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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。)

イエスは自分が神であると大嘘をついた?

noname#259625の回答

noname#259625
noname#259625
回答No.9

No.7です。 (結論)イエスは自分が神とは主張したことがない。仲介者イエスは神とは別人。天使たちはそれぞれ別々の人格を持っている。 >つまりこの件では 結論としてこうです。  イエスは 人間でも《神々の内の神》と呼ばれることはあるではないかと茶化した。むろん そうではなく ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。 なるほど。しかし、結局、イエスが自ら「私(イエス)は神だ」と主張した箇所は聖書のどこにもないということは事実だと思いますが。 >☆ 祭司は 人間です。イエスという人間の貌のことです。ところが イエスは 人間であると同時に《神の子でありみづからも神である》と言ったという意味です。神の貌をも兼ねているという意味です。何ら矛盾しないはずです。 イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。 また、イスラエル人に対して、モーセは預言者、神とイスラエル人との律法契約における仲介者でした。それと同じく、イエス・キリストもまた神と人との間を執り成す大祭司、また仲介者です。もし、神とイエスが同一人物なら、どのようにしてイエスは神に執り成しができるでしょうか。 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」テモテ第一2:5 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」ヘブライ9:15 それに、本来、罪ある人間は、聖なる神に近づくことが許されていません。近づくには犠牲よる贖罪が必要です。もし、イエスがその神の一つの側面(貌)であれば、イエスは罪ある人間の間で生活してきたのであり、罪人は聖なる神に近づけない、という概念と矛盾が生じます。しかし、やはり、イエスは神の側面(貌)の一つではなく、神から遣わされた預言者、救世主であり、神と人との仲介者、大祭司として執り成しをする方で、この点からも神とは別人だと言うことが証明できると思います。 それに、もし、神とイエスが同一人物であれば、死んだイエスを神が復活させることができたでしょうか。  >☆ おそらく天使たちも 神なる聖霊のなかにおさまるということですから ・・・ 天使たちも人間と同じく、様々な人格を持った存在です。ノアの時代に、一部の天使たちは女目当てに地上に降りてきました。彼らは神に反逆した堕落天使で、悪魔となりました。この例からも分かるように、天使たちの社会も人間の社会と同じく、個々様々な性格を持った別々の人格者たちから成っています。人間のAさん、Bさん、Cさん・・・、それぞれが全く別人であるのと同じく、聖書に出てくる、天使ミカエル、天使ガブリエル、また堕落天使である悪魔たち・・・、これらの霊者たちは、それぞれが全くの別人です。聖霊の一部というわけではありません。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  【Q‐1】 いちばんの決め手は 次の《父の独り子》だという指摘でしょうか?  ▼ (ヨハネによる福音書 1:14 ) わたしたちはその栄光を見た。それは ≫父の独り子≪ としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。  ☆ これだけでは イエスが《神の子》であるだけではなく 父や聖霊と同じ《神》であるとまでは言えませんが 《天使》ではないとははっきりしています。この点について確認を願います。  つまり 天使ではなく神の子である――しかも独り子である――とは どういうことか? ではないでしょうか。  補足として:  ★ 天使たちも人間と同じく、様々な人格を持った存在です。  ☆ その側面としての事情は いま関係ありません。イエスが神の子であり神であると書かれている(ヨハネ福音1:1)とき その《神》というのは 天使とのことだという反論があったからその筋でのみ天使のことを扱っているからです。天使がその数が複数であっていろんな天使がいるという話は 別としておくことが出来ます。  【Q‐2】 イエスはみづから自分は神の子であるだけではなく神であると言ったか?  ★ しかし、結局、イエスが自ら「私(イエス)は神だ」と主張した箇所は聖書のどこにもないということは事実だと思いますが。  ☆ けれども  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~  ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★★ (回答No.5) ~~~~~  ◎ 次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。  「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。  【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。  ★ ~~~~  イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。  ~~~~~~~  ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。  たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。  あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。  だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。  補足‐1:  次の疑問も同じ事情にあります。  ★ イエス・キリストもまた神と人との間を執り成す大祭司、また仲介者です。もし、神とイエスが同一人物なら、どのようにしてイエスは神に執り成しができるでしょうか。  ☆ イエス・キリストは 神の独り子であり父なる神とひとしい。ただし 位格の違いがあってハタラキが違う。人間とのあいだの仲保者であるのは むろん 子なる神です。  補足‐2:  次も同じくです。  ★ それに、もし、神とイエスが同一人物であれば、死んだイエスを神が復活させることができたでしょうか。   補足‐3:  次のふたつのくだりは 《人間の貌》としてのイエスと《神の貌》としてのキリストとを述べています。同時にふたつの貌があります。  ▼ 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」テモテ第一2:5  ▼ 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」ヘブライ9:15  【Q‐4】 人間イエスは 罪のない存在であるか?  ★ ~~~~~  それに、本来、罪ある人間は、聖なる神に近づくことが許されていません。近づくには犠牲よる贖罪が必要です。もし、イエスがその神の一つの側面(貌)であれば、イエスは罪ある人間の間で生活してきたのであり、罪人は聖なる神に近づけない、という概念と矛盾が生じます。しかし、やはり、イエスは神の側面(貌)の一つではなく、神から遣わされた預言者、救世主であり、神と人との仲介者、大祭司として執り成しをする方で、この点からも神とは別人だと言うことが証明できると思います。  ~~~~~~  ☆ 《神と人とのあいだで執り成しをする》には 《罪》がある人間であってもよいということでしょうか?  あったけれど 復活のあとに罪が消えたというようなことなのでしょうか?  これは それほど問題になるとは思わないのですが もしお望みなら 罪を犯さなかったその前のアダムとエワと同じく穢れなき自然本性としての存在であったとお考えください イエスについてです。  イエスの人間の貌としての人生は 言うなればどうでもよいと考えます。肉となるというそのコトじたいは はづせませんが そのあとどういう人生を送ったかは 二の次です。  神の貌として(つまりは 人間の貌とともに同時に神の貌として存在する者として) 何を言い何をおこなったか。これが 大事です。  こんなところでしょうか。

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     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?