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京と平泉と鎌倉

下記の文章は、佐藤信編「古代史講義」と「某大学入試問題」より抜粋したものです。 (1) 平泉は、京の模倣として語られることが常であった。しかし、それは単なる「真似」ではなく、その背後に、平泉・奥州藤原氏政権の独自性が間違いなく存在していたことを見落としてはならない。奥州藤原氏が求めたのは、歴史的伝統に基づく独自性を保ちつつ、中央標準の方式を獲得して、自らの政権を荘厳にすることであったとみるべきであろう。それは、近年指摘された関山に設けられた一基の塔に始まる鎮守社も含めた宗教施設の構築から読み取れる独自の論理の存在に象徴的である。(佐藤信編「古代史講義」P287より) (2) はじめ、奥州の貢物は奥州藤原氏から京都へ直接納められていたが、1186年、頼朝は、それを鎌倉を経由する形に改めさせた。3年後、奥州藤原氏を滅ぼして平泉に入った頼朝は、整った都市景観と豊富な財宝に衝撃を受け、鎌倉の都市建設にあたって平泉を手本とした。(某大学入試問題より) 教えていただきたい、あるいはお考えを伺いたいのは2点です。 1 「平泉は、京の模倣として語られることが常であった。」と「鎌倉の都市建設にあたって平泉を手本とした。」とあるのですが、京と平泉と鎌倉に共通点があるでしょうか???あるとすれば、それはなんでしょうか???都市とか建築物に限らず、どんな共通点でも構いません。 2 頼朝は、「鎌倉の都市建設にあたって平泉を手本とした。」ということなのですが、どのようなことを手本にしたと考えられますか???それは今、どんな形で残っていますか???

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  • 回答No.2

よくいわれる共通点は、軸となる巨大な道路を中心に碁盤目状に区画された都市という点だと思います。京には大内裏の朱雀門から南に伸びる幅82mの朱雀大路があり、それを中心に条坊制といわれる碁盤目状に区画された都市が築かれています。平泉には毛越寺の南に東西に走る幅30mの東西大路があり、鎌倉には鶴岡八幡宮から南に伸びる幅33mの若宮大路があり、それぞれ京と似たような碁盤目状の都市計画がされていたといわれています。ただ、平泉や鎌倉については、碁盤目状の都市計画の存在を否定する見解もあります。 鎌倉の都市計画の中心を自分の居館や政庁ではなく宗教施設の鶴岡八幡宮にすえているところは、寺院と神社という違いはありますが、平泉を手本にしたといえなくもない気がします。 なお頼朝は、鶴岡八幡宮だけでなく、平泉の中尊寺などの浄土寺院にならって勝長寿院や永福寺といった大寺院も鎌倉に建てています。

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質問者からのお礼

ありがとうございました。 よくいわれる共通点は、軸となる巨大な道路を中心に碁盤目状に区画された都市という点だと思います。……私は鎌倉に行ったことがありませんが、イラストの鳥観図を眺めて、鶴岡八幡宮へまっすぐ伸びた道路があるので、「道路」が関係しているのではないかと想像しました。これなら京都にもありますし、ただ、平泉は??? 平泉には、観光で2回訪れましたが、ツァーでしたので、見学したのは、毛越寺の庭園と、金色堂だけですが、金色堂、中尊寺から、北上川方向に向かって、山道をまっすぐに、降る道がありまして、それで「道路」というのを連想したのですが、「まさか、そんなことは」とも考えつつ、質問させていただきました。 平泉には毛越寺の南に東西に走る幅30mの東西大路があり、……「碁盤目状の都市」というのは、よく分かりませんが、「道路」というのは、「なるほど」という気がします。それに、当時の平泉は、京都に次ぐほどの大都市だったと何かで読んだ記憶がありますし、京都と平泉の交流のことなども想像すると、規模は別にしても、「碁盤目状の都市」というのも、全く否定できるものではないかもしれませんね。 なお頼朝は、鶴岡八幡宮だけでなく、平泉の中尊寺などの浄土寺院にならって勝長寿院や永福寺といった大寺院も鎌倉に建てています。……分かりました。調べてみます。

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  • 回答No.3
  • miku-chi
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平泉は京を模倣していないという説もあり、著者に訊かないと分かりません。 また鎌倉も平泉を手本にしたという確実な証拠も無いようです。 ちなみに平泉は代ごとにまちづくりの方向が異なるのですよ。

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質問者からのお礼

ありがとうございました。 平泉は京を模倣していないという説もあり、著者に訊かないと分かりません。……「歴史」ですから、いろいろな説があると思います。著者とは面識がありませんので、訊ける立場にありません。 また鎌倉も平泉を手本にしたという確実な証拠も無いようです。……お考えを伺いたかったのです。 ちなみに平泉は代ごとにまちづくりの方向が異なるのですよ。……興味深いですね。どのように異なるのでしょうか???

  • 回答No.1
  • tzd78886
  • ベストアンサー率14% (2215/14930)

それは書いた本人にしか分からないでしょう。全ての専門家がそう思っているとは限らないし、そう思っている人が他にいるとしても各々の考えによるものでしかないので著者の考えている理由と一致している保証は無いからです。

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