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悟りには、ゴータマ・ブッダと同じ身体が必要か?

同じことを経験するには 同じ身体と同じ環境が必要ではないだろうか? つまり、悟りは無理か?

noname#195588
noname#195588

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  • KoalaGold
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回答No.1

それでは人の真似であり、自分の悟りになりません。 悟りや目覚めは苦しみを経験した後にくるものと思われますので、いっぱい経験して下さい。 ブッダはただ菩提樹の元で寝ているように見えますが、心の中は混沌として整理するために動きを止めたのでしょう。 一般人は、人から言われて始めて気づくことも多く、人とのつながりが脳細胞のような助けになっています。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど。真似ですか。 本物を追求しても真似でしかない。 自分の悟りというのが興味深いですね。

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回答No.2

この動画の中で語られています。URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM その時とは、『全てを諦めた時』です。この動画では脳卒中で、生死の境をさまよった時ですが、禅などでは、生きたまま『全てを諦めた時』です。 『自我』の力で生きている、と自我意識は思っています。此処が突き崩れた場合です。 自我意識は『自我意識単独では、何もする事が出来ません。』 自我意識単独で眠ろうとする場合では、眠る事が出来ません、この場合を不眠症といいます。 自我意識単独で『心の健康を図る場合があります。』この場合に心を病む、といいます。 自我意識単独で『自分の行動を自在にしよう』とする場合があります。ですが出来ません。この場合に神経症といいます。 自我意識単独で『身体の機能を健康にしよう』とする場合があります、出来ないと感じています。この場合に自律神経失調症といいます。 全ての障害と思っている事柄は『自我意識単独で、事を成し遂げようとしている現象です。』ですが出来ません、重要な事が抜けているからです。 それは『無意識の自分です。』動画に在るように『右脳の意識です。』右脳の意識は『無意識の自分』という意味です。 左脳の自我意識の機能だけでは、正常な人生は送れません。此処が分かる事を『釈迦は悟り』を通して教えています。 右脳の無い人がいない事から、その道は全ての人に開かれています。気が付くかそのまま苦しみ続けるのかの違いはあるかも知れませが?

noname#195588
質問者

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回答ありがとうございます。

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    【悟り・その2】「悟りを開かずに人生を全うする人の方が幸せである」と悟った。 悟りを求める人は自分に弱いところがあるから悟りを求める。 人生を幸せに歩んでいたら悟りなど求めない。 結婚して子供を作って死んでいく。 これに悟りなど不要。 悟りを求めるのは自分が不幸だと感じた人だけ追い求める。 しかし、悟りは人の経験によって答えが人それぞれ違うので答えは人それぞれにあって、答えは1つではないという真理に気付くのに時間が掛かってしまった。 悟りの答えは自分自身の経験で決まるので他人に悟りの答えを聞いても答えは出ない。 答えは自分自身の経験で決まる。 同じ地域に住むのに同じ地域の洋服屋で買っているのに同じ服、同じズボン、同じ靴、同じ靴下を履いている人と出会ったことがない。 人生で一度だけ正月に福袋を買ってジャンパーを羽織って街に出たら同じジャンパーで同じジーンズを履いた人と出会ったことはあったが靴は違った。 こんなに近い地域でどう考えても同じ店で買っている人は五万と居て、大量生産時代においてアウトレットモールやショッピングモールのように購買が一箇所に集約されている時代でも同じ格好でモールを歩いている人に出会ったことがない。 日本人が1億2680万人いれば1億2680万人の経験が存在している。 悟りも洋服のように1億2680万人分存在しているのでお坊さんや神父さんに人生の答えを聞いたところでそれはお坊さんや神父さんの悟りの答えに過ぎない。 と悟った。