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蒲生氏郷の実質的な、能力
レオンに・・・蒲生氏郷について、質問なのですが 秀吉曰く 【俺が死んだら、天下は、黒田か、蒲生さ】 氏郷死亡時 【これで秀頼を守るものが無くなった】 ・・やら言われたり、信長の娘を娶ったり かなり、才能が・・あった? ・・と、思われるのですが 実際彼の行動は、九戸の乱の時やら、あと細々とした、戦 くらいしか、私は知らないのですが ・・あ!あと政務は素晴らしい所も 秀吉は、氏郷の器量を畏れたともあります あとは・・家臣に奮発し過ぎて、赤字・・かな 氏郷は、未完の大器・・なのでしょうか? 彼の活躍を聞かせていただければ、幸いです よろしくお願いします
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- 豊臣政権、秀吉死後のIF
関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。
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豊臣政権は秀吉死後、家康に簒奪されてしまいますが、 秀吉も生前、家康を潜在的な仮想敵、かなり上位な敵として、 認識していたはずです。それで、晩年までに、 秀吉なりに家康封じ込めの対応策を練り、実施していたはずです。 が、実際には簒奪されてしまいました。何がまずくて、 何が足りなかったのでしょうか?何が誤算だったのでしょうか? かなり長いので暇な人向けです。お暇なときに読んでお暇なときに 回答どうぞ。 対家康プランとして、 三河から関東に移封し、領内統治に手間暇をかけさせる。 東北仕置きの後の葛西一揆のようなものがおこれば、 それを理由に減封・改易。 実際には難癖をつける隙がなく、逆に土地から一度切り離された 三河家臣団に対して、家康の影響力アップ。 徳川領の周りに徳川とはあまり仲が良くない、または、 徳川を見張る役目の大名を配置。会津には初め大の徳川嫌いの 蒲生、次に、反徳川の石田三成と親しい上杉を移封。水戸には やはり三成と親しい佐竹をそのままに。東海道には豊臣子飼いの 山内、堀尾、中村を配置、尾張には七本槍の福島正則。中山道には 五奉行の浅野長政を配置。岐阜には織田秀信を配置。 蒲生は秀吉より先に病死、上杉は見込みどうり徳川とぶつかり、 逃げませんでしたが、徳川本軍が東海道に行ったのに関東平野に 攻め入らず。いろいろと事情があったかもしれませんが。 佐竹は三成、生前の秀吉からしたらまさかの中立。東海道組は 秀次関連の恨みと時勢を読んだか雪崩を打って徳川へ。おまけに、 武功派の福島正則まで徳川方についてしまい、織田秀信の岐阜城は あっさり落城して降伏。浅野長政はもとより親徳川だったらしいですが。 婚姻政策では秀忠にお江を嫁がせ正室にし、秀頼と家光を従兄弟、 秀頼と秀忠を義理の叔父甥の関係に。豊臣家と縁戚とすることで、 飴を与えると同時に母親同士が姉妹ということでいざという時の 外交ルート、また、衝突防止策になれば、と。実際、そういう動きに なりかけたけど、あまり、役に立たず。お江が正室として秀忠に 働きかけて姉のいる豊臣家への攻撃をやめさせようとしても、 家康・秀忠二重権力のため、効果が薄かった。史実ではあまり 聞かない話だけど、お江の腰回りに豊臣家のモノを紛れ込ませて、 徳川家の情報収集という計画があったかもしれないけど、お江が いる江戸ではなく、家康がいる駿府で政治が決まっていたので、 あまり意味がなし。お江の子が徳川家の家督を継げば、 母親つながりで親豊臣なってくれるかもと思いきや、その世代が 家督を継ぐ前に豊臣家滅亡、というか、正室お江の影響力が 強かったといわれる秀忠が継ぐ前に滅亡。さらに、お江の 影響力が強かった忠長でなく、お江があまり眼をかけなかった、 家康が直々につけた多分あまり豊臣家を好きでない春日の局が 乳母の家光が将軍候補になり、将軍に。 豊臣家中の地位において、秀次死後ではあるけど、五大老の 一人に任命。重要ポジションではあるけど、五人のうちの一人で 集団合議制でさらに五奉行という集団もあり、そもそも、五大老筆頭は 前田利家。枠組みの中にはめ込んでやろうと思っていたのかもしれませんが、 家康より先に利家が死去。前田家が親徳川に。上杉家は立ちふさがってくれたけど、 敗退、減封。毛利家は関ヶ原では本軍が参戦せず、参加した家中の一部が勝手に徳川に寝返って徳川を勝たせてしまう。 さらに空約束で大阪城を退去してしまって後に大規模減封。宇喜多は ガチで徳川と戦ってくれたけど、果たせず、お取りつぶし。五奉行筆頭の 浅野長政は最初から親徳川。石田三成は利家死後に謹慎、上杉討伐の裏をかいて、反徳川を結集させて徳川を滅ぼうとするも、逆に、反徳川をほぼ一掃の結果に。そのほかの奉行も それほど。中には徳川に内通していた者も。 秀吉の病床の本当に最後のほうの時に、家康に豊臣に弓を引かないとの 誓紙を書かせ、「秀頼のこと、お頼み申す、秀頼のこと、お頼み申す」 と涙ながらの哀願をしたそうです。