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1.~4.の文の解釈について教えて下さい。
1.自分がテレビ画面から目をそらしたりするとそれを止められる感覚。 2.自分がテレビ画面から目をそらしたりするとそれを止めてくる感覚。 3.頭の中で問いが浮かぶと、問いに関連した答えを頭の中で発せられる感覚。 4.頭の中で問いが浮かぶと、問いに関連した答えが戻ってくる感覚。 1.~4.の文の解釈は以下のとおりで合っているかどうかを教えて下さい。 1.「止められる」は自分以外から強制されているということであり命令の表現である。 2.自分以外から「止められる」という解釈の文。受身とは言えない。 3.自発表現であり、自分以外の何かが問いに関連した答えを発している。 4.外的要因の解釈の文。 僕は1.~4.がどういう解釈の表現かどうかが知りたいのです。 それについてを詳しく教えて下さい。
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- bakansky
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1 ~ 4 までの文は、いずれも 「感覚」 という名詞で終わっています。いわゆる体言止めというものかと思います。 文というのは、何がどうしたという形を持つもので、名詞だけでは、厳密には文と呼べません。「青い空」 というのが文でないのと同じです。 文でない表現に 「命令」 というものはありません。 > 1. 自分がテレビ画面から目をそらしたりするとそれを止められる感覚。 これは、ある種の 「感覚」 がどのような感覚であるのかを定義したものと見ることができます。 名詞で止めずに文の形で書けば → 私がテレビ画面から目をそらしたりすると、それを止められるような感覚を覚えます。 などとなるかもしれません (書き方はいろいろあるでしょう)。 「止められる」 という部分は 「受け身」 です。 受け身というのは、自分に対して外部からの力が働くということです。 つまり、受け身の表現にすることによって、自分の意志ではなくて外部の何かによってある行為をさせられるということを表しています。 ただし、「命令」 とは 「命じる」 行為のことであり、命令は言葉で表現されます。ある行為を物理的に強制することは命令とは呼びません。 「テレビ画面から目をそらす」 行為に対して、それを中止することを求めているのは、外部の力ではなくて、本人の意思です。あたかも外部からの力が働いているかのように思える、ということです。そう感じているのは、本人です。 自分に対してある力が働いているかのように感じられるのは本人であり、外からの力が働いているかのように感じるというのは受け身ということになります。 > 2. 自分がテレビ画面から目をそらしたりするとそれを止めてくる感覚。 これもある種の 「感覚」 に対する説明です。「感覚」 という名詞に対する形容詞がくっついている形です。 「それを止めてくる感覚」 の 「それを止めてくる」 は、「感覚」 という名詞に対する形容なので、命令でも受け身でもありません。 「それを止めろと言われた」 という文なら、「それを止めろ」 の部分は命令形です。 「それによって止めさせられた」 ならば受け身の文ということになります。 > 3 .頭の中で問いが浮かぶと、問いに関連した答えを頭の中で発せられる感覚。 少し書きなおすと、 → 頭の中で何かの問いを思い浮かべた時に、それに対する答えが頭の中に浮かんでくるという感覚。 こういうことは、誰もが行なっていると思います。いちいちを口に出して言わないだけのことです。 ただ、投稿者が書いておられる 「自発表現であり、自分以外の何かが問いに関連した答えを発している」 という説明には、矛盾があると思います。 「自発」 というのは、文字通り 「自分に発する」 ということです。「自分以外の何か」 に発するものではありません。 > 4. 頭の中で問いが浮かぶと、問いに関連した答えが戻ってくる感覚。 3. に比べると、こちらの方が適切な表現かもしれません。 けれども、「外的要因の解釈の文」 であるという 「解釈」 は理解できません。 なぜ 「外的要因」 なのでしょうか。 それと、4つの文について感じたことですが、「感覚」 という名詞で終わらせていては、文が静止した状態にあるような感じになります。たとえば 4. であれば、 → 頭の中で問いが浮かぶと、問いに関連した答えが戻ってくるという感じがする。 のように書くと、もう少し動きのある文になりそうな気がします。体も動きますけれど、感情だって動くものです。 文章に対する思い入れがある方のようなので、他人の文章を読むよりも、自分で文章を書いて書きためてみてもいいんじゃないでしょうか。あるいは短歌や俳句なんかだと短くてすみますが、だからといって短い時間で作れるとは限りません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 僕が思ったことですけど、 >「止められる」 という部分は 「受け身」 です。 受け身というのは、自分に対して外部からの力が働くということです。 つまり、受け身の表現にすることによって、自分の意志ではなくて外部の何かによってある行為をさせられるということを表しています。 : このことについてで疑問を感じたことがありました。 Okwaveで回答をくれた別の方からメールで「~させられる」は一概には受動とは言えないと聞いて僕も『自分がテレビ画面から目をそらしたりするとそれを止められる感覚』という表現は受身とは言えないと思いました。 『自分がテレビ画面から目をそらしたりするとテレビに出ていた人によってそれを止められる感覚』というふうに“テレビに出ていた人によって”という言葉を付け加えると受身になると思ったのです。 他の方からメールで以下の内容のことを聞きました。 ◎実際の「させられる」は使役の助動詞「させる」と受動の助動詞「られる」が組み合わさった形である。ですから「自分以外の他人から指示や命令を受けた結果として、自分がその行為を行っている」との意味になる。ですので一概に「受動的」であるとはいえないことになる。 ということは“テレビ画面から目をそらしたりするとそれを止められる感覚”および“頭の中で問いが浮かぶと、問いに関連した答えを頭の中で発せられる感覚”は指示や命令を受けた結果として、自分がその行為を行っているという意味だと思いました。 本当のところ、どうなのか、新たな質問を立てようと思いました。