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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学の弁証法についておたずねします)

弁証法とは - 哲学の考え方を探求する

ghostbusterの回答

回答No.6

> 弁証法を使っった場合、一時的に、より正しい考えは取り出せても、恒久的に、あるいは絶対的に正しいと言える考えは出せないのだろうかと思うのですが、いかがでしょうか。 そのとおりです。 ところで、この「正しさ」という問題は、なかなか取り扱いに慎重を要さなければならない概念です。 原発問題でも、憲法改正でも、いじめでも、恋愛にまつわるあれやこれや(たとえば恋人の携帯を見るかどうか)でも、はては晩ご飯に食べるものであっても、わたしたちを取り巻く世界というのは、あることが正しいように思えても、別の角度から見ると正しくなく思えたり、ある時には正しかったはずのことが、別のときには正しくなかったりして、つねに揺れ動いているように思えます。 ならば、ほんとうの「正しさ」などというものはないのでしょうか。 その考えに従うなら、わたしたちはつねに時の情勢や周りの動向にあわせ、多数派につき、要領よく立ち回ればそれでよい、ということになってしまいます。 けれどもわたしたちはそういう考え方は「まちがっている」とどこかで思っています。いや、自分はそれでいい、そう生きるのが賢いのさ、という人もいるかもしれないのだけれど、その人ですら、そんな振る舞いをしている人をまのあたりにすれば、反感を覚え、そうすべきではないと思うでしょう。 嘘をつく人は、自分を除くほかの人は嘘をつかないと思っているから嘘がつけるのだし(全員がつねに嘘をついている世界では、そもそも嘘は成立しません)、詐欺をはたらく人は、相手が詐欺師ではなく、まっとうな人だとみなしているから詐欺が成立するように、わたしたちの行為は、仮にそれが反社会的な行為であっても(というか、反社会的な行為であればあるほど)他者の「正しさ」に依存しています。 わたしたちは、何が正しいか、言葉ではうまく言えないけれども、目の前に描くことはできないけれども、どこかで状況や時代を超えた「正しさ」があることをわかっている。だから、それを求めずにはいられない。 ところがわたしたち自身は、ある時間、ある空間、ある社会の下に生きるしかない、きわめて限定された存在です。ですから、そうした超越的な「正しさ」は、虚焦点の彼方にあるもの、あくまでも理念として、どこまでいっても探求の目標でありつづけるものだといえます。 一方で、わたしたちの思考というのは独断に陥りやすいものであり、「 探求し続ける」ことの困難から、安易に「正しさ」を実体化しようとしてしまいます。だからこそ、批判や否定を無視したり退けたりするのではなく、それをうちに取り込み、さらに深化させていく弁証法的な思考は、考えていこうとするわたしたちにとって、大きな武器になっていくのではないでしょうか。

feeders
質問者

お礼

 丁寧の回答ありがとうございました。おっしゃることはよくわかりました。ものごとの超越的な「正しさ」の根拠が存在しないことは、現象学によって、またヴィトゲンシュタインの言語ゲームという考え方によって明らかにされています。 ----わたしたちは、何が正しいか、言葉ではうまく言えないけれども、目の前に描くことはできないけれども、どこかで状況や時代を超えた「正しさ」があることをわかっている。だから、それを求めずにはいられない。--とのことですが、全く同感です。人は状況や時代を超えた「正しさ」があるはずだと確信して生きていますね。では、その確信の根拠は何なのかを探ろうとしたのが現象学です。その確信を成立させる状況として、人が共同存在であることが取り出されるわけです。  現象学の場合、錯覚や思いこみの余地を最小限に絞っていき、これ以上絞り込めないところまで持って行くので、誤謬の余地が残りませんが、弁証法の場合は、錯覚や思いこみの余地が残ることを前提にしているので、不確かだとは思うものの、実際的だと感心させられます。 たぶん、人間存在の永久的な(無時間的な)面に関しては現象学の方がまさるけど、人生のあるいはこの世の実際的な(時間的な変遷を伴う)問題を処理するには弁証法の方が有効だという気がします。 その意味で、人間存在の意味を弁証法的に問おうとする人(例えばキルケゴールなど)には疑問を感じます。現象学の方が、例えばハイデッガーの考え方の方が適切だと思うのですが、どう思われますか?  ただ、弁証法の場合、人生や世界を取り巻く状況が多岐にわたるので、議論をうまく弁証法的に行うのは大変そうだという気がします。これが、私の感想です。  ところで、形式論理(この場合、論理が成立するためには一定の条件が必要ですが)や現象学的な論理(循環論法になりますが)の場合は、少なくとも思いこみを排除しようとする意志が最初から存在するので、確かに論理と言えるような気がしますが、弁証法にはそれがありません。だから、それは思考法というか、心的態度というか、そういったもののように思います。同じことはプラグマチズムにも言えると思うのですが、その点、いかが思われますか? 以上、2点の質問にお答え頂けるとありがたいです。

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