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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:因果応報説は 共同主観にはならない。)

因果応報説とは何か?理解するためのポイント

manuke22の回答

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.21

「言いかえると、命令法であろうがただの事実認識であろうが、その文を受けた側はそれを話し手の主観として受け留めればよい」 意味不明。事実認識を単なる主観だと見なすなら、テレビキャスターが伝えるニュースはテレビキャスターの主観にすぎないとなる。つまり主観ではない事件に関する情報量をもたないことになる。自己紹介は自己表現ではなく、名前や出身に関わる事実を含む。 命令文を発話することは主観どうこうではなく、命題ですらなく、行為を促す行為です。主観であるかさえ問題ではない。 当たり前ですが、あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが、文を安直に主観だと述べるのは誤り。 実際、「回答欄に答えを記入せよ」という文を、この文を記入した誰かの主観として受け止めればよいといいのは意味不明。 主観という語に対してあなたはいい加減すぎる。 「であるならば思想および表現は自由なのです。表現する側も受け取る側も対等な主観どうしの交通として互いに自由です」 ある文を発話できるcanことからその文を発話してもよいmayことにはならない。あなたによれば、私はオランウータンに関する事実で嘘をついてよいことになる。たしかに私は嘘をつける。しかし嘘をついてよいことにはならない。事実と異なる情報を他人へ伝えることも自由だとする考えを是とする人を私は見たことがない。情報操作に対して無条件に自由を認める人間を私は見たことがない。あなたの意見は自由を理由に情報操作を是とするものであり、これは大多数の人間の常識に反する。あなたの意見はすくなくともこの点では常識にはなりえない。 対等と言いましたが主観が対等であることは事実ですか? 「そのとき相手は、その文の内容はマチガイであると思うならマチガイだと答えればよいのですし、分からないところがあれば問い返せばよく、命令に聞こえていやだと思えばそう返せばよい。という自由です」 文の内容は間違いだと思うならば、というのは不十分。文の内容への反感から人はその文を間違いだと非難します。文と文の繋がりに飛躍があっても批判します。 「私は男だ。ゆえに、私は学生だ」。もし「私は男だ」も「私は学生だ」も正しくても、前文から後文は導けないのだから誤りなのであって、文の意味内容のゆえに誤りなのではない。   「あんがい多くの人びとが賛同しているようです」 つまり自殺をしてもかまわないと考える人が多くいるわけですね。仏教の特定の宗派を信じる人間がいるからなんだと言うんでしょう。自分が苦悩から開放されたいから信じるわけでしょうに。 「《死への恐怖》は《いのちの大切さ》のことだと思います」 違います。彼らの社会契約論における「死への恐怖」はそんなものではない。自分が死ぬことへの恐怖であり、あなたが言うような命一般の大切さとは違います。自分が死ぬのが怖いのは、自分を大事にしているからであり、自分が脳死者になって身体的に生きていることをも大切にするわけではありません。 「これはすでに基礎理論に伴なわれる《非経験の場》の神学についても必要な限りで明らかにして来ていますので、そこでの議論につくのがよいと考えます。《ふつう / 誤り》如何についてです」 なんで普通の対概念が誤りなんですか。 「意志行為が中断されるからです。自分の意志によってさえそのみづからの意志行為の道程を断つことは、存在の保持に反するものと思われます」 中断じゃなく終わりでしょう。中断がダメなら寝るのもダメです。 「すでに死刑廃止に向けてゆるやかに潮は流れ始めています。と見ているだけでよいと思っているからです」 つまり死刑廃止の流れに賛成ということでしょうか。 「そしてここでの問題は《教義を神とする》ならそれは《神》ではないことです」 神の言葉を教義とすることは、教義を神とすることではありません。私は教義を神とする信者を見たことがありません。 