神について何故ひとは哲学しないのか?

このQ&Aのポイント
  • ひとはなぜ神について哲学しないのかについて考える。
  • 日本人にとって神についての勘違いが多いことが指摘される。
  • 偶像崇拝という勘違いが一般的であると言える。
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神について何故ひとは哲学しないのか?

 せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

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回答No.10

今晩はです。 この点については、 bragelonneさんと眠り猫の神に対する考え方が近いので(最近、あれほど強く否定していた《非経験》もありかなと思い始めています。まぁ、私は、この術語を積極的に使う気にはなりませんが…)、 特にツッコミを入れたくなるところもないのですが、 ☆☆☆☆☆☆  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。 ☆☆☆☆☆☆ には多少の違和感を覚えます。 たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。 この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。 決して無条件でこのことを信じているのではない。 まして、この場合、少なくとも表面的には《神》はでてこないと思います。信じているのは、神ではなく、人間の善性や理性といったところでしょうか。 なので、人間の善性や理性は、bragelonneさんがここでいう《かみ》という概念───概念という言葉を使うと、叱られちゃうかな───と合致しないのではないですか。 また、 「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。 まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。 ☆☆☆☆☆☆ にある、《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。 これ、本質問にはまったく関係しないのですが、 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。 仏教の本家、インドでは、仏性・buddha-dhatuなる語は、ほとんど使われていないようですね。使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。 なのですが、なぜか、中国では如来蔵よりも仏性という言葉の方がもてはやされた。で、中国から仏教を輸入した日本でも、如来蔵ではなく、仏性という言葉を使うようになった。 で、 このdhatuという言葉が、なかなか曲者らしいですよ。通常、漢訳では、これには《界》という字をあてるらしいのですが(たとえば、法界=dharma-dhatu)、なぜか、《性》(=基体?の意味か)。私が使っている辞書にはのっていないのですが、仏教の百科事典とも言える世親の『倶舎論』には、dhatuには《種族》とかって意味も示されています。なので、buddha-dhatuは、《仏の種姓》とも訳すことができるんでげすよ。こちらの方が、カースト制度のインドにはふさわしいような気もするんですが。。。 いやまあ、細かい議論は抜きして、《ブッダター》はまずいと思いますよ。 そうそう、だいぶ前───といっても二・三カ月ほど前ですが───に教育テレビの地球ドラマティックとかいう番組で見たのですが、 アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、 《かみ》に該当する言葉がないそうです。 確か、この先住民の使用する言語には、テンス・時制(未来・過去のテンス)がない。現在時制しかない、という話も出ていましたよ。その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。 で、この部族に訪れたアメリカ人の宣教師、信仰が揺らいで、(キリスト教の)神様を捨てちゃったそうです。 で、現在、言語学者になり、この部族の言語の研究者になったそうです。 この話を聞いて、眠り猫は、 「なんか嘘くせぇ話だな~。ねぇのは、キリスト教でいうところの神・Godという概念だろうが……」 と思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  この間つまりねこさんのご不在のあいだ けっこう感覚的には複雑な思いが生じて来ており いま 微妙な気持ちではあります。  質疑応答が進展しているようなしていないような 複雑な感覚です。  同じ質問をつづけているのですが それでも進展が少しづつあるような感じを一方でいだき 他方では こりゃあもうだめだというようなシルシのようなものが見えているようにも感じます。  まア 愚痴です。気を取り直してまいります。  ★ ~~~~  たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。  この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりです。しかも この場合の《信じる》は 神を信じるという用法から派生したものだと見ます。経験的なものごとや人間を対象にした場合も 信じるを使うというのは 強調の用法であるとです。  あたかも神を無条件に受け容れるという場合に準じているようだということで 人間やものごとを信じるという用法を見つけたのだと。  だって 信長も自分を神だと言い出したようですし アラヒトガミを言う契機もあったでしょうし これらは 《神》をタトエとして用いる二次的派生的な用法だと見られます。  八百万の神々の場合は 二次的用法というよりは 《神》の分身だと見ておくと分かりやすいようです。    女将とかうちのカミさんというときには どうなんでしょう。  次は 別の問題のようです。  ★ ~~~~  「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。  まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ これについての答えは かんたんです。  《非思考ないし非経験》ゆえ 《道理に合うか合わないか》は人間にはついぞ分からないということになりますから。  神は 無根拠だということになるようです。  経験合理性に合うか合わないかの思考を超えています。  ★ ~~~~  《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。  ~~~~~~  ☆ これはつまりこういうふうにすでに神ないし聖霊にかかわって《精神のハタラキ》があるというときには すでに非思考の庭がわが心に成って信仰という動態がはたらきはじめたあとのことだと見ます。  たしかに  ☆☆(趣旨説明欄) 6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  ☆ というように《聖霊がやどる》のを――無根拠に――自覚したあとでは 《精神のハタラキ》は(そして 同時に身における知覚やヒラメキなるハタラキも同じくだと見られるのですが) そのやどった聖霊(ないし自性清浄心)が作用していると捉えてもマチガイではないでしょうね。  少なくとも主観の内では そのように認識しうると考えられます。自分の思考や感性を超えた内容がふと得られたというときには・つまりヒラメキにおいては そう認識されうると思います。  恩寵の光と自性清浄心とをひとしいと見てよろしいでしょうか?  ★ 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。  ☆ ええ。いつだったか それを見て あれーっと思ったのです。ですが ブッダターもあるみたいです。こちらのほうが 分かりやすいので使っています。どうしても使い分けしなければならないようでしたら おしえてください。  ★ 使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。  ☆ ええ。駒沢大の何とかいう先生の『如来蔵思想の何たら』という著書を読んだことがあります。タターガタ・ガルバのほうが 何というか正式なんでしょうか?  でも   一切衆生 悉有仏性  なる文句は よく引き合いに出されるようですよね。  と言いつつ 岩波の仏教辞典を見てみたら ブッダターは出ていないですね。どこでわたしは見たのだろう?  たしかにヱブ上でも検索してもなかなか出て来ないようですね。  ローマ字の buddhata でようやく次が出て来ました。  http://www.drjenniferhoward.com/terminology/Buddhata.asp  《 buddha nature うんぬん》とあります。  ふうーう。ぜんぜん無いってことはないようです。  つまりたぶん もし無いようでしたら わたしが勝手に シューナター(空)から類推して ブッダターをつくってしまったかも知れません。  次のサイトでは 《 Derived from ’buddhadatu’ (Sanskrit), which means ’essence of the Buddha,’ referring to the Buddha Nature or seed. 》と説明しています。  http://www.experiencefestival.com/buddhata  ブッダダートゥの簡約なかたちなんでしょうか?  いちおうどうしてもダメだというのでなければ 使うことにしたいと思いますが?  ★ ~~~  アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、  《かみ》に該当する言葉がないそうです。  ~~~~~  ☆ こういう話は 初めて聞きました。  ただし 日頃思っていることは そう言えば日本語に《かみ》はあっても 《信じる》はなかったのかなアです。  《まこと。まことに思う》といった表わし方なんでしょうか?  そうすると 《かみ》の語がない場合もひょっとしてあるのかなアとも思いますが ねむりねこさんは 《アニミズムとしてのかみがみ》はあって ただひとつの神としてのカミがないのだろうという見立てなんですね。  これは どう捉えればよいでしょう?  ★ ~~~~  その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。  ~~~~~~  ☆ そう説明されると そうかなぁとも思ってしまいましたが よく分かりませんね。  あぁ ありました。  ▲ (ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観) ~~~   http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%80%E3%83%8F%E3%83%B3%E2%80%95%E2%80%95-%E3%80%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%9C%AC%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3-%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88/dp/4622076535  § 内容紹介  とにかく驚きは言語だけではないのだ。  ピダハンの文化には右/左の概念や、数の概念、色の名前さえも存在しない。  神も、創世神話もない。  この文化が何百年にもわたって文明の影響に抵抗できた理由、そして  ピダハンの生活と言語の特徴すべての源でもある、彼らの堅固な哲学とは……?    ● (同上:カスタマーレビュー / 「宗教」なんかいらない民族)~~~   ・・・彼らは、直接経験からしかものを語らない。よって、彼らが実際に「見た」自然界の精霊などの若干の信仰的対象を除いては、いかなる抽象的な宗教も起源の神話も持たない。・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ アニミズムはあるみたいです。  《宗教がない》という報告があるとしたらそれは 自覚ないし自省しないかたちにおける無神論なんでしょうか?

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noname#195588
noname#195588
回答No.30

前回の回答。引用文。 誤:奇怪 正:奇っ怪 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現在、いろいろと疑問に思っても調べる余裕もないので 話題だけ提供してみます。 仏教 上座部仏教で、パーリ仏典の注釈を書いたらしいブッダゴーサとは どんな人物か、思想は? なんでも、教義を四諦説から縁起説へと変えたらしい。 清浄道論にはどんなことが書いてあるのか? マハーヴィハーラ(大寺派)の教義とはどのようなものか? 中村元はニヒリズムなのか?中村元以降のゴータマ・ブッダ論はどうなっているのか? ウパニシャッド アシュヴァメーダとは何か?馬祀祭。 どんな目的だったのか?祭祀の内容は? アシュヴァメーダを内面化してヨーガを意味づけたらしい。 マイトリ・ウパニシャッドと仏教の関係とは? nirātmanという言葉など。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マイトリ・ウパニシャッド 第7章8 自己は存在しないと説く詐欺によって、虚偽の実例と論拠によって 惑わされて、世間の人々はヴェーダと[人間の]知識の相違を知らない ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上記の引用から、マイトリ・ウパニシャッドが成立した頃には 仏教は無我を説いていたのでしょう。詐欺扱いされていますが。 キリスト教 使徒言行録17章で、パウロがアテネへいって、 エピクロス派と、ストア派と論争したみたいですが、 負けたみたいです。 ニーチェが「この人を見よ」のなかでツァラトゥストラを ヘラクレイトス、ストア派と並べていたので、聖書のこの箇所が気になりました。 それからパウロは、イエスとは実際には会っておらず、幻を見て 回心したわけですが、幻から始まることをどう考えるか などなど。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  それからパウロは、イエスとは実際には会っておらず、幻を見て  回心したわけですが、幻から始まることをどう考えるか  ~~~~~  ☆ 或る日或る時 何ものかナゾの音が声がわが心におとづれた。そこでこれを受け容れた。  神の名をわが心に受け容れるというかたちにて 受け留めた。ナゾは何であるか分からないが 受け容れたのは わが意志行為としておこなった。  これをキリスト信仰の内部では 聖霊によるバプテスマと呼ぶのだと思います。  霊は つねにまぼろしです。  ★ ~~~~  使徒言行録17章で、パウロがアテネへいって、  エピクロス派と、ストア派と論争したみたいですが、  負けたみたいです。  ~~~~~~  ☆ 次のようにイエスのキリストとしての復活を言っているのですから 《論争》にはなっていないと思われます。次元の違う話だと思います。もっとも《すごすごとその場を跡にした》のならパウロは《負けた》のでしょう。  ▲(使徒行伝17:1-34)) ~~~~  17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。  17:31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。  17:32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。  17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。  ~~~~~~~~  ☆ またその時点では どうしても《宣教というおろかな手段》を行使していると――《悔い改め》や《さばき》などの語をふくんだその口調などから――感じられます。    あとは ねむりねこさんにお頼み申してもよろしいでしょうか。

