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平泉の歴史とその可能性について
- 平泉の黄金と財力を持つ奥州藤原家が、若く健在な秀衛の存在によって、頼朝との戦いで苦戦する可能性を考えてみました。
- もし秀衛が生きていた場合、彼らは頼朝に対抗するための戦略をどのように立てたか、歴史に詳しい回答者の方々に教えていただきたいです。
- また、奥州藤原家の兵力や財力についても、太平記などの記述に基づいて考察してみたいと思います。
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お礼
返事が遅くなりすいませんでした。 このたびの回答ありがとうございます。 藤原秀衡の統治当時の有様が目に浮かぶようです。 焦土作戦・・・そうですね。一つの有効な手段だと思います 無能力者の泰衡は忠衡まで殺害し、自分の延命のために平泉に火を放っただけ、 まったくトップがしっかりしないと国が滅びる典型的な事例だと思います。 個人的になぜか「奥六郡」という単語の響きが好きなんです。 ですから平泉のことが他の人より気になるのです。 回答者様がおっしゃるように、冬将軍を待つのが良い方法かもしれません。