「非経験の場として想定するもの、そのように雲をつかむようにしか定義できないナゾの何ものか、これがふつうの神です」 つまり他我は神なわけですか? 「《肩入れ》ではなく耽溺でした」 耽溺であると判断する理由はなんでしょうか。私は生物学上の分類を種差別だとは言ってません。 「そのように《あたえられた》という条件を自覚しますか?」 「私は生まれた」という条件を自覚します。というよりそのように発話するということであり、それが観察可能なのはオランウータンやチンパンジーに限りますが。 もっとも、私はたしかに生まれましたが、それを与えられたと考えはしませんが。 「基礎理論の宣言は、それの叙述がそのまま宣言であり言わば証明です」 それも「広義」の「証明」あるいは「論証」ですか? 「基礎理論の叙述が証明である」を証明してください。 あなたが基礎理論を語るからと言って、それは基礎理論を証明したことにはならない。 そういやキリストも自分が語ることは自分が語るがゆえに正しいみたいなこと言ってましたね。 「仮説法(アブダクション)によっていると言えると思います」 アブダクションは、「基礎理論が共同化されたとすると」という仮定を用いる思考ではありません。観察された様々な事実から仮説を結論として形成するものであり、「もし基礎理論が共同化されたとするならば」という反実仮想を前提として用いることはアブダクションではない。 「はじめに和解があった。から出発します」 はじめっていつですか? 「言いかえると、命令法であろうがただの事実認識であろうが、その文を受けた側はそれを話し手の主観として受け留めればよい」 意味不明。事実認識を単なる主観だと見なすなら、テレビキャスターが伝えるニュースはテレビキャスターの主観にすぎないとなる。つまり主観ではない事件に関する情報量をもたないことになる。自己紹介は自己表現ではなく、名前や出身に関わる事実を含む。 命令文を発話することは主観どうこうではなく、命題ですらなく、行為を促す行為です。主観であるかさえ問題ではない。 当たり前ですが、あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが、文を安直に主観だと述べるのは誤り。 実際、「回答欄に答えを記入せよ」という文を、この文を記入した誰かの主観として受け止めればよいといいのは意味不明。 主観という語に対してあなたはいい加減すぎる。 「であるならば思想および表現は自由なのです。表現する側も受け取る側も対等な主観どうしの交通として互いに自由です」 ある文を発話できるcanことからその文を発話してもよいmayことにはならない。あなたによれば、私はオランウータンに関する事実で嘘をついてよいことになる。たしかに私は嘘をつける。しかし嘘をついてよいことにはならない。事実と異なる情報を他人へ伝えることも自由だとする考えを是とする人を私は見たことがない。情報操作に対して無条件に自由を認める人間を私は見たことがない。あなたの意見は自由を理由に情報操作を是とするものであり、これは大多数の人間の常識に反する。あなたの意見はすくなくともこの点では常識にはなりえない。 対等と言いましたが主観が対等であることは事実ですか? 「そのとき相手は、その文の内容はマチガイであると思うならマチガイだと答えればよいのですし、分からないところがあれば問い返せばよく、命令に聞こえていやだと思えばそう返せばよい。という自由です」 文の内容は間違いだと思うならば、というのは不十分。文の内容への反感から人はその文を間違いだと非難します。文と文の繋がりに飛躍があっても批判します。 「私は男だ。ゆえに、私は学生だ」。もし「私は男だ」も「私は学生だ」も正しくても、前文から後文は導けないのだから誤りなのであって、文の意味内容のゆえに誤りなのではない。   「あんがい多くの人びとが賛同しているようです」 つまり自殺をしてもかまわないと考える人が多くいるわけですね。仏教の特定の宗派を信じる人間がいるからなんだと言うんでしょう。自分が苦悩から開放されたいから信じるわけでしょうに。 「《死への恐怖》は《いのちの大切さ》のことだと思います」 違います。彼らの社会契約論における「死への恐怖」はそんなものではない。自分が死ぬことへの恐怖であり、あなたが言うような命一般の大切さとは違います。自分が死ぬのが怖いのは、自分を大事にしているからであり、自分が脳死者になって身体的に生きていることをも大切にするわけではありません。 