• ベストアンサー

漢詩の読み、意味を教えて下さい。

家に真贋は分かりませんが、勝海舟が西郷隆盛の銅像か碑が建てられる事を聞いて詠んだと言われている、五絶二行の掛け軸が有りますが、読み、意味が良く分かりません。 何方か教えて下さい。 「雙手救危敗 事去払旧衣  匆匆十七歳 両忘是与非」            海舟の号と印

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 衣と非で韻を踏んでいることになるんですかねぇ。  中国語の素養がないのでよく分からないのですが、勝海舟が西郷さんのことを思って漢詩を作ったという話は何かで読んだ記憶があるので、氷川清話を捜したのですが、本自体が行方不明で確認できませんでした。  回答がつかないのもナニなので、正しい絶句なのか・勝海舟が作ったかどうかは置いて、意訳をば。  有識者の呼び水になるといいですね。  キミと僕とは、両手のように協力して 日本を敗亡(形が崩れる)の危険から救った  古くさい体制を掃き去る事業をやったのだ  あわただしく過ぎた(江戸城開城以後の)17年間  互いに、どっちが正でどっちが非かという対立は忘れたね  <読み>  雙手救危敗  そうしゅ きはいをすくう  事去払旧衣  きゅういはらいさるを こととす  匆匆十七歳  そうそう じゅうしちさい  両忘是与非  りょう ぜとひをわする  

th1331
質問者

お礼

ご丁寧な解説有難う御座います。 お陰様で、客人が見えた時に何と書いてあるか、どの様な内容かを聞かれても説明が出来ます。 大変助かりました。

その他の回答 (1)

  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.2

詩吟をやっている者です。詩吟調に、日本語読みをつけてみます。 雙手 危敗を救う 事去って旧衣を払う 匆匆たる十七の歳 ふたつながら是と非を忘る 雙手とは、双手、もろ手、つまり両手のこと。つまり、天皇軍と幕府軍、それぞれを代表する、海舟と隆盛(と思う。飛躍しすぎか?)。幕府全滅の危機から、われらの会談でもって、救うことができた。 そんなことも過ぎた今では、天皇、幕府どちらについたなんて、忘れましょうや。旧衣を払う、とは、昔のいでたちを取り去る、ということ。 怱々とは、あわただしいということ。あわただしく過ぎた、十七年間。歳とは、歳月。 両は、二つという意味がありますが、対をなして二つということ。是と非の二つを指す。正しいことと、そうでないこと。攘夷論と、開国論のことだと思う。幕府派・朝廷派の双方は、ある時は攘夷論を唱え、ある時は開国論を唱えた。どちらを主張しているのか、分からなくなっちゃたけどね、てこと。 つまり、歴史的事実を加えて、意訳すれば、 我々、二人の会談でもって、江戸城の無血開城を果たすことができた。今では、昔のことは忘れて、共に明治維新に励むことができる。あわただしく過ぎた十七年間は、攘夷論とか開国論とか、どちらがどちらを主張しているのか、分からなくなった。 という意味だろう。

関連するQ&A

  • どこ向いてるの?西郷さん!!

    2、3年前に学校の先生が、西郷隆盛と犬の事を語りだしたついでに、こんな感じの質問をしました。 西郷隆盛の飼ってた犬の名前は何でしょう? ―「ツン」です。 これはいまとなれば結構有名(僕の中で)なんでおぼえているのですが、西郷隆盛と犬(ツン)の銅像はある具体的な所を向いていると言った気がします。どうしてもその答えが気になるのですが、思い出せません。調べてみても、犬の情報はいろいろあったのですが、そのことについてはわかりませんでした。 雑学好きな僕にはこういうことは気になったらどうしても知りたいんで、知ってる人がいたら教えてください。 僕の記憶違いでそのような事が存在しないなら、申し訳ありません

  • 西郷さんと勝海舟の会見

     テレビもそして無論、ドラマも見ませんので、もしもう皆さんには充分分かっていることでしたらお許しください。    http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0730.htmlには、“三田の薩摩藩邸上屋敷”のことが出ていて、  ◎“三田の薩摩藩邸上屋敷”においては、西郷隆盛と勝海舟の会見の場はここの藩邸であるとあります。  ◎本日、ある日刊紙のコラムでは、大田区池上本門寺の松濤園の案内があり、そこが西郷さんと勝さんの会見のばだとありました。   どちらが本当なのでしょう?  その日刊紙の発行者や上記の、http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0730.htmlにお尋ねしようといろいろやってみましたが、上手くつながらないのです。  どうかよろしくお願い申しあげます  ◎またこの“三田の薩摩藩邸上屋敷”の近くには、会見の図を刻した岩の碑があるでしょうか?  左に西郷さんらしい人、右に勝産らしい人が配されております。  そして右の武士は右側に大刀を置かないで、左においています。  その位置もお辞儀をして直ぐに左手で手に出来るようです。  西郷さんは人間の素晴らしさとは別に剣術はやらない人でしたよね。  多分その背後の唐紙の向こうを暗示した図なのでしょうか?    どうかお教えください。いつもすみません。教わるばかりで。