回答No.29

こんばんはです。 《悟り》を得るという言葉は、確かに問題の多い表現ですよね。たぶん、わたしもこれまでに何度も使っているとは思いますけれども(ポリポリ)。 般若心経では、───漢訳の部分ではなぜかこの部分が削られていますけれども─── 「無明尽亦無無明尽」の前に、《na vidya》という言葉、「《明知・明》がない」とあります。 さらに、色々と《無》のつく言葉が連ねられた後、 na praptih = 無(所)得 という言葉がでてきます。   ───na vidyaが何を意味するのか、正直わかりません。   一般的には、十二縁起で得られる知恵、つまり、声聞さんの《明知》くらいにとられていますけれども─── で、 以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。 (所得がない故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多によって、心からさまたげになるものがなくなり、……、逆さまの考えから離れ、涅槃に導かれる(もしくは、「入る」)。 ───眠り猫の超~いい加減な訳─── となるわけでしょう。 菩提には、導かれる、または、入るものであって、獲得するものではない!! 何に導かれるって、それは、不思議なもののハ・タ・ラ・キによってですよ。 当たり障りのない言葉でいえば、 《自性清浄心》や《如来蔵》、《仏性・buddha-dhatu》のハタラキってことになるんでしょうね。そして、それは獲得するものではなくて、本来、人間に備わっているものです。 より宗教的な表現をするならば、 阿弥陀さんの本願力でもいいし、 maha-vairocanaの《ハタラキ・羯磨(かつま・karma)》でもいいわさ。 ~~~~~~  ★ 「蓮のお花のようにキレイ綺麗だから、アカに染まらないのよ」  ☆ この自性清浄心についても 《シガラミの中にあってしかも染まらないでおのれを保ちつづけるチカラ》という呼び方も生まれて来そうです。 ~~~~~~ 理趣経ですもの、どっぷり俗世に浸かっていますよ。  諸法及諸有 一切皆清浄 すべてのものは すべてみ~んなキレイ綺麗さ  欲等調世間 令得浄除故 欲が世間を整えて 欲がすべてをきよらかにするからさ  如蓮體本染 不為垢所染  諸欲性亦然 不染利群生 欲も本性キレイ綺麗 アカに染まっていない欲は人に利益をもたらすのさ 欲そのもが悪いのではなくて、それにアカがついちゃっているので、本来のハタラキが発現しないのだ、といっているのでしょう。自分を愛するのならば、すべての生きとし生けるものを、同じように愛せ、というとるのでしょう。 それが菩薩(仏ではないのよ!!大乗の理想は、ボ・サ・ツ)の道だわさ、と。 欲の質的転換、《欲》→《大欲》。《我》→《大我》!! だから、社会のしがらみの中から抜け出してはいけないんですよ、大乗のヒトは。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  ゴータマさんには ブッダ‐ダートゥなる概念はないようなんだけれど いいんでしょうか。  無無一如の信仰形態を立てるのではなく むしろゴータマ時代にすでに 潜在力としてブッダ‐ダートゥなるチカラが想定されていたとしましょうか。 ~~~~~~ 直接には、《buddha-dhatu》的なものを説いてはいない、と思います。 《如理作意》の不思議なチカラ・ハタラキは、それなんじゃないですか。以前紹介しました、《簡択力》も、説明不能なチカラです。 これらのハタラキを否定してしまったら、《悟り》はありえません。仏教は存在し得ません。意志の力でなんとでもなるという、単なる精神修養論になってしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。ここは ねこさんに質問攻めと行きましょうか。  まづは ねむりねこさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  Q‐1 ★ ~~~~   以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。・・・  (所得がない故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多によって、心からさまたげになるものがなくなり・・・)  ~~~~~~~~~~  ☆ 自分で調べるというつとめをおこたってお伺いします。  《無所得》とは 何か?    つまり 生まれたままにてそなわったもろもろの自然本性のチカラや性質は 既所得もしくは所得以前の所得として 持っていてもよいし むしろ大いに発揮するのがよい。でしょうか?  そしてただし この感性やら理性やらあるいは意志の判断力やらの自然本性なる能力を発揮するのには 知識も知恵も要ります。知恵は もともとの本性なるチカラから出るとしても 知識はそれがなくては 知恵の発揮しようがないということも言えそうです。  つまり 後天的な知識の所得 この問題が各論として残っているような。・・・  それとも――わたしはよく 冗談半分(つまり半分はまじめ)で 言っていますが―― 聖なる甘えにかかわる能天気ということが 無所得なのでしょうか?  さらにそれとも:  ▲ 所得がない故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多によって、心からさまたげになるものがなくなり  ☆ というのは むしろ《般若波羅蜜多によって》に重きが置かれていましょうか?  でもこれなら 自然本性なるブッダターのチカラが泉に湧き出る水のようなハタラキをするということになるように受け取られますし。・・・  あるいはそれとも  ○ 心に通常の自然本性の能力(ふつうの知性)をさまたげるもの  があっても その奥の自然本性には 泉の水が湧き出ているし 必要に応じて湧き出て来る。ときわめてかんたんに解釈しましょうか どうでしょうか。  Q‐2 ★ 菩提には、導かれる、または、入るものであって、獲得するものではない!!  ☆ ならばいっそのこと   ○ ひとはみな生まれながらにして ブッダである。あるいはボディサトワである。  と言っておけばよいのではないでしょうか?  そして一方的に文句を言いますが  ★ 理趣経ですもの、どっぷり俗世に浸かっていますよ。  ☆ に先行して その自然本性におけるボディサトワのすがたがある。そなわっている。と言っておかないと 理趣経を先行させてはこれまたおかしなことに成りかねません。ですよね。  Q‐3 ★ ~~~~  直接には、〔ゴータマ氏は〕《buddha-dhatu》的なものを説いてはいない、と思います。  《如理作意》の不思議なチカラ・ハタラキは、それなんじゃないですか。以前紹介しました、《簡択力》も、説明不能なチカラです。  ~~~~~~~~~~  ☆ これをぜひ 《自然本性》の中におさめて欲しい。というのが 願いです。  そして必ずしも余計なことではないと思うのですが けっきょく信仰の形態としては 《無無一如》も《仏仏一如》もそれぞれみな《梵我一如》なる一般類型にひとしい。はずです。  でしたら ブラフマニズム関係のみなさん ヱーダやウパニシャドの哲学者の人たち このブラフマン神とアートマン霊我との一体なる思想を拓いてくれてありがとうといちど ひとこと 言っておくのが ひとの道でしょうね。  そしてさらには もはやいわゆる宗教としての一派をなすかたちのブディズムというものは・つまりその看板は 言う必要もかかげる必要もない。こうなりませんか?  クリスチアニズムにおいても キリストのキの字をも社会的なまじわりの場でオモテに出す必要はなくなって行くでしょう。  個体の成長は 類としての発展の系譜を繰り返しますから 聖典等の勉強はつづけられて行くでしょうが。

回答No.28

あっ、間違っている。 ───────── 《仏性・dharma-dhatu》は《悟り》の基体、《悟り》の領域・regionみたいなものです。大乗ブディストは、これを信じているんですよ。 ───────── 仏性は、《dharma-dhatu》ではなくて、 《buddha-dhatu》ですね。 まっ、Buddhaとは、dharmaを身につけたもの、《dharma-kaya》のことだからいいか。

bragelonne
質問者

お礼

 ゴータマさんには ブッダ‐ダートゥなる概念はないようなんだけれど いいんでしょうか。  無無一如の信仰形態を立てるのではなく むしろゴータマ時代にすでに 潜在力としてブッダ‐ダートゥなるチカラが想定されていたとしましょうか。

