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親鸞の言っている悪人とは。。

     煩悩多き人と、煩悩と断てない人、つまり「人類全てだ」と、解釈しているのですが。。。   キリスト教との比較、もよければ。

みんなの回答

noname#195588
noname#195588
回答No.10

質問とは直接、関係ない書き込みになってしまいますが アージーヴィカ教について検索していたときに 思いついたのですが、 キリスト教との比較で アウグスティヌスの恩寵の思想や 阿弥陀信仰の過去に法蔵菩薩が悟って阿弥陀仏になって 極楽往生は決定している。 というのも、いわば運命論ではないでしょうか。 運命論だから、業や因縁を思想の中核にする 仏教から批判されてしまうのではないか? 運命論というのは、どうやら 行為や因縁の思想を否定するそうです。 全ては決まっているから。 親鸞の思想は運命論になってしまったのではないでしょうか。

ri-zyu
質問者

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noname#189751
noname#189751
回答No.9

>煩悩多き人と、煩悩と断てない人、つまり「人類全てだ」と、解釈しているのですが。。。 人類全てが悪人 なのでしょうね。 その中でも 五逆罪を犯した者は救われないとされているようです。 解釈によっては 救われない者こそ悪人 なのかもしれません。 永遠に救われない 永遠の悪人が 真の悪人のようです。 いわんや悪人をも という言葉には 真の悪人は含まれていないようです。 五逆罪を犯した者だけはダメなのでしょう。 でも 密教の見方になってくると違ってくるようです。 五逆罪を犯した者でも、至心に懺悔して、身を投げ打って償おうとすれば、いつかは救われるようです。 一見阿字五逆消滅 といって、至心に懺悔すれば、その悪業の果が身に及ばないとされています。 また、仏の大慈悲心の方便により、ニ生三生を経てでも救済するといわれているようです。 親鸞と同じく、絶対他力の世界でありながらも、悪人に対して方便をもって追う ところが大きく違っているようです。 親鸞は、この事を知っていたかもしれない  絶対他力の世界に到達したのであれば たぶんそうではなかったかと思います。 でも 五逆罪だけはいけないよ と戒めとして残しておいたように思います。 仏の慈悲心に漏れる人は一人もいない のだけれども 五逆罪だけはいけないよ としておいたのでしょう。 世の中みな悪人だらけです 悪業を犯さない人はいない でも 五逆罪に喩えて、極悪非道を犯してはいけない と言いたかった、しておいたのでしょう と思います。

ri-zyu
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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.8

悪いところに目を向けることではないでしょうか。 たとえば、あの人はあそこが悪い、こんなことするから、こんなこというから 社会が悪い、政治家が悪い、営業が悪い、社長が悪い、上司が悪い、部下が悪い 親が悪い、子供が悪い、妻が悪い、夫が悪い、友人が悪い、親戚が悪い、近所の人が悪い そういった目で、不平不満ばかりを並べたてながらの生き方を選んでいることを 悪人と総称しているのではないでしょうか。 他者ではなく、自分の中のそういう思いを見つめていくのが大切だと 言われているのではないかなぁと思うのであります。 人(他者)に求めると、悪い・駄目だ・できない・そうじゃないと 否定非難批判のオンパレードになりやすい。 そこから見直す必要性を説いてあるのだと思います。 仏教は基本的に許しと受け入れに繋がるので、その為の出発点でしょうか。 キリストも似たようなことで、自身が(神に)許されて 他者をも許していこう受け入れようと言う考えがあるのだと思います。

ri-zyu
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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

そもそもが、仏教というのは(「輪廻転生」という発想から)「何度、落第しても大丈夫です」というのに対し、 キリスト教では「一発勝負です」ということになるのではないでしょうか。 (仏教では) 煩悩が多くて断てない状態というのは苦しいわけですから、何度も落第していれば、それだけ苦しいわけです。 (キリスト教では) ・・・知りません。 仏教では「どうせ大丈夫なんだ」、キリスト教では「どうせダメなんだ」という、(両)極端な志向が生じ易いのではないでしょうか。

ri-zyu
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回答No.6

ヨーガとか私達の精進は行や勉強が大事ですが、じゃぁそれでほんとうに解脱していけるか? そういう自分のやったことで、何かがもたらされるか? というと、教えは果実を求めるな。自己のやったことの結果がどうだとか考えるな、それを問題にするな。 というのです。 しょせんは、すべては宇宙と自己に内在している存在の問題だと。 つまり自己の努力、自力はするが自力本願ではなく、全ては捧げる。 つまり悪人正機の悪人って、自己をなんでもない誰かが生きているだけの現象だと思えるひとかなぁ。 私達はSelf-Realization Fellowshipの会員です。

ri-zyu
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  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.5

悪人というからには、善人もいるということになりますよね。 では、善人とはどんな人の事なのでしょうか。 簡単に言えば、釈尊の教えを守り実践しているが、まだ悟りには至っていない人。そして、やがて自力で悟りに至ることがでると考えている人の事を言っていると考えています。 一方、悪人とは釈尊の教えを守ることができず、自力では悟りには至れないと思ている人の事だと思います。 そう考えれば、悪人正機説が理解できるのではないでしょうか。 「自分では悟ることができないので、弥陀の本願にすがる人は勿論、自分で悟ることができると自負しているが未だ悟りに至っていない人だって、阿弥陀如来は悟りへと導いてくださる。」という意味ではないでしょうか。  キリスト教で言う悪人とは、まあ悪人という言葉は使いませんが、ヤーベを信じない者、異端を信じる者、異教徒と呼ばれている者のことですよね。

ri-zyu
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回答No.4

>親鸞の言っている悪人とは。。 自己の悪人たるを自覚している人を悪人と呼んでいます。

回答No.3

>親鸞の言っている悪人とは。。 事故の悪人たるを自覚している人を悪人と呼んでいます。

noname#205881
noname#205881
回答No.2

未来を予言して親鸞の言っている悪人とは。。 野田佳彦、枝野幸夫、山口那津男、橋下徹、

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

親鸞の言っている悪人とは。。 ○親鸞の念仏は親鸞一人のものですね。だから悪人は親鸞自身のことですね。 極十悪人の身だから一心に念仏を唱え阿弥陀仏にすがったのですね。 何がして親鸞がそう思ったかは親鸞自身にしかわかりません。 当時、妻帯も仏教では破戒僧でしたが、そんな形式ではなくもっと心の奥にあったものでしょうね。 >キリスト教との比較、もよければ。 ○キリスト教でいえば、パウロの信仰ですね。 旧名サウロはイエスを十字架にかけた側にいたのですね。弟子を石打ちで殺し、さらに他の弟子の逮捕状をもって旅の途中で回心しイエスの弟子になった人物ですね。有名なダマスコの回心ですね。 パウロはキリスト教でも有名ですが彼の信仰に似ているということですね。

ri-zyu
質問者

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