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上屋敷、中屋敷、下屋敷

noname#180427の回答

noname#180427
noname#180427
回答No.3

こんにちは。 上・中・下、屋敷にさらに抱え屋敷と言うのは少し違うのでしょうね。 幕府から与えられた屋敷を「拝領屋敷」、 百姓や町人地を買い取って所持したのを「抱え屋敷」と言ったようです。 おっしゃるように大きな大名は上・中・下の3屋敷のほかに、 沢山の「蔵屋敷」も所持していたようです。 「上屋敷」はこれは当然、藩主と御台、その家臣が住むことになります。 「中屋敷」、これは一般には隠居した藩主の屋敷となる場合が多かったようです。 それと面白いのは、上屋敷においておけない人・・・例えば罪を犯した家臣。 そう言う人も牢を作っておしこめておいたようですよ。 「下屋敷」は、まあ江戸在府の人数となれば、 大きな大名ですと2000人を超えますからね、とても上・中の屋敷で、 間に合うものではありません。 必要に迫られてと言うことでしょうね。

kurikuricyan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 屋敷の中に藩士の長屋も建ってるのですね。、 2000人と言ったら、ちょっとした団地ですね。 罪を犯した者をいれる牢屋、、、。 私の子供の頃、私が住んでる村の中に屋敷内に牢屋のある家が結構ありました。 これは、痴呆老人を閉じ込めたり、精神に異常をきたした人を入れてました。 留守を預かる国許では、グッと藩士も減るのですかね? ありがとうございました。

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