回答No.27

こんばんはです。 投げかけられた問いに対して考えてみたのですけれど、 bragelonneさんの主張の《神》論にしたがえば、 Buddhistの神は、《悟り》ということになるんでしょう。 そして、この《悟り》とは、あきらかに《非経験》的なものです。 経験事象的な意味における我々の気づきである「さとり」とは異なっています。 そして、この《非経験》てきな《悟り》を《神》とした。 この考え方は、それほど、筋の通らないものではないでしょう。 なぜなら、《悟り》が存在するから、ゴータマは仏陀なのですから。この《悟り》が存在しなければ、仏教は存在し得ない。ゴータマ・ブッダもMahavairocana・大日如来の存在もあり得ない。そのブッダの教え、ブッダになれる教え、つまり、仏教など成立し得ない。仏教にとって、《悟り》が存在するということは、アプリオリな前提、公理なのですよ。《悟り》とは、定義できないもの、無定義なんですよ。 と考えるとならば、なんの問題もないのではないですか。 bragelonneさんは、本来、無定義後である《悟り》の説明をせよ、と言っているってことになるのではないですかね。と同時に、《非経験的》な《悟り》を経験的な《悟り》と同一視しているということになるのではないでしょうか。 こういうと大乗ブディストの人たちに怒られちゃうかもしれませんが、 実体的な表現をすれば、 《仏性・dharma-dhatu》は《悟り》の基体、《悟り》の領域・regionみたいなものです。大乗ブディストは、これを信じているんですよ。 原始仏教をみれば、明らかに誰でもBuddhaになれるのであって、《dharma-dhatu》は万人に備わっているのです。にもかかわらず、 Buddhaとarhat(阿羅漢)とは本来、同じものを意味していたのに、いわゆる、小乗では、この二つを分離して、我々人間は、Buddhaの下の境地であるarhatにしかなれない、というようなことをいうのだから、妙なことになる。ゴータマなる人間崇拝をして、それを《神》とする。ここからすべての食い違い、齟齬が起こった。。。。。。 ゴータマさんは、《神》ではないのですよ。そのことを否定しているんですよ。死後、ゴータマという人間を《神》として崇拝することを固く禁止している。 ということで、いかがですか。 bragelonneさんの《神》論と抵触しないと思いますよ。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  (お) ですから 《この上なくとうとい知恵をさとった》などと信仰の徒は 言うわけがありません。聖なる甘えには つねに ひとつにはこんなに甘えていてもよいだろうかという側面から もうひとつに人びととの関係において《すべての人を得るためにすべてと成る》巡礼の道が待っているという側面から 信仰の徒は この上なくきよらかなおそれをいだきます。これが 聖なる甘えです。 ~~~~~~ 仏教でいう《智慧》とは、心のハタラキですよ。なので、 《この上なくとうとい知恵をさとった》は、《この上なくとうとい心のハタラキが存在することに気がついた》という意味になるのでしょう。機能という面からいえば、《如理作意・根源的思惟・yoniso-manasikara》ってことになるんでしょうか。一種のパワー・チカラです。いわゆる、知恵や智慧とは異なりますよ。 仏教でいう《智慧》とは心のハ・タ・ラ・キ!!  ▲(スッタニパータ) ~~~~~  23 師は答えた、  「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。・・・」  ~~~~~~~~~~ これはさすがに言い過ぎ。 アビダルマの先生たちも、成道後の人間・ゴータマさんに人間的な怒りの感情や、恋愛感情があったことを認めていますよ。《無比女》という女性に恋愛感情を抱いたそうですよ、ゴータマさん。人間ゴータマさんは、完全無欠じゃ~ない。肉体という非常に厄介な基体があるんですから。ゴータマさんの祖国が滅ぼされたということを聞けば、悲しんだりもするですよ。 だっけ、肉体という基体のあるなしで、ニルヴァーナを《有余涅槃》と《無余涅槃》と分けたんでしょう。そして、ゴータマさんが死んだ、つまり、《無余涅槃》をもって、ゴータマさんのブッダとしての完成をみたんじゃないですかね~。 わたしは、こうした涅槃の分け方、考え方、嫌いですけれど。 困ったときの《理趣経》頼りということで、  如蓮體本染(じょれんていほんぜん) 不為垢所染(ふいこうそぜん) 「蓮のお花のようにキレイ綺麗だから、アカに染まらないのよ」 ということで。 理趣経の「百字の偈」だけあれば、すべての経典、捨てちゃってもいいわさな~!! と極論(笑い)。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  《スッタニパータ》の第三章《犀の角》では  ▲ ~~~~  35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。  ・・・  ~~~~~  ☆ と語っていますが これは単なる揚げ足取りになりましょうから 触れてみるだけです。 ~~~~~~ そう、これが大問題。これをどう解釈するかですね~。 でもまぁ~、ゴータマさんの生涯をみれば、解けない問題ではないでしょう。 ゴータマさんは、実際、悟りを得る前には、《犀の角》のように修行し、成道後は、仏のオシエを説いていますので。 でも、大乗は、たとえ仏説であろうと、これをバッサリと切り捨てる。 「Buddhaの真意は、そうではない。機根に応じての、これは浅い教えである。大乗こそ《正義》、Buddhaの正しいオシエである」と。 どう折り合いをつけるか、実際、難しい問題ですよね、厄介ですよね~。 辟支仏(独覚仏)・ゴータマの超克の上に、仏教は成立しているんですから。 ~~~~~~   ★ 「オレは悟った、一番エラいんだ」という自覚を否定する心のハタラキがあったということではないでしょうか。  つまりこれは 《社会的動物であること。人は 社会的な独立性(自由意志)を持つが 社会的な関係性をも持つ。相身互い身である》ということではなかったのでしょうか? ~~~~~~ 眠り猫の根幹は、大乗ですよ。そして、さらにその最奥には秘密真言の教えがある。 人間や社会との関係性の失われた仏教など、仏教だなど、考えておりません。そんなものはbragelonneさんのおっしゃる《サトリ》ごっこ、ヨーガ同好会、ヨーガサークルですよ。その存在を否定しませんけれど、肯定するつもりは、髪の毛、一本の毛筋ほどもない!! です。 ~~~~~~   ▲ 25 わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。  と堂々と語っていますよね。やっぱしオレがいちばんエラいんだと思っているようではないですか? ~~~~~~ 人間として、《梵行者・バラモン》としては、一番、エライと言っているんでしょう。 ここに、人間・ゴータマの強い自負心と傲慢を、わたしはみます。「嫌な奴だな~」ってなる。あるいは、言葉が足りない、と思う。 わたしは、わたしが体得したものにしたがって全世界(三界ってことになるのかな)を歩くんだ。それ以外のものに従うつもりはない。だから、こうして(人の求めに応じて)、法を説く、 とか言えばいいんですよ。 仏伝の伝えるゴータマ・ブッダ、基本的に、言葉が足りないんですよ~。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  たしかに  ▲(ヰキぺ:悟り) ~~~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A  宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ という解説があります。  ですが この文章(判断)にもあいまいさがつきまとっています。  (あ) 《真理》はもし《非経験の場》という想定に成るとすれば 人間の経験行為としての《さとり》や《迷妄》からは初めから自由である。《迷妄を持った真理》という表現はマチガイである。  (い) その真理の《取得》 これはあり得ません。経験存在なる人間が 非経験の場なる真理を取得するということは あり得ません。そういう夢を見ることは可能ですが。  (う) しかもそれにもかかわらず 非経験の場なる真理が 真理のほうから われわれ人間なる存在にやどる――すなわち何か分からないナゾとして(これを 霊と呼んでいる)やどる――という想定を人間は 勝手におこなっている。どういうわけか 神や信じるやそして霊といった言葉を持ち得ていて 言語習慣として われわれ人間は 真理の霊によってつつまれているなどと表現したりする。  (え) これらの事情にもとづき 哲学は 神・信仰および宗教にかんする一般理論の構築にうながされている。なぜなら 信教・良心の自由という広義の公理を人類は共有している。  というふうに考えたりするのですが 今回は 定義集でお応えしてまいります。      *  § 1 真理 X / 事実 Y / 真実 Z  (1) あらゆる経験事象を 事実 Y と呼ぶ。  (2) 経験世界における因果関係から自由な場を想定し これを《非経験の場》と呼び 《真理 X 》とする。  (3) ただし 事実も真理も あくまでわれわれ《人間 Z 》が持つものである。  (4) すなわち 事実 Y とは 人間が認識し判断した結果なる《事実認識》としての主観真実である。      事実 Y = 認識事実 Y-Z       もしくは或る人 Zi のそれとして =主観的事実 Y-Zi  (5) 真理 X = われ Zi と神 X との関係          = 非思考の庭(信仰)なる主観的神論 X-Zi  (6) 人間の世界観は したがってこうなる。      われの世界観: X-Y-Zi  (7) 真理 X は どんな名の神でもよいし 《名や存在の無い神 nonX 》でもよい。想定の問題だから。  § 2 《さとり》とは何か  (8) 事実としての世界観 Y-Zi が その内容において間違っていない場合 それは世界のものごとについて――そういう意味での――さとりを得ていると言えるかも知れない。  (9) あるいは 信仰 X-Zi にかんしてなら 上の世界観を促進するチカラを持つようなときにも それとしての《さとり》を得たと言うのかも知れない。  (10) 人間の存在のあり方をめぐるすべての条件をふくむかたちの《境地》 これは 最広義の世界観 X-Y-Zi の良し悪しにかかわると思われる。そういう《さとり》もあり得る。  (11) ただしこれらの三種のさとりと言えども それについて成否や当否を判断する基準は 必ずしもさだまってはいない。すべては 主観(主観真実) Zi であるからだ。同じひとつの事実認識についてさえ 人によってその内容が違う場合さえ起こりうるようなのだから。  (12) ということからするならば 《さとり》は――るる説明なさっているように―― 認識や知識やひとつの知恵といったモノの問題ではなく わが世界観 X-Y-Zi をうんうんと推して歩みゆくそのチカラだということになりましょうか。あやまちうる人間の判断に成るわが世界観を つねに検証しマチガイを正していくそのチカラ に気づくことでしょうか。そのチカラを保ちつづけて行くことでしょうか。  (13)★ ~~~~  仏教でいう《智慧》とは、心のハタラキですよ。なので、  《この上なくとうとい知恵をさとった》は、《この上なくとうとい心のハタラキが存在することに気がついた》という意味になるのでしょう。機能という面からいえば、《如理作意・根源的思惟・yoniso-manasikara》ってことになるんでしょうか。一種のパワー・チカラです。いわゆる、知恵や智慧とは異なりますよ。  仏教でいう《智慧》とは心のハ・タ・ラ・キ!!  ~~~~~~~~~~~~    § 3 実践  (14) 関係の絶対性  ★ ゴータマさんは、実際、悟りを得る前には、《犀の角》のように修行し、成道後は、仏のオシエを説いていますので。  ☆ つねに社会の中にある。ということでよろしいでしょうか?  (このスッタニパータは 成道後に語ったものだとは思いますが)。  (15) 仏仏一如  ★ 《仏性・ buddha-dhatu》は《悟り》の基体、《悟り》の領域・regionみたいなものです。大乗ブディストは、これを信じているんですよ。  ☆ 類型としては 梵我一如であり 梵天(ブラフマン)が神 X だとすれば 霊我(アートマン)は 神の霊 X として《わたし》にやどる。この類型におけるアートマンなる神の霊に 《ブッダ‐ダートゥ(仏性)》は当たる。  《基体・領域》のほかには ここまでに捉えた《チカラとそのハタラキ――推進力というべきような――》というふうにもわたしには見えます。  とたどって来ますと   ★ 「蓮のお花のようにキレイ綺麗だから、アカに染まらないのよ」  ☆ この自性清浄心についても 《シガラミの中にあってしかも染まらないでおのれを保ちつづけるチカラ》という呼び方も生まれて来そうです。  (16) ブッダ‐ダートゥ(仏性)は だれのものか  ▲ 25 わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。  ☆ さとりの智慧なるチカラは 《みづから得たもの》か?  神の霊なら 神のものである。人間は自然本性において(=生まれつき)そのチカラがそなわっているのは めぐみである。  もしそうだとするとき  ★ 仏伝の伝えるゴータマ・ブッダ、基本的に、言葉が足りないんですよ~。  ☆ というおぎないで済むか? 根本的に自尊心がつよすぎるように思われるのですが どうでしょう?  ★ だから、こうして(人の求めに応じて)、法を説く、 / とか言えばいいんですよ。  ☆ 人間が《法を説く》ということ自体が 思い上がりではないでしょうか? われわれには ブッダターなる《われへつねに立ち帰るチカラ》がそなわっている そう思うが あなたはどう考えるか? というふうに話しかけて行けばよいのではないだろうか。  どんな名の神を心にいだいていたとしても 世界中のだれもみな 一人残らず 同じ泉の水の湧き出るチカラがそなわっている。と思うと伝えるだけでよいのでは?  それなら ブディズムもクリスチアニズムも もはやなくなって行きましょう。

