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薙刀と槍では相当違うのでしょうか
Verhaltenの回答
- Verhalten
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吉良方では薙刀を持って戦った記録が残っています。 持ってはいけない事でもないようです。 ただし、 武士は絶えず戦の心構えをしておくのがたしなみです。 すなわち、喧嘩の準備は不逞です。 戦ですから槍を持つのが武士です。 薙刀を持って喧嘩をしに行けば主君の名に傷が付くでしょう。
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お礼
本当ですね。吉良家の当主は薙刀で戦ったとなっています。 江戸時代になると、薙刀は女子の武器で、武士が持って行くには、なぜかカッコ悪い雰囲気があります。これが平安時代の僧兵だと、薙刀がぴったりで、かっこいいです。 時代の流行で、もしかして、中世以降は薙刀はかっこ悪い武器になってしまったのかもしれませんね。逆に日本刀は実戦ではあまり役に立たないのに、名誉の武器になっているのと反対に。