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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学の弁証法についておたずねします)

弁証法とは - 哲学の考え方を探求する

ghostbusterの回答

回答No.5

>最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 どうしてこうおっしゃるのかわかりません。 そもそも弁証法 dialectic という言葉は、議論をするための術というギリシャ語を語源にもつ言葉で、議論、つまりは対話の中から生まれたものです。 最初にAという考えが主張される。(テーゼ) たとえば、仮にある人が「芸術とは美を具現したものである」と主張したとします。 この主張は、「芸術」について考えよう、と呼びかけるものであり、その芸術を〈美〉という切り口で俎上にのせているわけです。 それに対して反論がなされる。(アンチテーゼ) 別の人が「美しくない芸術もある。たとえばピカソの「ゲルニカ」は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は、美しくはないが、それでも芸術だ」と反論するわけです。そうなると、最初のテーゼ、芸術は美という観点だけでは語れなくなってきます。芸術について考えるための新しい切り口が必要になってくる。 この否定の手続きを経て、ふたつのテーゼを包括できる第三のテーゼ(ジンテーゼ)が考え出される、というのが弁証法です。 最初のテーゼを「正しく成り立つもの」と固定してしまうと、弁証法の対話としての側面が失われてしまいませんか。 最初のテーゼは単にひとつの切り口の提示にほかならず、否定・批判を前提としたものです。だからこそ弁証法というのは、動いていき、生成するものであり、開かれた可能性を持つといえるのではないでしょうか。

feeders
質問者

お礼

納得です。ありがとうございました。

feeders
質問者

補足

 お礼の後につけ加えたかったことを書いておきます。--弁証法の仕組みがよくわかりましが、ところで、--この否定の手続きを経て、ふたつのテーゼを包括できる第三のテーゼ(ジンテーゼ)が考え出される、というのが弁証法です。--とのことですが、アンチテーゼを提出する段階で、あるいは、ジンテーゼを考え出す際に、論者の思いこみや錯覚や意図的なねじ曲げが混入して、正しくないジンテーゼが導かれる可能性はあるのでしょうか。  もう一つ、お聞きしたいことがあります。第三のテーゼ(ジンテーゼ)が正しいとする絶対的な根拠があるようには思えません。これとても、暫定的に出されたよりベターな考えにすぎないように思います。ということは、弁証法を使っった場合、一時的に、より正しい考えは取り出せても、恒久的に、あるいは絶対的に正しいと言える考えは出せないのだろうかと思うのですが、いかがでしょうか。

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