回答No.26

こんばんはです。 原始仏教について、何も知らないので、困りましたね~。 眠り猫が興味をもっているのは、唯識なもので。小乗アビダルマはその延長線上……。 しかも、唯識の肝心要のヨーガの部分には、今のところ、興味が全くないもので。また、たとえ勉強をしたところで、この部分は、頭でわかるものではない領域ですから(笑い)。まして、猫の貧弱なオツムであれこれ考えても、どうなる分野ではない。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~~~~  ☆ 《梵天》は ゴータマのさとりを内容としても理解しまた立派だと認めている。という意味でしょうか? ~~~~~~~~~ この《梵天》とは、ゴータマさん自身のことでしょう。ゴータマさんのもう一つの心の声。 「オレは悟った、一番エラいんだ」という自覚を否定する心のハタラキがあったということではないでしょうか。 この自問自答によって、 辟支仏・ゴータマから仏陀・ゴータマへの宗教的回心があった、あるいは、質的変換がおこった。 眠り猫は、かく考えております。 ところでところで、「何を悟ったのか」に拘りますね~。 bragelonneさんのいう《非経験の場》の何かを言葉で語ることはできるのでしょうか。 言葉で語られた瞬間、それが嘘になってしまう時、言葉以外の表現手段があって然るべきでしょう。「?」のままにしておくことは是認されるべきです。 なぜ、言葉による表現にそれほど拘るのですか。 悟れば分かるで、なぜ、いけないのですか。 また、信じることは無根拠であるといいながら、Buddhistがゴータマさんが悟りを開いたことを無根拠に信じていることに対して、それはおかしいと主張なさる。その信仰の根拠をBuddhistに求める。おかしな話でしょう。少なくとも、矛盾している、と思います。 まして、眠り猫は、《asraddhya》の輩ですよ。信仰の部分は、ちょっと(笑い)。 聞く相手を間違っていらっしゃる。 で、話を戻して、ゴータマさんは、菩提樹の下で何を見たかです。 ベッグの『仏教』によれば、 ───────── それは(滅界・涅槃界)はあらゆる時間的制約(俗世)からまったく超越している不死の世界の領域である。仏陀は菩提樹のもとでそのような不死の至福を見いだしたのである。 ───────── ウパニシャッドによれば、アートマンが独存の状態を離れ、ブラフマンに抱かれたとき、歓喜に包まれるそうですから、《梵我一如》状態ということになるのですかね~。あくまで、たとえです。 では、《滅界》とはどのようなものかといいますと、同じくベッグによれば、 ───────── 「汝ら修行者たちよ、ある領域が存在し、そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、虚空無辺処もなく、非想非非想処もなく、現世もなく、来世もなく、太陽も月もない。汝らに告げるが、そこには、来ることもなく、去ることもなく、留まることもなく、死去することもなく、誕生することもなく、転生することもなく、よりどころもなく、発展もなく、支えもない。それが苦悩の終わりである。」 「汝ら修行者たちよ、生まれざるもの、形成されざるもの、作り出されざるもの、構成力から生じたものではないもの(無為)は確かに存在する。……」 ───────── これは、滅尽定に入ったときに、ゴータマさんが見いだしたものなのでしょう。 まぁ、これが悟りといえば悟りで、悟りの内容なのかもしれませんが…… 《BUDH・悟る》は、《perceive・知覚する》程度の意味らしいので、であるとすれば、これが悟りの内容ということになるのかもしれません。しかし、感官知を超えているのですから、perceiveが定義に当たるのか、どうでしょうか。 ということで、説いていないことはないのですよ。これで十分かどうかは、人それぞれの判断だと思います。 このへんにくると、ほとんど龍樹の《中論》の世界ですね~。何を書いているのか、わたしにはまったく理解不能です(笑い)。 なので、 ~~~~~~  ☆ では わたしが知らないだけであるし 知ったとしても理解できないだけであるとなるのかも知れません。  ですけど どうして言ってみれば秘密にしてあるのでしょう? どうもおかしいような気もします。 ~~~~~~ ゴータマさんは、秘密にはしていませんよ。 大乗仏教国・日本では、ゴータマ・原始仏教の本は出しても売れませんからね~。しかも、日本の研究者の多くは、中観・唯識の研究者ですし、ヨーガという(実修を伴う)この分野の研究はやりたがらない。 ですが、一般的には、《縁起の理法》を悟っただとか、悟りの内容は《唯我独尊》とか言われていますかね~。それは悟性の領域でしょうに。。。。。。。 ちなみに、悟ると、自分と相手が悟ったことがわかる《解脱知見》という超能力が得られるそうですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)     *    ★ ~~~~  また、信じることは無根拠であるといいながら、Buddhistがゴータマさんが悟りを開いたことを無根拠に信じていることに対して、それはおかしいと主張なさる。その信仰の根拠をBuddhistに求める。おかしな話でしょう。少なくとも、矛盾している、と思います。  ~~~~~~  ☆ ブディストは ほんとうに信仰の徒なのですか?  あるいはそうだとして けれどもその《信じる》ものが   ★ ゴータマさんが悟りを開いたこと  ☆ という経験事象では ダメだと思います。経験的なものごとは ただ考える・思う・想像する・感じるのであって《信じる》とは 言いません。  ですから ぎゃくにもしゴータマの場合には 無無一如としての信仰を得たというのなら 何の問題もないと言っています。アン‐アートマンないしア‐ブラフマンなる《無い神》を信じる。こう説明すれば 万々歳でしょう。  それがはっきりしないから 後世の大衆たちは その可能性として有り得た無神論なる信仰形態を去って むしろブラフマン(主宰神)=アートマン(霊我)にひとしいブッダ(法身仏)=ブッダター(仏性)をあらたにつくり 仏仏一如という信仰の形態として修正しつつ 自分たちのものとしたと捉えます。  これなら 何の問題もありません。信教・良心の自由にもとづきます。  ★ 信仰の根拠をBuddhistに〔問い〕求める。  ☆ ということは ありません。していません。  ゴータマは 信じるということがどういうことであるのか 分からなかった。分かっていても よう説明しなかった。だから あのくたらさんみゃくさんぼだいなどというさとりを得たと大きな口をたたいた。それではいけないと咎めています。     *  ★ ~~~~   ベッグの『仏教』によれば、  ─────────  それは(滅界・涅槃界)はあらゆる時間的制約(俗世)からまったく超越している不死の世界の領域である。仏陀は菩提樹のもとでそのような不死の至福を見いだしたのである。  ─────────  ~~~~~~  ☆ これが《非経験の場》です。ただちに《不死》だとか《至福》だとかと規定してよいかとなると これはけっきょく《神》のことなのですからそこからの派生概念や属性概念として 人間がこんどは思考力を駆使して得るようになるものだということになります。    あるいはつまり《不死の世界の領域を見い出した》というよりは どうもそれは神の音のようだ われはこれをわが心に受け容れようと言って 受け容れた。だけだと思われます。《神を見た》というのは 誇張があります。  想像としては 特異点なる尖端の場にわれがあるといったような絵を描いてみればよいのではないでしょうか。要らぬことを添えれば この特異点は 十字架じょうのイエスのすがたであると思われます。  つまり  ★ ウパニシャッドによれば、アートマンが独存の状態を離れ、ブラフマンに抱かれたとき、歓喜に包まれるそうですから、《梵我一如》状態ということになるのですかね~。あくまで、たとえです。  ☆ そういうことではないでしょうか。《聖なる甘え》の状態だと見ます。  ただし さらに細かいことになりますが 《非経験の場 つまり神》と《わが心なる非思考の庭》とは 厳密には峻別されねばなりません。庭から神を望み見ようとしても構いませんが 神が見えるわけではない。思考に非ずは 同時に感性にあらずですから。  次に言う《無為》は 《神》のほうの領域です。  ★ ~~~~  ベックによれば    ______    「汝ら修行者たちよ、生まれざるもの、形成されざるもの、作り出されざるもの、構成力から生じたものではないもの(無為)は確かに存在する。……」   ─────────  これは、滅尽定に入ったときに、ゴータマさんが見いだしたものなのでしょう。  ~~~~~~  ☆ つまり わたしの考えでは いくら滅尽定に入ったとしても――つまり非思考の庭を究めたとしても――ひとが神を見ることはあり得ません。もし  ★ 〔《無為》とは〕 ゴータマさんが見いだしたものなのでしょう。  ☆ ということを活かすとすれば ゴータマ氏はその非思考の庭にあってヒラメキ(インスピレーション)を得て あたかも神を見たと感じた。という程度にとどめるのが 自然だと思います。  ★ まぁ、これが悟りといえば悟りで、悟りの内容なのかもしれませんが……  ☆ いいえ。と ここは厳密に成らざるを得ません。  (あ) これは 《さとり》ではありません。知恵が得られたのではなく 知恵がもたらされる泉がわが心に成った(つまり 自然本性としてもとからあったものに気づいた)ことだと捉えます。  (い) つまりさとりの内容はありません。知恵が得られるようになるよという予感を持ったことだけです。予告編を見たということだと思います。  (う) 古臭い言葉で言えば 天の国の人名簿にあなたの名が書き記されたと思えばよいし ただそれだけだと思うのが 聖なる甘えの中身だというふうに見ます。  (え) もっと言えば この神体験〔における信仰の成立〕のあとでは 人びとの苦悩を自分のそれとして受け留めるたのしくもつらい・長くけわしくもたのしい道をあゆむことになる。ということになるはずです。  (お) ですから 《この上なくとうとい知恵をさとった》などと信仰の徒は 言うわけがありません。聖なる甘えには つねに ひとつにはこんなに甘えていてもよいだろうかという側面から もうひとつに人びととの関係において《すべての人を得るためにすべてと成る》巡礼の道が待っているという側面から 信仰の徒は この上なくきよらかなおそれをいだきます。これが 聖なる甘えです。  (か) もしお望みなら これが《さとり》の純然たる中身としての定義であり説明です。ゴータマが こんなことを語っただろうか。  (き) せいぜいが:  ▲(スッタニパータ) ~~~~~  23 師は答えた、  「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。・・・」  ~~~~~~~~~~  ☆ であろう。  ★ これで十分かどうかは、人それぞれの判断だと思います。  ★ ゴータマさんは、秘密にはしていませんよ。  ☆ 《さとりを得たぞ》という表明としては 秘密ではないようです。  ★ ちなみに、悟ると、自分と相手が悟ったことがわかる《解脱知見》という超能力が得られるそうですよ。  ☆ たぶんもしそういうことがあるとしたら それは 《非思考の庭》にわが心が憩うというときの能天気の状態から 相手と相対しているとき気を感じたりして分かるというようなことでしょう。  しかもその分かる内容は けっして――けっして――《ひとがさとりを得た》というような何かゴールを意味するような事態ではなく そのつどの知恵の発現としてなのでしょう。  でももしそうだとしても その《解脱知見》を持ったとしてもそのあとただちに 解脱知見し得ていない人びとのほうへ心が向かうことでしょう。なぜなら 自分の心の中にもそういう隙間があるしもっともっと大きな悩みも――尽きない悩みも――持ち得ているからです。必要なぶんだけ その悩みがそのつど起こりそれの解決へとうながされます。そういう巡礼の旅路をひとはあゆんでいると心得るのが 自然でしょう。  《さとり》は もう忘れましょうよ。  少なくとも ニルワーナは いくら究めても かんばしい結果をもたらすとは思えません。ま ひとそれぞれでしょうが。  

