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名を残した幕末の博徒、渡世人

清水次郎長、国定忠治、笹川繁蔵、飯岡助五郎、佐原喜三郎、大前田英五郎、新門辰五郎など思いつくまま名を挙げましたが、なぜか関東近辺や東海道筋に多いです。 1.関東や東海道筋に多いのには、何かわけがありますか。   そこには博打をしやすい土壌があったのですか。   京、大坂で名を残した博徒は居ませんか。 2.天保水滸伝という浪曲の名作がありますが、名を残した人は幕末から明治にかけての人が多い  のはなぜですか。やはり乱世ですか。 よろしくお願いします。

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  • tanuki4u
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回答No.2

1.関東や東海道筋に多いのには、何かわけがありますか。   そこには博打をしやすい土壌があったのですか。   京、大坂で名を残した博徒は居ませんか。 関東から東海道筋に関しては、大藩がなかった。 江戸=名古屋で 最大の藩が小田原藩くらいだったと。 これによって、取り締まる力が弱かった。 さらに言えば、人足や運輸需要が高かった また、2とも絡みますが、江戸地廻り経済圏の成立が背景にあります http://mystery.illusion-factory.com/dictionary/2010/03/post-1681.html 専門の博打打ちが、内々にやっていたわけでなく、外部から金を持ってくる人がいてはじめて博打は成立します。 2.天保水滸伝という浪曲の名作がありますが、名を残した人は幕末から明治にかけての人が多い  のはなぜですか。やはり乱世ですか。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 客があって賭場は成り立つわけですから、一般人が小銭を持てるようになったのだろうと推測していました。 農民も商人もそして流通業者や人足・船頭も金まわりが良かったのでしょう。 それをうまく表現できなかったのですが、「江戸地廻り経済圏」の説明で納得できました。 >これによって、取り締まる力が弱かった。 なるほど! 私は単純に、小藩ほど目が行き届くのかと思っていましたが、逆の見方も成立しますね。

その他の回答 (2)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>関東や東海道筋に多いのには、何かわけがありますか。 他にも回答がありますが、街道沿いは「小藩が多い」事が原因ですね。 同時に、親藩も多々あります。 博徒、渡世人が、事件を起こしても「他藩に逃げ込む」と治外法権です。 A藩で事件を起こして、B藩に逃げる。A藩の役人は、無断でB藩で捜査・捕縛が出来ません。 もちろん、A藩からの正式な申し出をB藩が受ければ、B藩の役人が捜査・捕縛します。 が、実質的に「他藩に逃げれば、治外法権」だったようですね。 今でも、A県で事件を起こした容疑者がB県に逃げた場合。A県の警官は、無断でB県で捜査は出来ません。 事前に、B県に「捜査協力」を求めますよね。 または、全国指名手配となります。 >京、大坂で名を残した博徒は居ませんか。 幕府直轄地(天領)・寺社朱印地には、多くの博徒が居ました。 京都だと、伏見の玉川鯉之助。福知山の石原ノ清太郎・福知山銀兵衛。京都九条の九条寅ですかね。 大坂だと、薬師ノ梅吉・仏ノ米吉・お多福ノ福蔵が有名です。 >名を残した人は幕末から明治にかけての人が多いのはなぜですか。 幕末の内乱(尊皇派と佐幕派の戦い)は、上からの政権革命ですよね。 尊皇派は、佐幕派の者を徹底的に排除します。 佐幕派は、尊皇派の者を徹底的に排除します。 この戦いでの戦死者は、勝者の論理で「敗者の弔い(葬儀)は禁止」でした。 戦いの終わった場所には、野ざらしになった幕府側戦死者の遺体がごろごろしていたと言います。 「死者に区別は無い」と、幕府側の死者を弔ったのが清水次郎長です。 まぁ、乱世ですから「一定の自治権を持っていた者が、統治していた時期」なのでしようね。 幕府権力は、既に地に落ちていますから・・・。 また、幕府の権力が落ちていますから任侠さんにとって生き生きとした時代だったのでしよう。 明治初期でも、未だ藩主が藩知事(県知事)に名前が変わっただけで実質的には幕末と同じでした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 京、大坂にもいっぱい居たのですね。(今になって考えると当然ですが) 芝居や浪曲に取り上げられなかっただけのことですね。 調べてみますと「薬師ノ梅吉」は講談になっていました。 「薬師ノ梅吉・仏ノ米吉・お多福ノ福蔵」どれもよい名前です。 地名を頭に被せた名前とは“面白さ”が違います。 これらの名には人情味があって“任侠”の匂いがします。 >街道沿いは「小藩が多い」事が原因ですね。 >博徒、渡世人が、事件を起こしても「他藩に逃げ込む」と治外法権です。 なるほど、そういうことですか。分かりました。

  • tpg0
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回答No.1

こんにちは。 幕末の京都で京都守護職を務めた会津藩に仕えた「会津の小鉄」は仁義を貫き通した有名な博徒です。 鳥羽伏見の戦いなどで、倒幕派に殺された会津藩士の遺骸を丁重に葬って供養した情け深い親分と聞いてます。 京都の博徒なのに「会津の小鉄」を名乗ってる意味は会津藩に仁義を通した証しです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「会津の小鉄」!! そうだ、重要な人物を忘れていました。 飯干 晃一の小説『会津の小鉄』を読んでいたのに…。 京都には今でも「会津小鉄会」という団体がありますね。

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