もしかしたら、歳で本気で 哀願したかもしれませんが、あの秀吉の性格と経験上、そんのものはあの 家康には何の意味もないとわかっていたはずですし、誓紙も意味などないとも わかっていたはずです。加藤清正、福島正則等の豊臣恩顧で最後のほうまで 家康より秀頼を優先しようとした大名たちは家康が秀頼忠義の振りを している限り、家康につきしたがっていましたが、そういう意味で 二重三重に家康を縛ろうとしたのでしょうか?実際は秀頼忠義の 振りをして、清正、正則等を反徳川の戦いに利用し、利用価値が なくなれば、時間をかけて削り潰していました。清正たちも内心 ウソ臭さを感じていただろうけど、時勢を読んだのと、三成憎しと、 武功派を中心として自分たちが家康に対しても結束していれば、 秀頼さまを含めて無碍にはできまいと予想して、従っていたのかもしれません。 質問にもどりますが、秀吉が対家康プランとして考え実施しただろう ものを書いてみましたが、間違えているところ、足りないところ、 少しは効果はあったものがあれば、お願いします。 また、多分、こうすれば、もっと家康を封じ込めれた、というものが あれば、お願いします。 多分、予想より利家が早く、家康が長かった。三成の辛抱が足りなかった。 清正、正則は家康を甘く見すぎていたけど、秀吉は清正・正則は家康について きちんと判断できると思っていた。秀吉の予想以上に唐入りの負担が 諸大名にとって重く、その恨みが三成に向かうだけでなく、豊臣家、秀頼にも むかってしまった。秀次粛清で秀次家臣、秀次関連の大名たちの恨みが 予想以上に深く、いくら恨んでいても、豊臣家より徳川家を優先しないだろう 思っていたけど、実際は、ということでしょうか。
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一票の格差問題で現政権は「違憲で無効」とされ、政権の正統性云々が論議されてますが、 そもそも日本の歴史における政権の正統性なんて本当にあったのでしょうか? ・大化の改新で逆賊の蘇我氏を倒したとする 中臣鎌足らの正統性は果たして正しかったのか? ・信長の家臣で、しかも農民出身だった秀吉が主従逆転した上で 天下人となった正統性は? ・家康が関ヶ原の戦いで勝利し、豊臣家の家臣なのに征夷大将軍になって幕府を開き、大阪の陣で豊臣家を滅ぼした正統性は? ・関ヶ原の戦いを起こす理由としては石田方や直江状の方が 道義としては正しかったんじゃないの? ・そもそも徳川家/松平家は本当に源平の子孫だったのか? ウソの家系図で朝廷に賄賂を渡して強引に主張したんじゃないの? ・いつの間に、何をもって豊臣と徳川は主従逆転したのか? ・方広寺の鐘の件なんて戦の口実にするには無茶苦茶な理由じゃなかったのか? ・大政奉還で徳川家は政権を返上したのに朝敵とされ、 薩長に戦争を仕掛けられた正統性は? そもそも薩長が官軍となって、徳川幕府を打倒するという正しい道義はどこに? 日本の歴史において真に正統性があるのは平家追討の勅旨を 受けてそれを滅ぼした源頼朝と、同じく北条家追討の勅命を 受けて鎌倉政権を倒した足利尊氏の2件ぐらいで、 他の政権なんか正統性もクソも無いような状態で積み重なった歴史の上で 成り立っている現在の日本の国において、政権の正統性なんて 議論するまでもないと思われますがいかがでしょうか?
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- 何故蒲生4丁目だけ?
大阪市城東区蒲生という町名があります。しばしば大阪の番組で蒲生という 町名が出るとなぜか皆、笑っています。何故でしょう? 推察するに 1.発音がなんかおもろいから 2.ただなんとなく しかしこれだけの理由なら、放出とか喜連瓜破とかでもよさそうなものですが、 なぜか蒲生です。実際蒲生4丁目の交差点に立ったことがありますが、別に 他と変わったところはありませんでした。 大阪の皆さんの回答を待っております。よろしくお願いします。
- 締切済み
- その他(国内旅行・情報)
- WRC-BE94XS-Bはクロスパスに対応した製品でしょうか?固定IPサービスを利用したポート解放は可能でしょうか?
- WRC-BE94XS-Bはエレコム株式会社の製品です。インターネット回線は『enひかりクロス10Gbps』を利用しています。
- WRC-BE94XS-Bの仕様について詳しく教えてください。
お礼
質問していてなんですが まったく同意見です 彼は当時・・多少信憑性の置ける文献などでは 当時の大名たちから、かなり評価を得ていた様子がるようで ですが、実質的に何がどうだったか・・ ・・となると、意外なほど、文献が無い 私も、関ヶ原時代に、彼が存命なら 佐竹、上杉、蒲生と同盟を結んだと思います この三国の同盟なら、国外への出撃も可能なほどの、国庫がある 伊達なども、素直に、徳川に味方をしたか、分かりません 本当に、興味深い話です そう考えると、仰られるとおりに 秀吉の、配置は、絶妙でした 本当に、ロマンです