bragelonne
質問者

補足

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  この《梵天》とは、ゴータマさん自身のことでしょう。ゴータマさんのもう一つの心の声。  「オレは悟った、一番エラいんだ」という自覚を否定する心のハタラキがあったということではないでしょうか。  この自問自答によって、  辟支仏・ゴータマから仏陀・ゴータマへの宗教的回心があった、あるいは、質的変換がおこった。  眠り猫は、かく考えております。  ~~~~~~  ☆ まづここに反応を起こしました。  まづは その《仏陀・ゴータマへの宗教的回心があった、あるいは、質的変換がおこった》あとの言説を見てみましょう。  《スッタニパータ》の第三章《犀の角》では  ▲ ~~~~  35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。  ・・・  ~~~~~  ☆ と語っていますが これは単なる揚げ足取りになりましょうから 触れてみるだけです。  第二章でどういうことを語っていましょうか? 牛飼いダニヤの台詞は 渇愛します。そうして章のぜんぶを引きます。  ▲ (スッタニパータ <2,ダニヤ>) ~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  18 牛飼いダニヤがいった、  「わたしはもう飯を炊き、乳を搾ってしまった。マヒー河の岸のほとりに、わたしは(妻子と)ともに住んでいます。わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」  19 師は答えた、  「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿りをなす。わが小舎(すなわち自身)はあばかれ、(欲情の)火は消えた。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」  20 (ダニヤ)  21 師は答えた、  「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」  22  23 師は答えた、  「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。・・・」  24  25 師は答えた、  「わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。」  26  27 師は答えた、  「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。」  28  29 師は答えた、  「牡牛のように結縛を断ち、臭い臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたしくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」  30 忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のことを語った。  31 「われらは尊き師にお目にかかりました、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれわれの師となってください。大いなる聖者よ。  32 妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッタ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅しましょう。」  33 悪魔パービマンがいった、  「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」  34 師は答えた、  「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち   ▲ 21 すでに渡りおわり、彼岸に到着している。  のなら 文字通り《仏陀・ゴータマ》の誕生だと見てよいのでしょう。  ちなみに   ▲ 23 わたしにはいかなる悪も存在しない。  を引き合いに出すと その《悪》は ブッダへの道を妨げるものであって 一般に言う悪ではないと言われそうですから もう引き合いに出しません。  そこで   ▲ 25 わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。  と語っています。   《みづから得たもの》といういわゆる自力の表明と   《他人に雇われる必要はない》というその独立性の表明  この二点(ないし 自尊心としてひとつ)に注目して考えてみます。  つまり ねこさんのご見解では 《梵天》はただの作中人物(?)であって 要は《自問自答》を表わしていると捉えて 次のようになっています。   ★ 「オレは悟った、一番エラいんだ」という自覚を否定する心のハタラキがあったということではないでしょうか。  つまりこれは 《社会的動物であること。人は 社会的な独立性(自由意志)を持つが 社会的な関係性をも持つ。相身互い身である》ということではなかったのでしょうか?    《雇われる必要はない》というのは 関係性を否定していることではない。と見るべきなのでしょうか?感じとしては 関係性は おれには ないと言わんばかりに思われますが。つまり《35 朋友を欲することなく 犀の角のようにただ独り歩め》と。  では 《みづから得たもの――つまり そのさとりの智慧なのでしょう――》というのは どうでしょうか?  つまり純然たる自力で得たと言っていると見るのは よこしまで僻みの入った見方になりましょうか?  でも 《「オレは悟った、一番エラいんだ」》からは その唯我独尊なる状態を一段高いところへ揚げて棄てることによって 人間性にとっての普遍的な心の状態に到ったのですよね? それなのにとわたしには思えるのですが。   ▲ 25 わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。  と堂々と語っていますよね。やっぱしオレがいちばんエラいんだと思っているようではないですか?     *  ★ なぜ、言葉による表現にそれほど拘るのですか。 / 悟れば分かるで、なぜ、いけないのですか。  ★ bragelonneさんのいう《非経験の場》の何かを言葉で語ることはできるのでしょうか。  ☆ ですから ぶらじゅろんぬ仮説では:  (あ) この非経験の場――つまり 神――をわが心なる非思考の庭に迎え入れた(もともとやどっていた神の霊を受け容れた)という神体験を構図として明らかにしています。つまり この場合は・この場合こそ 外形的な説明に成らざるをえません。思考に非ざるものを《非思考の庭に迎え入れた》というような外形的な説明に甘んじざるを得ません。  (い) また信仰があたえられるという神体験において 《この上なき智慧をさとった》と言う必要はなく また言ったら マチガイだと説明しています。泉の水は 必要なとき必要なだけ――信仰をあゆむ過程のそのつど――湧き出て来るものだという中身です。  (う) (この中身も 外形的な説明です。中身の中身は いまわたしが泉の水を得て 《神と信仰とそしてそこからの負の遺産としての宗教に関する一般理論》をるる説明しているその内容として勝負しています。つまり そのつど必要なだけの知恵のことです)。  すなわち  ★ 悟れば分かるで、なぜ、いけないのですか。  ☆ そのさとりにおいて   ▲ 34 実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。  ☆ などと ウソを言っていてはいけません。つまり《この上のない智慧を得た》という唯我独尊のクセがちらついています。ならば そのさとりをきちんと説明せよと問い返します。  言いかえるなら 人間の得ることのできる知恵は 時間過程に沿った部分的なものではないのか? と問うています。  《境地》にしてもそうです。境地なら 知恵よりも――たとえばその自己表現にともなわれるかのような《香り》をふくめた――もっと包括的なものに成りましょうが それとても人間にかんするかぎり相対的なものなのですから やはり時間過程に沿った部分的なものに成らざるを得ません。     *    (つづく)

回答No.25

こんばんはです。 《唯我独尊》。 人は誰でも自分が一番尊いと思っている。 カミを信じているといいながら、旧約聖書のヨブのごとく、実は、自分をカミ以上の存在だと、心の奥底では思っている。それは表層意識に現れないだけ。根源的無明。。。この事実に気づいているかいなか。 と続けようとしたのですが、ここからうまく議論が展開できない。怪しい方向に進む恐れがあるので、この考えは棄却!!できないことないですが、《アートマン》っぽいものを必要としそうなので(ポリポリ)。 ということで、 ただわたしのみがひとり尊いという《唯我独尊》であるならば、このことは万人にも当てはまるはずだ。よって、この《唯我独尊》はこのままでは、否定されねばならない。けっしてわたしひとりが尊いのではない。人は誰でも自分が一番尊いと思っているのだから。 ───ここから論理的な飛躍がありますが─── 《唯我独尊》とは、唯《わたし》ひとりが尊いのであるのと同時に、すべてのわたしが等しく尊くなければならない。これが《唯我独尊》の真の意味だ。 みたいな。 ───────── ☆ どの《真実》ですか? どういう中身なのですか? と。 ───────── この真実とは、 《人は誰でも、悟れるのだ》 ということです。 《ゴータマさんが悟れたように、人は誰でも同じく悟れる》ということです。 あるいは、《わたし(ゴータマさんのことです)が悟ったように、誰でも悟れる》でもいいと思います。 ~~~~~~  ならば 《どうせ説いたって 誰にもわかりゃあしないさ》というのは よっぽど自分が――さとりを得たと言っている矢先から――阿呆だったってことですよね。 ~~~~~~ 梵天勧請によって、これは否定されている。 しかし、《どうせ説いたって 誰にもわかりゃあしないさ》のとおり、実際、誰にも分かってはいない。平気で阿呆呼ばわりをする人がいる(笑い)。 ゴータマさんの仏教には、まだまだ、欠けているものがある、という眠り猫のような《asraddhya・不信》の輩(やから)もいる。 ゴータマさんの予想は正しかった(笑い)。 というのは冗談ですが、 無色四禅は、bragelonneさんのいう《非経験》の領域ですよ。仏典によれば、ゴータマさん、自分の(超)経験を弟子たちに比喩を交えながら語っています。言葉で語ることができないことを伝えようとしています。bragelonneさんがご存知ないだけで、しているんですよ。その方法を含めて。 このゴータマさんが示した方法を手がかりに、のちの時代に、ヨーガという手段による深い瞑想状態に達して、そこで体得した真実をもとにし、のちの時代に般若経、華厳、解深密経などの経典が生まれたわけです。 なので、アホーはちょっとひどいんじゃないですか。 ───────── ☆ もしこれが家本体でありさとりの内容であるとしたら:   (あ) ものごとについての片寄りのない見方〔を持つこと〕   (い) 生物はみな生きていること   (う) 生きていることにおいて 個々の存在は互いに対等であること  でしょうか。 ───────── それは知識でしょう。分別の領域であって、《無分別智》ではない。そもそも、《無分別智》の《智》はこころの働きですから、いわゆる智慧でもない。あえていえば、この心のハタラキ・《無分別智》を体得することこそが悟りであり、悟りの結果なんです。 また、(あ)~(う)の内容を知識として知ったところで、実際の生活にいかせなければ何の意味もないでしょう。知識としてもっていたとしても、(あ)~(う)のことをすっかり忘れて、わたしたちは《唯我独尊》の状態で、他者のことを顧みないで生活をしています。なので、仏教では《不殺生戒》があるわけです。生き物の命は、わたしの命と等しく大切なものだから、自分の欲望のしたがうままに殺してはいけない、と説くのですよ。 また、仏教の戒は、他者からの強制ではありません。これは、みずからの自由意志で「そうします」と宣言して、みずからに制限を科すのです。だから、お勤めの時、声を出して、「不殺生ホニャララ」と唱えるんです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  《唯我独尊》。  人は誰でも自分が一番尊いと思っている。  ~~~~~  ☆ いちおうこの点についても触れたいと思います。  それは 《尊い》の細かい意味の違いによって話は違って来ると思います。  いわゆる自分がかわいい だからほかの人よりもつめたく扱われたりするのを嫌う その意味で自分をとうとぶ。であったり。  あるいは むしろ《偉い》という意味で《尊い》を用いている場合であったり。  ゴータマの場合は この《偉い。つまりはほかの誰よりも人間が能力としても何にしても存在じたいとして 立派である》と言おうとしているのではないかと受け取っていましたが。  ★ カミを信じているといいながら、旧約聖書のヨブのごとく、実は、自分をカミ以上の存在だと、心の奥底では思っている。  ☆ 《自分をカミ以上の存在だと、心の奥底では思っている》――これはないと思いますよ。  子どもたちや財産や何もかもを奪われ からだも皮膚がただれた(?)状態にまでなっても そして妻からは そこまで神に嫌われたのなら おさらばすればよいではないかと言われても まだ心は崩れなかった。  というのも なぜだ? という問いをむしろ大胆に神に向けて突きつけている。なぜわたしは このひどい境遇に落とし入れられたのか? と尋ね続けている。神につっかかっている。のではあっても 神をなみするのではなく また信仰を捨てようともしていない。  自分の行動がどうしてこのような悲惨な状態にみちびかれねばならないのか? と神に問い質すことにおいて あるいはそれは 自分の存在が神よりも偉いと思っていると受け取られるのかも知れませんが もしそうなら 言わば神を従えているのですから もう神に対して直談判をするということもなくなる。と思われるのです。  思い上がりがあったかも知れなくても それは なぜだ? という問い求めの気持ちの高ぶりなのであって 神よ答えたまえと 執拗にえらそうに迫っている。神の声にいつも従っているゆえに いまのひどい境遇はなにゆえ? と問い続けているのだと思いますが どうでしょうかねぇ。  いろんな解釈がありうるかも知れません。  ★ 《唯我独尊》とは、唯《わたし》ひとりが尊いのであるのと同時に、すべてのわたしが等しく尊くなければならない。これが《唯我独尊》の真の意味だ。  ☆ たぶん問題は やはり《おれは 目覚めた》とわざわざはっきりと公然と宣言したこと これと合わせて この唯我独尊は捉えられるのだと思うのです。  もしたとえ皆がそれぞれ唯我独尊を心に思っていたとしても このブッダ宣言は ふつうしないものですから。  ★ ~~~~   ☆ どの《真実》ですか? どういう中身なのですか? と。   ─────────  この真実とは、  《人は誰でも、悟れるのだ》  ということです。  《ゴータマさんが悟れたように、人は誰でも同じく悟れる》ということです。  あるいは、《わたし(ゴータマさんのことです)が悟ったように、誰でも悟れる》でもいいと思います。  ~~~~~~~  ☆ この場合でも 同じように問い返しがついて行きます。  《悟れる》って 何を? という問い返しです。  ★ ~~~~    ☆ ならば 《どうせ説いたって 誰にもわかりゃあしないさ》というのは よっぽど自分が――さとりを得たと言っている矢先から――阿呆だったってことですよね。  梵天勧請によって、これは否定されている。  しかし、《どうせ説いたって 誰にもわかりゃあしないさ》のとおり、実際、誰にも分かってはいない。平気で阿呆呼ばわりをする人がいる(笑い)。  ~~~~~~   ☆ 《梵天》は ゴータマのさとりを内容としても理解しまた立派だと認めている。という意味でしょうか?  つまりそうだとして その内容は何か? どのように立派であるのか? これが一向に説き明かされないと受け取っている者にとっては いつまでも問い返しをしつづけなくてはなりません。そこのところを 説明してくださいと尋ねつづけています。  《誰にも分かってはいない》ということは ゴータマ本人もそして梵天もでしょうか? それなのにさとりが成就したということを事実として ことは運ばれている。のでしょうか?  ★ ~~~~  無色四禅は、bragelonneさんのいう《非経験》の領域ですよ。仏典によれば、ゴータマさん、自分の(超)経験を弟子たちに比喩を交えながら語っています。言葉で語ることができないことを伝えようとしています。bragelonneさんがご存知ないだけで、しているんですよ。その方法を含めて。  ~~~~~~   ☆ では わたしが知らないだけであるし 知ったとしても理解できないだけであるとなるのかも知れません。  ですけど どうして言ってみれば秘密にしてあるのでしょう? どうもおかしいような気もします。  ★  あえていえば、この心のハタラキ・《無分別智》を体得することこそが悟りであり、悟りの結果なんです。  ☆ だとすれば    《境地》  の問題だということだとわたしは 理解します。つまりは     信仰が成ったあとその動態としての過程において    非思考の庭をとおして    必要なときに必要なだけ知恵がヒラメキをつうじて与えられる。  というのと おおむね同じ内容だとも考えられます。  つまりは そこで問題であり中核であることは そこからいつでも汲めども尽きぬ泉の水が湧き出るというようにその知恵としての水が信仰をとおして得られるという境地にあると確かに言えそうです。  しかもさらに細かく問題は これは信仰が与えられたということ――わが心なる非思考の庭が成ったということ――が中核の出来事なのであって さとりや知恵は そのあとの過程で得られるものだと理解しているはずです。  しかるにゴータマ氏は なぜ《目覚めたところの智慧や境地》を説明するにあたって 《苦を知り その苦から解脱せよ》とか 《無明を知りこれを明知に転換せよ》とか いちいち道の歩き方をオシエとして持ち出して来ているのか?     つまりはむしろ 《境地》の問題よりも この四聖諦等々の・歩き方のオシエのほうに重点が置かれているように見える。これは どうしてか? 何とも要らぬ飾りが多すぎるように感じられる。というのが なお残る物言いです。  ★ また、(あ)~(う)の内容を知識として知ったところで、実際の生活にいかせなければ何の意味もないでしょう。  ☆ もし《境地》を言うのであれば つねに知識や知恵を実際の生活に活かせるように準備がととのっていることを意味するはずです。  境地は そういう生きた水の湧き出てはたらくそのチカラのことだと考えられます。  もしゴータマのさとりもそうであったとすれば そのように説明すればよいでしょうし 違うのなら きちんと自分の言葉で自分の実践理論として人びとに説けばよいのだと思います。  なぜしていないのか? と問うことは 誰でもよいのですから ゴータマに代わって説明して欲しいということを願い出ている。こういう質問なはずです。  ★ ~~~~  また、仏教の戒は、他者からの強制ではありません。これは、みずからの自由意志で「そうします」と宣言して、みずからに制限を科すのです。だから、お勤めの時、声を出して、「不殺生ホニャララ」と唱えるんです。  ~~~~~  ☆ この問題ないし課題は 《境地》ならすでに解決済みであると思われるのですが。  まだ どうもあやしい。と感じるのですけれど。・・・

