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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。)

イエスは自分が神であると大嘘をついた?

noname#259625の回答

noname#259625
noname#259625
回答No.7

No.5です。聖書に関して深く考える機会となり、うれしく思っています。 (結論)子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者、神から造られた天使たちの長兄であり、神の初子というのが正確な理解です。 >☆ ヨハネ福音の冒頭は イエスの発言ではありませんが その聖書記者ヨハネによれば イエスを《神の子》として しかもみづからも《神》である存在として受け留めており そのとおりにしるしていることが知られます。 先回示した、ヨハネ10:34の「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。」。これはイエスが詩編を引用したものでした。その詩編82:6はこう書いてあります。「わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 」」(口語訳聖書) 尚、新共同訳聖書の場合は、「神」ではなく、「神々」となっていましたが。この詩編82:6で「神」と言われている者たちは、明らかに全能の神とは異なる者たちでした。もちろん、イエスでもあり得ません。ですから、聖書中で、「神」と言われているものがすべて、全能の神と同じであるとするのは早計です。 実際、例のヨハネ10:33では、ユダヤ人が「イエスが自分を神とした」と、まさしく今回のテーマと同じ主旨の非難をしているわけです。これに対して、イエスは、「(私は自分を神と主張したことはなく、)神の子であると主張したに過ぎず、それは冒涜でない」という主旨の答えをしているわけです。 ですから、ヨハネ1:3については、言葉は神(のような者[人間から見れば]、つまり天使のこと)であった、と見る方がより自然でしょう。 > さて 次のくだりについて 《神の子》であるだけかあるいは同時に《神》であるか判定するのは 微妙でしょうか?・・・ ◎「わたしは道であり、真理であり、命である。」について。 古代イスラエルの神殿では、祭司が奉仕していました。アダムの子孫は罪人ゆえに、贖罪なしで神に近づくことはできません。それを執り成すために犠牲を捧げるのが祭司の役目でした。同じように、イエスは大祭司として奉仕しており、そのことがヘブライ9:11,12にこうあります。 「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」 したがって、「罪人であるアダムの子孫である我々は、大祭司イエス・キリストの犠牲の血に基づく贖いによらなければ、正当に神に近づくことはできない」という意味において、「わたし(イエス)を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言い得たのです。 むしろ、古代の神殿において、神と大祭司とは別人であることは明らかです。ですから、全能の神と神の子イエス(大祭司)も全く別の人格者であると言えます。 ◎フィリポに答えた「わたしを見た者は、父を見たのだ」について。 ヘブライ1:3にはこうあります。「御子(イエス)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(る)」。つまり、神は父の素晴らしい特質を体得し、反映していたので、「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たも同然である」ということを述べていたのです。イエス=神、つまり両者は同一人物という意味ではありません。 >みっつの位格(ペルソナ)について 個は各個とそれぞれひとしく 各個は全体と そして全体は各個とひとしい。これが イエス・キリストの指し示した神です。 三位一体の教理ですね。父と子と聖霊は各位が同格であり一体であるというものだと思います。要するに、神には時と場面に応じて別々の顔(側面)を示すということでしょうか?  しかし、子は父が生み出した者。結論から述べると、イエスは神の子ら、つまり天使たちの長兄であり、初めて神によって造られた天使でした。それゆえに、イエスは「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とコロサイ1:15で言われています。 そして、イエスは神の初子として、天地創造の業に携わりました。ですから、この宇宙は、神が設計し、そのための力を与え、イエスがその設計に基づいてすべてのものを造ったということができます。続くコロサイ1:16にはこうあります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 」 〇ですから、子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者、神から造られた天使たちの長兄であり、神の初子というのが正確な理解です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ですから、聖書中で、「神」と言われているものがすべて、全能の神と同じであるとするのは早計です。  ☆ そのとおりです。ヨハネ10:31-39 では 神(エローハ)ないし神々(エローヒーム)という言葉は同じなので イエスはわざと神の貌としての神ではなく――ほんとうはそうなのに そうではなく―― 人間の貌としての・タトエとしての《神》という言葉を持ち出して来て その言葉を自分に当てはめて使ってもいいではないかと ユダヤの人びとを煙に巻いただけのことです。   ▲ (詩編 82編 1節) ~~~~  【賛歌。アサフの詩。】  