「これはすでに基礎理論に伴なわれる《非経験の場》の神学についても必要な限りで明らかにして来ていますので、そこでの議論につくのがよいと考えます。《ふつう / 誤り》如何についてです」 なんで普通の対概念が誤りなんですか。 「意志行為が中断されるからです。自分の意志によってさえそのみづからの意志行為の道程を断つことは、存在の保持に反するものと思われます」 中断じゃなく終わりでしょう。中断がダメなら寝るのもダメです。 「すでに死刑廃止に向けてゆるやかに潮は流れ始めています。と見ているだけでよいと思っているからです」 つまり死刑廃止の流れに賛成ということでしょうか。 「そしてここでの問題は《教義を神とする》ならそれは《神》ではないことです」 神の言葉を教義とすることは、教義を神とすることではありません。私は教義を神とする信者を見たことがありません。 「非経験の場として想定するもの、そのように雲をつかむようにしか定義できないナゾの何ものか、これがふつうの神です」 つまり他我は神なわけですか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ 事実認識を単なる主観だと見なすなら テレビキャスターが伝えるニュースはテレビキャスターの主観にすぎないとなる。  ☆ 何か勘違いしてませんか。  《事実》を認識すると 誰がしてもすべて同じ認識内容になるのではないという意味で 《単なる主観だとは見なせない》と しっかりと見て言っていますか?  《事実》というまぎれもないものが つねに同一のこととして存在し 誰が認識しても 同じ内容になる・・・なんてことはない。  ただし テレビキャスターの場合は 特にニュースの場合は そのテレビ局の報道の方針にもとづき内容を伝えようとしています。そのときキャスターは言わばその主観をできるだけ無くして伝えることになります。  この特殊な発言の場合を考慮していないのでは?  ★ 自己紹介は自己表現ではなく、名前や出身に関わる事実を含む。  ☆ 何を言おうとするのかが 意味不明です。  ★ 命令文を発話することは主観どうこうではなく、命題ですらなく、行為を促す行為です。主観であるかさえ問題ではない。  ☆ たとえ第三者の《要請や命令》だとしても その第三者の主観がどうだこうだという問題になります。  《行為を促す》内容なら その促しにそのまま従うから 《主観であるかさえ問題ではない》と考えてしまったのですか?  つねに 従うわけないぢゃないですか。話し手にも聞き手も 第三者にも みなそれぞれ主観があります。  やってらんないよーお。  ★ あなたの理屈なら虚言も単なる主観だとなるが  ☆ そうであるに決まってるぢゃないですか? おかしいですよ。  ★ 実際、「回答欄に答えを記入せよ」という文を、この文を記入した誰かの主観として受け止めればよいといいのは意味不明。  ☆ これも先ほどのテレビ局という発言の主体の場合と同じように 集合体(もしくは単独者であっても匿名)が話し手になっている事例であり それであるに過ぎません。ひとりの場合と 同じことです。主観は主観です。  言わば無主観だとしたら 《記入せよ》と書いてあっても 誰も相手にしませんよ。ふざけて相手にすることはあってもです。  ★ 主観という語に対してあなたはいい加減すぎる。  ☆ と言ってしまっているほど どこかで大きな勘違いをして そのまますすめています。  ★ 事実と異なる情報を他人へ伝えることも自由だとする考えを是とする人を私は見たことがない。  ☆ 基本主観としての《自由》は その共同主観つまりそれとしての善にしたがいます。しかも 特に応用部門で《自由》と言えば それは善および負の善 これらふたつの内いづれかを選択する自由があるというかたちになっています。だから 少年兵士が 人のムクロを見てもその上に坐っても 平気でいることがありえます。  負の善を人はその応用領域においてえらぶことが出来ると言ったら その選択としての意志行為を是としたと見るのですか?  ★ 情報操作に対して無条件に自由を認める人間を私は見たことがない。  ☆ 情報操作を選択する《自由》は 基礎理論における《自由》から 善の損傷というほうを選んだのだと事実認識することが そのような《悪》の自由を認めたのだと見るということですか?  ★ あなたの意見は自由を理由に情報操作を是とするものであり、これは大多数の人間の常識に反する。あなたの意見はすくなくともこの点では常識にはなりえない。  ☆ この発言部分までを出してしまうと わたしが人びとから笑われるでしょうが おかしいですよ? 相手の意図やその発言の内容を しっかりと受け取り読み取ってください。  ★ 対等と言いましたが主観が対等であることは事実ですか?  ☆ 十人十色の主観と言えども 最低限の共通の要素がある。それが 共同主観であるというのが 基礎理論です。この基礎理論にもとづくことが出来るなら それは一人ひとりにおいて《基本主観》と成って活かすことができる。  この基本主観どうしなら 人びとは互いに《対等》だと見るものです。  ★ 「私は男だ。ゆえに、私は学生だ」。もし「私は男だ」も「私は学生だ」も正しくても、前文から後文は導けないのだから誤りなのであって、文の意味内容のゆえに誤りなのではない。  ☆ その文(ないし 複数の文のあつまり・まとまりとして 文章)の意味内容がマチガイだということになるのですよ。  あるいは言いかえると 一つの文(すなわち主題と論述 つまり 問いと答えのツイ(対)が最低ひとつある表現形式)と もうひとつの文とのつながりにおいて 意味が通らないということでしたら その接続の仕方についての話し手の判断がマチガイである。となります。自己表現における――その意味での文における――マチガイです。  ★ 自分が死ぬことへの恐怖であり、あなたが言うような命一般の大切さとは違います。   ☆ これは 誤解です。つまり両方を言っています。《命一般の大切さ》も言いますが あくまで具体的な一人のひとの主観において感じる《いのち》のことです。ふつうは自分のことです。そして 身内の人やあるいは 知らない人に対しても その範囲は広がります。  いづれであっても いのちが大切だと感じるということは 《死ぬことへの恐怖》を感じているということでしょう。  ★ ~~~~~   「意志行為が中断されるからです。・・・  中断じゃなく終わりでしょう。中断がダメなら寝るのもダメです。  ~~~~~~~~  ☆ 《中断》に終わる場合があります。さいわい命を取りとめ 《終わり》にはならなかった場合です。  《寝る》場合は 意志行為をも寝かせるという事態を 意志行為の《中断》と取ったわけですね。  ★ 神の言葉を教義とすることは、教義を神とすることではありません。  ☆ 《神》は《要らない。いない》と言っていたのでは?  だったら 第三者が《神の言葉を教義とする》という場合に それは無意味だとでも言うのでは?  つまり《教義を神とする》という表現にも 何の意味もないと言わねばおかしいでしょう。  その論証があれば さらによいでしょう。  ★ 私は教義を神とする信者を見たことがありません。  ☆ いわゆる原理主義者は オシエを神そのものとしている状態です。  ★ つまり他我は神なわけですか?  ☆ 《他者は 分からない。分かったと思ってもそれは 自己の中にある要素であって 自己を部分的に知ったことにしかならない》というときの《他者》 このことですか? 《他我》というのは。  経験事象が 神であることはあり得ません。ちなみにオシエも 思考の対象であり 経験事象です。  ★ 私は生物学上の分類を種差別だとは言ってません。  ☆ 《種差》の存在を指摘することと 《種差別 つまり 差別する側は 被差別者(種)に対して何をしてもよいというほどの意味合い》とを混同していたのですか? わたしの発言をめぐって。  ★ もっとも、私はたしかに生まれましたが、それを与えられたと考えはしませんが。  ☆ 《生命ないし生をあたえられた》と表現しては 《生まれた》とは別の意味になるということでしょうか?  ★ 「もし基礎理論が共同化されたとするならば」という反実仮想を前提として用いることはアブダクションではない。  ☆ それが《反実仮想》だという断定は 仮説法に当てはまりません。歴史が基礎理論の述べる内容のごとくになればよいわけです。それが 証明作業です。  ★ ~~~~   「はじめに和解があった。から出発します」  はじめっていつですか?  ~~~~~~~  ☆ 具体的には 信仰があたえられたとき。信仰があたえられたと自覚したとき。あるいは 信仰の自覚を得て 自分が生まれたときから そうであった(和解が成っていた)と知ったとき。あるいはつまり じんるいにまで範囲をおよぼして その誕生のはじめのとき。です。    触れずじまいとしたことがらもありますが あしからず。

