476年オドアケルは西ローマ皇帝を廃してイタリア王に即位します。この時が名目的な西ローマ帝国の滅亡とされています。ところがオドアケルは東ローマ皇帝ゼノンと対立して、ゼノンの要請を受けた東ゴート族のテオデリックに493年に殺されてしまいます。オドアケルを滅ぼしてくれたら、見返りにイタリアを任せてやるといった事前の取引があった訳です。そうして497年に東ゴート王国が成立します。しかし東ゴート王国も安定せず、東ローマ帝国に553年に滅ぼされてします。元々東ローマ皇帝はイタリアを東ゴート族に渡すつもりはなく、オドアケル征伐に利用したといったことだった訳です。東ローマ皇帝は虎視眈々とローマ帝国の旧領復活のチャンスを狙っていたのでした。
そうして東ローマ皇帝はイタリアを奪回したのだが、今度は東方でサーサーン朝ペルシャ帝国と抗争になってしまって、イタリアに軍隊を派遣できる余力が無くなってしまいました。そういう情勢を見ていたランゴバルド族がこれはイタリア侵略のチャンスだと捉えて、北イタリアから侵攻してランゴバルド王国を569年に建国します。東方情勢の変化によって東ローマ帝国は旧領復活どころではなくて、イタリアにかまってられなくなったのです。
そういう訳でランゴバルト族が東ゴート王国を滅ぼした訳ではなくて、ランゴバルト族はユーゴスラビアあたりを勢力圏とするゲピド王国征伐を担当するといった同盟関係で、間接的に東ローマ帝国のイタリア奪回に協力したということだったのです。ところがランゴバルト族は東ローマ帝国を裏切ってイタリアに侵攻してランゴバルト王国を建国します。
しかしランゴバルト王国はローマ教会を圧迫したのが裏目に出て、ローマ教皇の支援要請を受けたフランク王国のカール大帝に滅ぼされてしまいます。軍事力を持たないローマ教会は、東ローマ皇帝に税金を納めて庇護してもらっていたのだけど、東ローマ皇帝が東方問題だけで精一杯になって頼りにならなくなっていて、新しい守護者を求めていました。
ランゴバルト王国とは逆にフランク王国は、496年頃クロヴィス1世がキリスト教アタナシウス派に改宗したのが大正解でローマ教会と提携関係を結ぶことに成功しました。それまでゲルマン諸族はローマ帝国で異端とされたアリウス派のキリスト教を信仰していました。アリウス派の聖職者は、ローマ帝国領内で布教を許されなくなって、それでやむを得ず帝国外のゲルマン諸族に布教して勢力拡大を図っていたということなんです。ところがクロヴィス1世は、アリウス派に義理立てしていては負け組になってしまうとばかりに、ゲルマン諸族の中ではいち早く、アリウス派からアタナシウス派に乗り換えました。そうしてローマ教会と提携関係を結ぶことで、フランク王国は短命に終わったゲルマン諸王国の中では長い繁栄を約束されたのです。提携関係の意味は、正統なアタナシウス派を拡大する為だという名目で他のゲルマン諸王国を攻撃することが正当化できたことです。キリスト教を広めるという大義名分で侵略戦争を正当化できたという意味です。
フランク王国と提携関係を結べたことが、フランク王国の領土拡大に寄与して、ローマ教会が東ローマ帝国から自立して教勢拡大の契機になったのです。それこそが中世ヨーロッパの歴史の骨格となったということ。
叙任権闘争を巡って神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立する時代が後で訪れるわけですが、いい加減余談にすぎると怒られそうなので、ここで止めておきます。
お礼
返事が遅くなり申し訳ありません。 回答してくださっていたんですね。 時間がないので内容はあとで読ませていただきます。 本当にありがとうございました。