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江戸城本丸「焼火之間」とは。
御祐筆部屋の隣に「焼火之間」があります。 いつも焚火をしていたので、この名があるそうです。 この部屋に詰めていたのは、ちょっと調べたところ、火を扱わねばならないような奉行や役人ではなさそうです。 なぜ、焚火をしておく必要があったのでしょうか。 焚火とは木を燃やしていたのですか、それとも炭火ですか。 よろしくお願いします。
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>御祐筆部屋の隣に「焼火之間」があります。 ありますね。 江戸城だけでなく、仙台城・高島城・津山城などにも存在していますね。 >いつも焚火をしていたので、この名があるそうです。 「???」 部屋の中央に、大きな囲炉裏があるのでこの名が付いているとの説が有力ですよ。 >火を扱わねばならないような奉行や役人ではなさそうです。 江戸城では、城内の建造物・調度品まで城内で製作していましたよね。 多くの職人を京・大坂から集めたようです。 ここでは、若年寄配下の御細工頭の下で造営・製作・管理が行われました。 御細工頭は、当番日に本丸御殿・焼火之間に詰めました。 >焚火をしておく必要があったのでしょうか。 常時「焚き火」をしていたか否かという問題は、置いといて・・・。 「火事と喧嘩は、江戸の華」ですよね。 先に書いた様に、「火災よけのまじない」的な意味もあったようです。 「目には、目を」「歯には、歯を」「火には、火を」とね。 この説だと、江戸城だけでなく全国各地の城とか大寺院に「焼火之間」が存在する事も理解出来ますね。 >焚火とは木を燃やしていたのですか、それとも炭火ですか。 津山城の焼火之間発掘調査では、多くの炭が出土しています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「火災よけのまじない」という説もあるのですね。 それにしては、大きな囲炉裏だったようで、しかも本丸の端っこではなくほぼ中央と呼んでいい場所にあります。 実用面で考えると、「お茶」くらいしか思いつかないので質問しました。 津山城の発掘調査では、多くの炭が出ているのですね。 参考になりました。