回答No.24

こんばんはです。 No22のkazamidoriさんの回答を読んでの感想です。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ 「まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をしていた。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。」(『ゴータマ・ブッダI』四一七~四一八ページ) ~~~~~~ 何、すっとぼけたこを言っているんでしょうか、というのが率直な感想。   《キリストの言葉とされるもの、そのものは特定の教義というものがない。》   《イエス自身は、オシエの内容を定式化して説くことを欲せず、相手の能力に応じ、相手に応じて異なった説き方をしていた。》───イエスは比喩を多用した───   《だからかれのオシエの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。》 それは、何も仏教だけに限ったものじゃあるめ~、キリスト教だって、似たようなもんだろうが。 クルアーン、読んだことがないからよく分からないけれど、眠り猫が読んだ本によると、 クルアーンの内容は支離滅裂ってことじゃねぇか~。この矛盾の解決のために、世界に冠たるイスラム哲学やイスラム法学が生まれたんじゃねぇか~。 オシエは、聖典から読み取るものでしょうが。 聖典は教義書や哲学書ではないというの、まったく。 パウロの手紙が聖書に加えられ、福音書と同等の価値を有するとされるのならば(福音主義は違うけれど)、阿毘達磨の教学書をはじめとする、膨大な論藏も仏典に加えればいいだけの話。ねぇのか、阿毘達磨の論書には哲学が。 そもそも、仏教とは、《経・律・論》の《三蔵》、つまり、お経と戒律(書)、論文をすべてひっくるめて言うんだろうが。 嘘か本当か分からないけれど、第一回結集の時、教えはアーナンダが中心になり、戒律はウアパーリが中心となり編纂されたのだ───どちらもゴータマ直説のオシエです───から、少なくとも、経典と戒律とは同等の価値を有するはずだろうが。。。。 です。 ☆☆☆☆☆☆ クリシュナですか。元々は、アーリア人のインド侵入以前の土着の神さまみたいですね。それがバラモン教に組み込まれて、ヴィシュヌ・クリシュナとなった。 眠り猫の怪しい記憶によりますと、 クリシュナ、死んでは、生まれ変わって、この世に再生するはずなんですよ。で、宇宙の最後の時、人々を救済するような伝説があったはず。それで、様々な姿に《顕現・アヴァターラ》できるヴィシュヌ神と同一視されるようになったんじゃないかな。救世主としてのクリシュナは、のちに、ヴィシュヌの顕現であるカルキに奪われてしまいますけれども。 のちの時代になりますと、ブラフマナーとヴィシュヌ、シーヴァを一体視するする考え方も生まれましたが、あくまで、クリシュナはヴィシュヌのアヴァターラの一つです。 ヴィシュヌ教徒は、ヴィシュヌ神を宇宙の最高原理であるブラフマン以上の存在と考えているんじゃないですかね~。グノーシスで喩えると、ブラフマナーはデミウルゴス、ヴィシュヌは《真のカミ》みたいな話もあるので───グノーシス同様に、ブラフマナーはヴィシュヌの存在を知らない───。しかも、ブラフマナーはいっぱいいて、それぞれの宇宙を創造したそうな。。。ということで、ヴィシュヌは、ユニバースだけの神ではなく、この宇宙の外にあるマルティヴァース、メガヴァースの真実在ってことになりますかね。無数の仏国土・宇宙の究極の真実在、法身仏みたいなもんでさ~、ヴィシュヌ神は。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そんなむつかしいことではないと思いますよ。  ゴータマ氏は 何をさとったと言ったのか? ――これだけだと思いますよ。  だって さとりを得たと言ったのだから。では 何を? と尋ねるのはとうぜんです。  それだけのことではないしょうか。  自分で説明していないとすれば 誰かほかの人でもいいから説明や定義をおこなうとよいと思われます。  聖書は アブラハムから モーセ そして詩編やイザヤやヨブやの広い意味での預言者たちを経て イエスに到る系譜を基礎として ではイエスは何のために・何をしようとして・もしくは何を伝えようとして 出て来たか? この問いに答えることのみが 核心だと思います。  ほかにもけっきょく人それぞれに自由に読めばよいわけですが イエスをキリストと呼ぶようになったという問題に限れば――それが 中核の主題だと思いますので―― イエスの人類史上における登場は 果たして何のためであったか? これのみだと受け留めています。  つまり オシエがどうのとかこれこれの行動は何を意味するかとかは 副次的な問題だと見ます。  神は 世界中において名が違っていても・また無い神であっても 全体としてひとつだということ。  そして神を受け容れるなら 汲めども尽きない泉の水があなたの心に湧き出しますと伝えたこと。  これだと見ます。  わたしのブディズム批判は ゴータマが問題だという趣旨です。念のために。  後世においては その欠陥を人びとはおぎなったのだとさえ見ていますから。《ブッダター》をはっきりと言葉として持ち出したことなどなど。

