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全ての存在は無なのか

ok9608の回答

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  • ok9608
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回答No.4

P氏の「全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づき、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなる。全ての存在は無である。」は実証論理上は間違いでしょう。 たぶんシュレーディンガー方程式の解、存在確率に対応するψの絶対値の二乗の積分領域を全空間に広げた値が1になる、という答えからヒントを得て上述の主張になったものでしょう。積分領域を限りなく大きくとればψの絶対値の二乗の値は限りなくゼロに近づくことは正しいでしょうが それ以上のことは語っていないのです。実証論理としてはここまでであろうと思います。 さらに P氏の主張(ここでは触れられていませんが)に、ハイゼンベルグの不確定性原理で言われてきた(位置の揺らぎ)×(運動量の揺らぎ)≧h あるいは (時間の揺らぎ)×(エネルギーの揺らぎ)≧hから 連想されたと思われる時間と存在の実証理論とはかけ離れた主張がされていますが これも実証理論としては間違いです。念のためその不確定性理論は小沢正直氏によって基本的に見直されており、P氏はその小沢理論は理解されていないのか 参照されていません。 いずれにしてもP氏の主張は実証論理ではなく 単なる主張と思います。その意味では実証理論を除いたと思われるアルケーの宇宙論と似たところがあります。実証理論を除く主張が全て無意味ということではないのですが P氏の主張する量子自我論とかアルケー宇宙論は 理解しがたいということです。

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