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    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • めぐみ(恩恵)について

     次にかかげるパウロの文章を読んで お考えになるところをおしえてください。      これはまづお事割りしますが――集団の宗教やその教義に関すること    は一切取り上げていませんが―― 個人の信仰ないし神学にかかわる    特殊な主題です。ですが その判断基準は 経験科学としての哲学に    あります。  ▲ (パウロ:ローマ書9:11-18) ~~~~~~~~~~~~~  (α) その子供たち(双子)がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、    「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)  と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。    「わたし〔=神〕は〔弟の〕ヤコブを愛し、〔兄の〕エサウを憎んだ」     (マラキ書1:2-3)  と書いてあるとおりです。  (β) では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、    「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を   慈しむ」(出エジプト記33:19)  と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。  (γ)  聖書には〔モーセに敵対したエジプト王〕ファラオについて、    「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現わし、   わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(出エジプト記9:16)  と書いてあります。 このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは――α・β・γ三つの主題はいづれもひとつの課題におさまるように思われ――端的に言って 神による《えこひいき》あるいは《不条理》のもとに《めぐみ》があるという意味なのでしょうか?  たとえば   ▲ (ヨハネ福音 3:8) 風は思いのままに吹く。  ☆ とありますが そういう意味でしょうか? つまりこれは イエスの言葉で 次の話につづくものです。  ▲ (ヨハネ福音 3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。  『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしに見方はあり考えも持っていますが どうも柔軟性が劣って来たかに感じたものですから みなさんからの知恵をお借りしたいと思いました。(ですから わたしに分かっているところは ただちに突っ込みを入れさせてもらいます。そうして なにかが得られどこかの地点に出られるなら さいわいです)。ブレインストーミングのごとくにでもご見解をお寄せください。

  • 《神は有る》のみや《神は無い》のみは アホバカ教

     神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。《有無や善悪を超えている》のだから。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  ――あり得ない。  あり得るのは 神をその人自身のいだく人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も 《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  ちっとはへりくだったら どうなのか。  という問いです。

  • 親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?

     しかも これを わがシントウの《神ながらの道》にひとしいと仮説して問います。  1. たとえば 次のように言っています。  ▼ (親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審(=疑問)あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~  2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。  3. だとすれば アミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)の《他力》については いちいちわれわれ人間が詮索し考えることはない。と言っているはずです。  4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。  5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行や思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。  6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。  7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?  8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう?  9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?  9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?    9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?  10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?  11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?  12. たとえば:   ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~  12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ       いつくしもうと思う者をいつくしむ。       (出エジプト記 33:19 / ローマ書 9:15)  12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み      〔弟の〕ヤコブを愛した。      〔しかも母の胎内にいるときにすでに〕       (マラキ書1:2-3)  12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ      かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。        (ローマ書 9:18)  12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。        (テモテ第一書 2:4)  12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8)  ~~~~~~~~~~  13. このあと 《だから 言わんこっちゃない。やっぱし こうぢゃないか》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。  14. たたき台として示し得た内容について そのすべては シントウないし《日本的霊性》とよぶべきことをも等しく表わすものと思っています。  15. このシンラ二ズム(親鸞思想)は 老荘思想や儒教とは・そして仏教とさえも基本的に異なると考えます。《はじめ(アルケー)》を立てないところです。アミターバ・ブッダを立てていますが――神を立てていますが―― その《義ないし思考または純粋理念》〔なる観念〕から自由な場におのれを置いているからです。これが 神ながらの道であると信じます。  みなさん 思いっきり自由なお考えをどうぞ。遠きを慮り つつしむことこそが 自由なのだというお考えもあるかも知れませんが。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。