することがないから、般若波羅蜜(の不思議なハ・タ・ラ・キ)によって、……」となって、意味が通ります。  ~~~~~~~  ☆ というふうに自然法爾が自然法爾のほうで動き出しているのではないかと思います。まさにハカラヒなきなのだと見ます。  (思考の緑野では 思考し必要な知識を得る努力をつづけるわけですが)。  ひと段落を打てるところまで来ましたでしょうか。  少しわたしもけわしいところがあったかに思いますが ここまで来ることが出来ました。  ともによろこびたいと思います。  もうしばらくのあいだ おまけなどを書き込んでおくことにしましょうか。

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     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 《哲学する者は神の国の外交官である》は成り立つか

     1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。