回答No.23

こんばんはです。 ゴータマさんは、何を悟ったか? やっぱ、「自分が悟りをえた」ということを悟ったということになるんでしょうね。 まぁ、《唯我独尊》を悟ったということになります。 ただ、問題は《唯我独尊》の内容です。 梵天勧請のくだりを見ると、いわゆる成道直後には、 《唯我独尊》、つまり、《ゴータマ仏陀のみがこの世でもっともと尊い》、《偉い》 ということを悟った。 そして、ヴェーダの神々を含めて、「みんなアホーだから、俺が悟ったということ、そして、その悟りに到る道を説いたとしても、分かりっこない。俺がキの字扱いされるのがオチだから、説くの止めよう。このまま、死んじまおう」と思った。 でも、この《唯我独尊》は梵天の登場によって否定される。この《唯我独尊》は一度否定されねばならない。 梵天がバラモン教で宇宙の最高実在とされる《ブラフマン》か、その顕現である神としての《ブラフマン》かどうかはさして重要ではない。ゴータマ自身の内なる声であっても構わない。梵天がゴータマさんに「教えをといて下さい」と三度お願いしたことも重要ではない。ゴータマと梵天、どっちが偉いかなんかもどうでもいいこと───ゴータマ仏陀と、梵天の上下関係を気にする人が結構多いので───。 重要なのは、《オシエ》を説こう、としたこと。 《自分だけではなく、人は誰でも悟れるのだ》 《この真実・satyaは示されるべきなのだ》 と思ったこと、気づいたこと、直観したこと、悟ったこと。 ゴータマ仏陀ひとりが尊いという独善的な《唯我独尊》から、生きとし生けるものすべての平等の《唯我独尊》へとパラダイムチェンジしたこと。 ここが重要だ!!と眠り猫は考えております。 まぁ、小難しい理屈をこねれば、ここで《無分別智》が完成したとか、仏陀の四つの智慧の一つ、《平等性智》が完成したとか言えるんでしょうがね。 そんな小難しいことは、悟ることには関係ないでしょう。ゴータマさんは、それを知らずに悟りを開いたんだから。 ゴータマさんの悟りのオシエ、悟りの内容、ココにあるじゃないでしょうか。 《無分別智》でさ~。 「オケラだってアメンボだって、みんなみんな、生きているんだ、友達なんだ~♪」というわけで、一切衆生平等なんでさ~。 人間にだけ開かれた教えではなく、生きとし生けるものすべてに開かれたオシエなんです、仏教は。これを普遍宗教と呼ばず、何を普遍宗教というですかね~。 最後に一言、 ゴータマさんは、真理に気づいたのではなく、《真実・satya》に気づいたんです。《諸法実相》といってもいいわさな~。 付け足し、付け足し、 成道して、ゴータマさんは、縁起の理法を悟ったわけではない。 成道のだいぶ前に《縁起の理法》を悟り(これは悟性や理性の領域です)、この《縁起の理法》を手がかりにして、悟りへの道を切り開いたので。 また、《四聖諦》を悟ったわけでもない。 《四聖諦》は、初めての説法のときに、どうすれば《悟り》に至ることが出来るか、その方法をわかりやすく(?)説いたものです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答ありがとうございます。  ★ ~~~  ゴータマさんは、何を悟ったか?  やっぱ、「自分が悟りをえた」ということを悟ったということになるんでしょうね。  まぁ、《唯我独尊》を悟ったということになります。  ~~~~~  ☆ えっ? えっ? えっ?  ということは たとえば    われは人間なりと自覚し自覚するということをさとった  とでもなりましょうか。  ★ ~~~~  重要なのは、《オシエ》を説こう、としたこと。  《自分だけではなく、人は誰でも悟れるのだ》  《この真実・satyaは示されるべきなのだ》  と思ったこと、気づいたこと、直観したこと、悟ったこと。  ゴータマ仏陀ひとりが尊いという独善的な《唯我独尊》から、生きとし生けるものすべての平等の《唯我独尊》へとパラダイムチェンジしたこと。  ここが重要だ!!と眠り猫は考えております。  ~~~~~~  ☆ 残念ながら 分かりません。  1. さとりを得たと思ったそのさとりの中にまだ《独り善がり》の要素が残っていた。んなばかな!  2. もし《オシエを説こうとした》なら そのオシエの中身はすでにそのとき自分には分かっているのでなくてはおかしい。  それなのに実際は おそらく外形的な説明として・道の歩き方として 《足場》を築くという意味での《オシエ》をしか説いていないと見られます。  もし家本体ではなくその足場をしか言葉に表わせないというのなら そういう限界についてもすでに心得ているのでなければ さとりとは言えない。  3. これは正真正銘の揚げ足取りですが   ★ 生きとし生けるものすべての平等の《唯我独尊》  ☆ という表現には自家中毒が見られます。《唯》が据わり心地がわるいです。  4. (2)と同じですが 繰り返します。  ★ 《自分だけではなく、人は誰でも悟れるのだ》  ☆ とくれば 《何を?》という問いがともなわれているはずです。つまりこの問いを自分自身に対して問い終わっていなければウソです。  5. 同じツッコミをさらにつづけます。  ★ 《この真実・satyaは示されるべきなのだ》  ☆ どの《真実》ですか? どういう中身なのですか? と。  ★ ~~~~  《無分別智》でさ~。  「オケラだってアメンボだって、みんなみんな、生きているんだ、友達なんだ~♪」というわけで、一切衆生平等なんでさ~。  ~~~~~~  ☆ もしこれが家本体でありさとりの内容であるとしたら:   (あ) ものごとについての片寄りのない見方〔を持つこと〕   (い) 生物はみな生きていること   (う) 生きていることにおいて 個々の存在は互いに対等であること  でしょうか。  ならば 《どうせ説いたって 誰にもわかりゃあしないさ》というのは よっぽど自分が――さとりを得たと言っている矢先から――阿呆だったってことですよね。  つまり  ★ これを普遍宗教と呼ばず、何を普遍宗教というですかね~。  ☆ はうべなわれます。誰もが知っていることであり 一般にそうありたいと願うことですから。  でもこの内容をさとりの中身だとするとしたら みんなに笑われちゃいますよ。つまり この中身をわざわざ名称をつけて ブディズムだというのは ちょっと・・・。    ゴータマさんよ なめたらいかんぜよ。

noname#195588
noname#195588
回答No.22

仏教にクリシュナが登場しない気がするけど、なぜだろう と思う今日この頃。 宇井伯寿と中村元の方法論に問題があるそうです。 ですが、中村元という大きな壁をどう越えていくのは知りませんが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 宮元啓一 仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む かくして、目覚めに関わると見られる文章は、みな後世の増広になるものであり、ゴータマ・ブッダその人が、目覚めをいかなるものと考えていたかを知る術はまったくない、ということになります。 そこで、中村元博士はこう結論づけます。 「まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をしていた。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。」(『ゴータマ・ブッダI』四一七~四一八ページ) 右の仏教文献学の常識の一つは、かくもニヒリスティックな結論を導き出すのです。 中略 中村博士のように、ゴータマ・ブッダにはまとまった教義(考え、哲学)がなく、ケースバイケースで(行き当たりばったりに)人を導いたということだと考えてしまうと、じつに奇怪なことになります。つまり、中村博士説では、法門はたくさんあるけれども、 そのどの門をくぐっても、あたかも映画のセットのように、そこにあるのはただの空き地だということになるのです。 ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、アートマンがあるとかないとか 対立する二つの意見を経験的に判断できないなら 悟性ではなく、理性の問題になるのでしょうか? するとアートマンがあるとかないとかいうことで 何をしようとしているのか、という問題を考えたらどうですかという まるでカントのようなことを最近は考えつつ カントは難しいなあ。と思うのであった。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  ところで、アートマンがあるとかないとか  対立する二つの意見を経験的に判断できないなら  悟性ではなく、理性の問題になるのでしょうか?  ~~~~~  ☆ ですから――こうやってやり取りをするからには 経験合理性にもとづく妥当性において当否を判断することになっていますが(つまり《理性の問題になる》にはなるのですが)――   こと 《アートマン》にかんするかぎりでは     理性および感性を超えたところの非経験の場について   経験思考をとおして何とか妥当な見方を模索する  ことになるのだと考えます。  つまり早い話が アートマンは もし非経験の場(そのチカラ)のことだと想定した上では    アートマン(霊我ないし神の霊)があるとか無いとかと   言っても 経験事象としての有無や因果関係のことではない   のですから 霊の有無は どちらも互いに対等でひとしい。  と経験思考において見なされることになる。こう考えます。  早い話が      アートマン(霊我)やブッダター(仏性)と言おうと   アン-アートマン(無我)と言おうと どちらも 《信じる》   ものを――つまり神を―― 有る(存在する)と言いたいか   無い(そんなものなどいない)と言いたいかの――自由な選択   としての――好き嫌いの問題になる  のだと。   ちなみに ここで三つの信仰形態が得られています。それらは類型としてみな互いにまったく同じだというものです。    ・ 梵我一如:神の霊は アートマン(霊我)       ・ 無無一如:神の霊は 非在であり アン‐アートマン(無我)    ・ 仏仏一如:神の霊は ブッダター(仏性・自性清浄心)  これが   ★ ~~~~  するとアートマンがあるとかないとかいうことで  何をしようとしているのか、という問題を考えたらどうですかという・・・  ~~~~~~   ☆ という問い求めについて質問者の考えるところです。  ★ カントは難しいなあ。  ☆ カントは 神の霊――物自体?――を棚上げするかたちで 梵我一如の類型を図式化する寸前にまで行っているのではないでしょうか?  宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)や世界霊魂(アニマ・ムンディ)としても 梵我一如の信仰類型をなぞらえることが出来るはずです。そして 上に示した試論の三つの形態 これらを棚上げせずに 正面から捉えていたとしたら よかった。と思います。  という手前味噌の議論です。  ▲(宮元啓一) ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。  ☆☆ さとりの智慧については 本体は定義も説明もなく ただ外形的な説明をするのみである。入口としての《門》については説明がある。また家本体については説明がなく 家を建てるときの足場としての説明は 大いにいろんな概念を用いて組み立ててある。うんぬん。  ☆ たぶん  ☆☆(No.19お礼欄) 53. さとりは非思考の庭においてそのつどのヒラメキから得られるそのつど必要なだけの知恵である。という立ち場  ☆ が妥当である。とこれまた 手前味噌なのですが 考えています。  かの成道において おれは真理についてすべてをさとったんだぞとか 神の霊を思うがままにあやつれる智慧を体得したんだぞとか 最高・絶対のさとりを言ってしまったばっかりに ボタンの掛け違いから起きるマのチガイのように いろんな問題は矛盾をはらむようになっている。  こう考えています。  ★ クリシュナ  ☆ の主題は いま分かりません。分かっていることは ヰシュヌとともに クリシュナは 主宰神ブラフマンに吸収されているかたちが もっとも妥当な神論であるように思われることです。つまりは ブラフマン=アートマンの一如のもとにおさまるのではないかというふうにです。  文献学的な裏づけは欠いた問い求めとして里程標です。