神(=エローヒーム:これは 神の貌そのもの)は神聖な会議の中に立ち  神々(=エローヒーム:人間の中で裁判をおこなう者たちのことを神々とたとえて言っている)の間で裁きを行われる。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この表現形式を持ち出して 無用な議論をしりぞけた。だけのことでしょう。  表現のかたちとしては 神の貌そのものとしての――つまりヤハヱーとしての――神は これも エローヒームという複数形で言われています。ただし その動詞の活用形が単数形(ニッツァブ he-standeth )であるので ヤハヱーのことだと分かります。 ちなみに 詩編82:6では 同じエローヒームという複数形が用いられていても 裁きをおこなう者が 《あなたたち アテム》と表わされていて それは人間たちだと分かり また《子どもたち ベニー》とやはり複数形で表わされています。  ▼ 「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 」(口語訳聖書)  ☆ という翻訳が《子》のごとく 単数形であるにもかかわらずです。  つまりこの件では 結論としてこうです。  イエスは 人間でも《神々の内の神》と呼ばれることはあるではないかと茶化した。むろん そうではなく ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。    *  ★(あらまし) イエスは自分を神と言ったのではなく 神の子だと言ったのみ。それは 天使であることを意味する。  ☆ これについては かんたんです。   ★ むしろ、古代の神殿において、神と大祭司とは別人であることは明らかです。ですから、全能の神と神の子イエス(大祭司)も全く別の人格者であると言えます。  ☆ 祭司は 人間です。イエスという人間の貌のことです。ところが イエスは 人間であると同時に《神の子でありみづからも神である》と言ったという意味です。神の貌をも兼ねているという意味です。何ら矛盾しないはずです。       *  ★ ~~~~~  ◎フィリポに答えた「わたしを見た者は、父を見たのだ」について。  ヘブライ1:3にはこうあります。  「御子(イエス)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(る)」。  つまり、神は父の素晴らしい特質を体得し、反映していたので、「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たも同然である」ということを述べていたのです。イエス=神、つまり両者は同一人物という意味ではありません。   ~~~~~~~  ☆ 《栄光の反映 / 本質の完全な現われ》は もし神の貌のことであるなら――あるのですから―― それは聖霊としてあり 一般に人間に分かるものではありません。十字架上の死とその後の復活のあと イエスは父のもとから父とともに人びとに聖霊を送った。そこでやっと人びとは 生前にイエスが《自分は神の子であり 父と同じ神である》と言っていたことに気づいたのです。人間の貌だけではなく神の貌をも現わしていたのだと。  《父の素晴らしい特質を体得し 反映していた》としても 生前には一向に弟子たちにさえ イエスがキリストであるということは分からなかった。そうはペテロも口にしていたのですが 分からなかった。その証拠に ペテロを筆頭にして 弟子たちすべては最後の土壇場でイエスを裏切った。ということであるはずです。  イエスは 人間の貌と神の貌とを現わしていた。けれども そう言葉で言われても誰ひとりとしてイエスの生前には 分からなかった。こういうことです。  ▲ 「わたしを見た者は、父を見たのだ」   ☆ そのとおりであると同時に その《父》であることは 誰にも分からなかった。聖霊が何であるかなど 誰にも分かりません。風は気ままに吹きます。     *  ★  結論から述べると、イエスは神の子ら、つまり天使たちの長兄であり、初めて神によって造られた天使でした。  ▲ (ヨハネによる福音書 1章) ~~~~  1: 1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。    1:14 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは≫父の独り子≪としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように《独り子》となります。  《長子・長兄》とあるのは アブラハムを初めとする人間としての《神の子たち》(ヨハネ福音1:12)にとっての長兄となります。  ★ ですから、子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者  ☆ むろん《子》というのですから 親から生まれたというかたちです。ところが 《神の貌》としては そのような《生まれる》という表現を用いたとしても そこに時間的な懸隔などはありえません。ただ人間の経験世界の言葉で仮りに表わしたものです。神は はじめから聖霊です。  天使の問題としては  ▼ (ヘブル書1:14) 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。  ☆ おそらく天使たちも 神なる聖霊のなかにおさまるということですから そして神から《生まれた》という表現が似かよっているので 《神の独り子キリスト》との類似性が捉えられたのでしょう。アブラハムら人間としての《神の子たち》と同じように 天使たちにとっても キリスト・イエスは 長兄であると呼ばれることは それほどおかしなことではない。そういう事情にある。ということだと思われます。  どうでしょう?

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     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?