  • 池上本門寺での勝海舟・西郷隆盛会談について

    江戸無血開城へといたる、官軍参謀の西郷隆盛と、幕府代表の勝海舟の会談は三田の薩摩屋敷のほかに、東京都大田区の池上本門寺の庭「松濤園」でも行われたとか。当時の本門寺の関係者が記録した資料があるようですが、具体的なことをご存知の方教えてください。

  • “竜馬が行く”の後に読むべき本

    司馬遼太郎さんの“竜馬が行く”を夢中で読み終え寂寥感に浸っております。 “竜馬が行く”を読み大政奉還までの流れがある程度わかったのですが、 その後の、鳥羽伏見から五稜郭、明治政府樹立までの流れを夢中で読ませてもらえる小説を探しています。西郷隆盛や勝海舟などの小説があればその間あたりを網羅しているのかと思うのですがそれ以外の方でもかまいませんので そのあたりの時代を“竜馬が行くのよう”にそれなりに忠実で面白い小説を教えてください。

  • 幕末偉人 写真

     今朝,新聞の広告で幕末偉人が40人ほどそろった写真を見ました。大政奉還の2年前にとられたものであって,写っている人物は勝海舟,岩倉具視,西郷隆盛,西郷従道,江藤新平,副島種臣,坂本竜馬,中岡慎太郎,大隈重信,後藤象二郎などそうそうたるメンバーであり,真ん中に外国人の博士とその息子がいました。西郷さんの写真は実在しないと聞いていたのでびっくりだったのですが,この人たちが一同にそろうことがあるのか,なんとなく寄せ集めのような気もしましたので,写真の真偽を知る人がいれば教えてください。ちなみに,写真は有田焼の陶板に焼かれて通販で販売されるものです。よろしくお願いします。

  • 「江戸開城談判」絵画の疑問(その2)。

    教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 畳のへりは踏んではならないという作法があったと思いますが、勝は、畳のへりにちょっとかかったところに座っています。微妙な位置ですが、どのように解釈できますか。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))

  • 西郷隆盛と勝海舟の会談場所について。

     以前、東京都大田区に住んでいたのですが 近所に日蓮宗の池上本門寺というお寺がありました。 そこのお寺に松涛園という庭がありました。 その庭が勝海舟と西郷隆盛が会談したというような庭だったと記憶しています。  最近、気になってネットで調べたら、やはりいくつかそのようなことが書いてあるページに行き当たったので、そういうことだと思うのですが。。。  がしかし、田町薩摩藩邸跡にも会談したというような石碑があるらしいことも分かってきたのです。  そこで質問なのですが、いわゆる江戸無血開城が話し合われたのはどこなのですか?会談は一度だったのですか?松濤園と田町の薩摩藩邸の違いは何なんですか???よろしくお願いします。

  • 「江戸開城談判」絵画の疑問(その1)。

    教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 両者は正座していますが、当時、正座は、罪人がお白洲でするものではなかったのでしょうか。武士は、通常、胡座や合蹠座だと思っていました。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問で、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))

  • 「江戸開城談判」絵画の疑問(その3)。

    教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 勝は、床の間を背にして座っていますが、床の間を背にして座るのは、その家の主人とする考え方もあります。そうであれば、両者の座っている位置をどのように解釈すればよいのでしょうか。 この会談の前日にも両者は、同じ屋敷で会談しています。このときの場面の絵では、西郷が床の間を背にして座っています。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))

  • 江戸時代の頃の集合写真

    以前、ある人に江戸時代末期の頃の集合写真を見せてもらったことがありました。名前の説明書きも付いていたのですが、それを見ると西郷隆盛や勝海舟や伊藤博文やその他この頃の有名人はほとんど映っていたと思います。外人の教師(医者?)を中心にして、その教え子達の写真みたいです。これは本物でしょうか?この中に明治天皇の名前もあり(本物だとしても、天皇になる前の皇太子の頃でしょうけど)、天皇になるような人が一般人と集合写真を撮るかな~と、?マークが何個も付いてしまいます。歴史に名を残した有名人達が、それぞれ交流があったのかなという点も、何か不思議に思います。

専門家に質問してみよう