回答No.21

こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ 仏教で信がことさら複雑になっている理由の一つは、 仏教は、信を、《信・sraddha》の他に《不信・asraddhya》の二つに分類していることにあると思います。 なぜ、信を二つに分けるのだ? 眠り猫が考えるには、例の仏教的善悪分類法───つまり悟りに役立つかどうか───が関係していると思います。 つまるところ、《信》とは仏教の教えを信じるということなのでしょう。それを信じないこころ(のハタラキ)・不信は、《煩悩》・《悪》だということになります。 ということで、アビダルマ(説一切有部)では、  《信》は大善地法、  《不信》は大煩悩地法 に分類されます。 バクティ・bhaktiは、バラモン・ヒンドゥー教の《信・believe》ですから、仏教のいうところの《sradhha》にはならない。アビダルマ的な分類では、bhaktiは《asraddhya》ということになるんじゃないですかね(わらい)。 つまり、 Buddhistにとって、 Buddhismを信じないものは、み~んな、《不信・asraddhya》の輩なんさ。 《srahhda》は、BuddhismをBelieveするところから始まるだわさ。 ということで、世親の『倶舎論』には、 真理・四聖諦、仏法僧の三宝、縁起or因果の理法が加わっているんじゃないですかね~。 しかし、『倶舎論』には、 「他の人はいう……」とあるでしょう、 この言葉が出るとき、このあとの記述を鵜呑みにすると、結構、危険なんですよ。 ふつう、この言葉が出るときは、経量部の学説をこっそりしのばせて、それが正しいとする ことが多いのですけれど、 眠り猫が思うに、この付け足し部分は、たぶん、説一切有部の批判を交わすために付け足した部分。あるいは、説一切有部の学説への配慮。 世親のホンネは前の部分、   「信」とは心の浄らかさである。 にあると思います。 有部、自性清浄心の存在を否定していますからね~。 ~~~~~~    解脱とは何か? さとりである。    解脱の境地は さとりの智慧の中身を言っていると解してよいか?    そうだとして      空にして無相    とはどういうことか? ~~~~~~ 中村元訳のこの部分の注釈に出ていると思うのですが、この場合の《空》は○○がないという意味で、この場合、煩悩がないということです。 で、無相は空と同義語です。《空》を言い換えただけで、中村元訳では《無相》のままになっていますけれども、この意味は、  ○○がないことを特徴としている くらいだと思います。 解脱の境地を、解脱後の心と置き換えれば、 よそからきたお客さん(煩悩)がなくなって、心がきれいきれいなった ということになるんじゃないですかね~。 心と煩悩をあえて実体視して古い西洋哲学的な表現をすれば、 心の本質はきれい綺麗であり、煩悩という汚れは偶有(的存在)である とか。。。。。。。 自性清浄心、あるいは、こころは自性清浄である。。。。。。。 表現だけの違いになるのではと。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  42. 《分別》つまり我がままな考えや感情によって思考し判断することが さとりを妨げる。ゆえに 《無分別智》を実現させれば さとりに達するのだよ。――これは 外形的な説明ではないでしょうか? ~~~~~~ 外形的といえば、外形的でしょうね。 仏教は、基本的に、「道は教えたよ。後は、きをつけて行きなさい」という教えですから。 で、四聖諦の道諦・marga-satya!! この道を歩くことに意味があるんじゃないですか。 ところでところで、 《satya》を真理と訳すのはどうなんでしょう。 真実くらいでちょうどいいと思うんですがね~。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  (あ) だったら 《おれは この上なきさとりの智慧を得たのだ》という宣言は どう捉えればよいのでしょう?  ~~~~~~ ゴータマさん、勘違いしたんじゃないですかね~。 答えは《梵天勧請》。 ゴータマさん、自分の犯した過ちに気づいてる!! 大乗仏教はその過ちの延長線上にあるんと違いますか。 ~~~~~~ (い) 足場だけによる定義や説明で事足れりとしていますか? ~~~~~~ 仏さんの教えとされるものは、問題付きの教科書ですって。 自分でやらないことには、自分の身にならないでしょう。 何度も生まれ変わり死に変わるんだから、時間はいっぱいあります(笑い)。 ~~~~~~  (う) それは 趣味の同好会なら 成り立つと思いますが? 普遍宗教を自認するのなら 羊頭を掲げて狗肉を売るとなります。 ~~~~~~ これは宗教の定義の問題です。 そもそも、わたしは、仏教をReligionだとは思っていません。re-ligio、つまり、「再び(カミさま)に結びつける」ことはしなくとも、はじめから結びついている!! 西洋的な、キリスト教=宗教といった考え方からすれば、仏教は宗教と呼べないのではないでしょうか。 それは、単に、仏教はキリスト教型のオシエではないということを意味しているに過ぎませんから。 普遍宗教という言葉もおかしいですよね~。 普遍を前提にしないと教義と組織が揺らぐカトリックじゃあるまいし。。。。。。 ~~~~~~ (き) ただしその場合も どこかで《さとりの智慧》の十全な成就を大前提にしているのではありませんか? ~~~~~~ 迷悟われにあれば、すなわち発心すれば、すなわち到る。 でいいんじゃないですか。 《さとりの智慧》は学問的な話に過ぎないんじゃないですか。 《悟りの智慧》がなんであるか分からなければ、悟れないわけじゃなし。 ~~~~~~  (く) ゴータマの《成道》から出発しているのではありませんか? ~~~~~~ 主体的に言えば、おのれの苦・duhkhaの自覚からじゃないですか。 《成道》していようがしていまいが、それは些細な問題だと思います。 ~~~~~~  (け) つまり基礎としての存在論はよいとして 思想の出発点としては 中身がとぼしい。無いにひとしい。 ~~~~~~ 義なきをもって義とするという立場なのですから、この主張は矛盾している。 中身が素晴らしいから信じるというのであれば、仏教でいうところの《信・sraddha》になるのではなかろうか。 ~~~~~~  (さ) あるいはゴータマ説とは縁を切っているのか? それならそうと明らかにしたほうがよいでしょう。 ~~~~~~ いえ、四聖諦や縁起説とは縁を切っていません。 これと縁を切ったら、仏教ではなくなってしまいますから。 わたしが否定しているのは、いわゆる僧院仏教です。 洞窟や山などにこもって、ひたすら自利を追求するのは、そんなものは仏教ではない!! と言っているだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  いえ、四聖諦や縁起説とは縁を切っていません。  これと縁を切ったら、仏教ではなくなってしまいますから。  わたしが否定しているのは、いわゆる僧院仏教です。  洞窟や山などにこもって、ひたすら自利を追求するのは、そんなものは仏教ではない!!  と言っているだけです。  ~~~~~~  ☆ わたしの受け取りにおいては 微妙な感じを持ちます。疑問のほうをぶつけましょう。  (あ) 《四聖諦や縁起説》は 《さとらなくてもよい》のではないですか?  (い) その意味はむしろ ただの・苦をめぐる心理学であったり この時空間における人と自然〔および社会的自然〕をめぐる広く因果関係の探究であったりすることなら わざわざおれんとこのオシエだぞ ありがたいと思えという必要はありません。ないどころか そんなことを我がオシエとすることのほうが 独り善がりではありませんか?  ★ つまるところ、《信》とは仏教の教えを信じるということなのでしょう。それを信じないこころ(のハタラキ)・不信は、《煩悩》・《悪》だということになります。  ☆ これこそ究極の独り善がりです。公然としていとなむ秘密結社(?)です。  神は 万人にひらかれて信じられる――または 無い神として信じられる――真理なのですから。  ねこさんご自身のブディズム評として そうなっていると思われます。  ★ ~~~  つまり、  Buddhistにとって、  Buddhismを信じないものは、み~んな、《不信・asraddhya》の輩なんさ。  《sradhha》は、BuddhismをBelieveするところから始まるだわさ。  ~~~~~  ☆ これが・この独善的な考え方が 社会一般の中に入って来ているんですよね。  さとりとは何であるか 分からない・説明しない・むしろ中身がない。ゆえに 人びとはかわいそうになって そちらへ寄って行っているんでしょうか。  ★ ~~~~  仏教は、基本的に、「道は教えたよ。後は、きをつけて行きなさい」という教えですから。  で、四聖諦の道諦・marga-satya!!  この道を歩くことに意味があるんじゃないですか。  ~~~~~~  ☆ 《道》は 《さとり・ブッダ・智慧》という名前としてはオシエにありましょうが 中身はおしえていませんよね?  あるいは その道の歩き方は 《苦》を如実に見て知れ 煩悩=無明から来ている 無明を明知に変えることだ 明知を得るには さとることだ さとるには 苦や煩悩を如実に見て知るがよいうんぬんというふうに おしえられているようですが。  これが 彼岸にわたる筏だということですよね。  ★ ~~~~    ☆ (あ) だったら 《おれは この上なきさとりの智慧を得たのだ》という宣言は どう捉えればよいのでしょう?   ゴータマさん、勘違いしたんじゃないですかね~。  答えは《梵天勧請》。  ゴータマさん、自分の犯した過ちに気づいてる!!  大乗仏教はその過ちの延長線上にあるんと違いますか。  ~~~~~~~  ★ ~~~~~    ☆ (い) 足場だけによる定義や説明で事足れりとしていますか?  仏さんの教えとされるものは、問題付きの教科書ですって。  自分でやらないことには、自分の身にならないでしょう。  何度も生まれ変わり死に変わるんだから、時間はいっぱいあります(笑い)。  ~~~~~~~  ☆ 《問題集としての教科書》ですか? つまり問題だけですよね 載っているのは?    ★ 何度も生まれ変わり死に変わるんだから、時間はいっぱいあります(笑い)。  ☆ これは どうでしょう。ねこさんにしては 不用意なご発言です。  つまり こんなだったら 身分制保守のブラフマニズムよりもタチがわるいのではないかと思ってしまいます。  六道輪廻を断つために オシエがあるのでは?  ★ re-ligio、つまり、「再び(カミさま)に結びつける」ことはしなくとも、はじめから結びついている!!  ☆ これは 通俗としての常識だという見解をご披露します。  re-ligio の ligio は ligare(つなぐ)ではなく legere (拾う・集める)のほうだというのが E.バンヱニストの語源解釈です。つまり《気を拾い集め心を集中させる。気を取り直す。シャキッとする。我れに立ち帰る。エリを正す。わが矜持を保つ》といったような意味から来ているのだと。  おごそかな気持ちになるので 《信じる》に結びつくかたちなのではないでしょうか。    だってローマ人は 八百万の神々を信奉していたのですから。アダムらのいわゆる原罪によって神から離れた だからふたたび神につながるといった解釈は 持ち得なかったでしょう。ただし国教になってからは ちょうどよいようだからというので出て来たのとちがいますか。  という観点もあるようなのです。  もしこうだとしたらこの西洋的なレリギオは むしろブディズムにふさわしいのではないですか?  ☆☆ 普遍宗教  ☆ というのは 宗教という用語じたいについても大嫌いなわたしが あえて一般の呼び方に《おもねって》使ったのですが それは 分かりやすいと思ったからです。  言いかえると 人びと誰もにとって 信仰しうるその《非思考の庭》なる形態であるかどうか。これが 普遍宗教か否かの判断基準です。  でもブディストは ブディズムが世界に誇れる普遍宗教であると思っているし宣伝してもいるのではありませんか?  ★ 《悟りの智慧》がなんであるか分からなければ、悟れないわけじゃなし。  ☆ えっ? 中身が分からなければ さとれたかどうか どうして判断するのですか?  ★ ~~~   ☆ (く) ゴータマの《成道》から出発しているのではありませんか?  主体的に言えば、おのれの苦・duhkhaの自覚からじゃないですか。  《成道》していようがしていまいが、それは些細な問題だと思います。  ~~~~~~  ☆ どうしてこうなりますか? 《苦の自覚》は すでに触れたように道の歩き方です。それは 苦がさとりを妨げるものであるからだと思われます。    でもここで物言いを差し挟むならば 《人生が思うようにならない》という苦は 一生ついてまわるのではないでしょうか? それでもゴータマ氏は この苦からの解脱を実現したということでしょうか?  つまり  ★ 《成道》していようがしていまいが、それは些細な問題だと思います。  ☆ のであれば さきほどの  ★ ~~~~  ゴータマさん、勘違いしたんじゃないですかね~。  答えは《梵天勧請》。  ゴータマさん、自分の犯した過ちに気づいてる!!  ~~~~~~  ☆ を確認すれば済むことですが ならばどうしてその人が指し示した道の歩き方を踏襲する必要があるのでしょう?    ★ ~~~~    ☆ (け) つまり基礎としての存在論はよいとして 思想の出発点としては 中身がとぼしい。無いにひとしい。  義なきをもって義とするという立場なのですから、この主張は矛盾している。  中身が素晴らしいから信じるというのであれば、仏教でいうところの《信・sraddha》になるのではなかろうか。  ~~~~~~  ☆ そのさとりという道そのものについては 中身がとぼしいではないかとしつこくクレームをつけるのは 《中身が素晴らしい》ものでなくてはならないという理由からではありません。  そのような成道のうたい文句としての《この上なき智慧》をそのとき全体としてすべて体得したというのは あり得ないではないかと問うています。《おれは真理を知った。おれは神を見た》というのは 人間にはあり得ないとおしえて差し上げています。  それに《さとりの中身が素晴らしい》と言っているのは わたしではなくブディストのほうです。    このあと 最初(冒頭)の《ブディズムと縁を切るかどうか》の話につながります。

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  • 神にかんする勘違いが 多いのは なぜでしょう?

     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 《哲学する者は神の国の外交官である》は成り立つか

     1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。