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原罪と煩悩はどう違うのですか
キリスト教が原罪といっているものと仏教で煩悩といっているものは自分の中では区別がつきません。例えば異性に対してみだらな思いが起きるということです。しかし、こういう思いは本能としてとらえればことさら原罪や煩悩といわなくてもいいのではないかという人もいます。キリスト教が日本に入ってきて100年以上になるのに信者が少ないのは「原罪」が理解できないせいではないかと思うことがあります。キリスト教を信じている方はどのように納得しておられるのでしょうか。人は生まれながらにして罪人だといわれてもいまだに素直になれない私です。
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キリスト教の場合、基本的な設定が「神と人間」の完全な上下関係です。 人間は神を疑ってはいけない。(キリスト教会を疑ってはいけない、という意味) しかしながら、エデンの楽園から、人の祖先は追い出されています。 神の教えに逆らい、知恵の実をたべたからです。 これが原罪ということ。 極めて単純な話で、人は教会の利益に反することをしたがるものであって、 はじめから洗脳されているわけではない、だから生まれたままなら罪人である、という理屈です。 「現世での苦痛や矛盾は政治が悪いからではない、教会が悪いのではない、神が無能だからではない、 人は全て原罪を背負って生まれてきたのだから現世の苦痛は我慢しなさい、 教会に従っていれば死後には天国に行けるからね!」 キリスト教が参考にしたのは選民思想のユダヤ教です。 ユダヤの血筋に入れない民族が、己の優位性を謳う基本理念が「原罪」という設定です。 ユダヤ教徒に強姦されても、その娘の子供はユダヤの民にはなれません。 辺境民族を血筋にもつ無数のマリア達の悲しみが、新たな宗教に結実します。 選民思想から離れる為に、「神の愛」という設定を編み出しました。 時は経ち、キリスト教発展の時代、覇権国家であったスペインは海外を席捲していきます。 新大陸も発見したけれど払った代償も大きく、古代インカの民から略奪した金をバチカンに献上します。 現代のバチカンの荘厳は、インカの民衆を差別し殺戮した上での輝きです。 時代に合わせて形を変えた選民思想がキリスト教の正体で、近代以後は奴隷貿易で工業化に貢献していきます。 中世以降では、別の選民思想にも形をかえ、それがイスラム教を生み出しました。 神と人との上下関係は、ユダヤ教からの歴史のなかでも少ししか形を変えていませんが、 荒くれ者が競い合う蛮勇の地で平和を作り出すための、分かりやすい戒律を設定してあります。 ******************************************** 仏教右派の場合、生物としての生業である繁殖行動に囚われての愛という感情は卑下します。 「愛という判断基準に縛られていては解脱しにくいぜ」と教えます。 「食物連鎖の法則からも自由になっちゃいましょうよ」という野心が解脱であり、、 「生物としての愛」や「生活に便利な道具」は全て「色」と呼んで、それらを欲する心をいさめます。 初期の仏教教団すら、仏陀の死から相当な時間が経ってから現れています。 資金を提供していたのは王族や商人です。 戦乱に明け暮れていた古代インドの地に、社会的秩序を構築することが利益につながるスポンサーです。 ですから、民衆が個人的な欲に溺れていたら、略奪や陵辱の社会は変えられません。 仏教教団の林立と繁栄は、こういう社会事情が背景にあります。 「煩悩」に縛られないで心を平和にしましょう。(荒れた世は政治家や教会が悪いからじゃないんですよ) というのが、当時の仏教教団の方法論だったわけです。 たぶん、仏陀の悟りとは意味が違うと思いますし、そもそも仏陀は他人に説話なんか説いていません。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.5です。 ★ (No.5お礼欄) ~~~ ( a ) 煩悩は具体的に示されていますが原罪は抽象的でいまだに私には理解できないのです。 ( b ) 原罪のないイエスキリストには煩悩はなかったのかと素朴に思うのです。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ この二点について いま少し問い求めてみます。 まづ( a )のほうですが これはあくまで煩悩の核を取り出さねばならないと考えます。 ▼ (ヰキぺ:煩悩) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9 ( c ) 大乗仏教の時代・・・には、煩悩を否定しないというそれまでの仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。 ( d ) 煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ ( d )の《我執 あるいは 愛着・渇愛という意味の愛》 これが 煩悩の核であり 無明のことですが 分かりやすく言えば 生存欲そのものなのだと見ます。 言いかえると 煩悩(無明)を何とかしたいと思えば その思いが煩悩であると言っているのだと思います。 そしてその点では ( c )が《如来蔵》すなわち《仏性》を説いて この仏性が 目覚めに応じてその人の境地として花開き 煩悩をその境地の中に覆い包むと言っているのだと見ます。 ★ ( b ) 原罪のないイエスキリストには煩悩はなかったのかと素朴に思うのです。 ☆ おそらく生存欲としての煩悩は キリスト者は見ないでしょう。あるとも無いとも決めつけず ほうっておくと思います。 もし煩悩があるとしたなら それは 仏性とその境地がみづからの中におさめる(自己経営する)というのと同じように その煩悩をみづからの身と心にやどる神の霊がつつんでいると見るでしょうね。 神の霊につつまれたなら その煩悩は もしあってもそれは 相手との関係においてそのまじわりのあり方に応じて 相手の境地の中の煩悩との感応作用のために善用されるというかたちで おさめられているものと考えます。 神の聖霊は それほどのはたらきを持つとは見ます。 というのも 聖霊のはたらきに俟つことなく むしろ生まれつきの自然本性において――つまり 人間として生まれて来ているその存在そのものにおいて―― 煩悩はおさめられている。こう考えます。仏性とその境地のはたらく以前に 自然本性は 生存欲をよく用いるその力をそなえている。こう見ると思います。 すなわち イエスに煩悩はなかったかという問いは――申し訳ないですが―― キリスト者にとっては どうもよい主題でして 一般に聖霊は 人に《生きよ》と言っていると見ます。イエスに限らず 煩悩はあっても さしつかえない。こう見ます。(つまり たぶんブディズムにおいては 人間としての自虐的な自己分析から 生存欲や渇愛としての煩悩が取り出されたのではないかと見ます)。 どうでしょう?
お礼
ありがとうございます。煩悩(本能、欲望・・・)のとらえ方が仏教とキリスト教では根本的に違うのですね。キリスト教は常に神やイエスキリストを意識して自分をみていますね。それに比べれば何と取るに足らない子羊のような自分ではないかと思わせることによって罪の深さも自覚させようとしているように思われてしかたありません。一方、仏教では、特に禅では自分の内面を見ることに集中して他の存在の介入を許さないような気がします。蛇足ですが、神道では人は神の子だから、罪深いなどといわずに、悪い思いは罪穢れとしてお祓いすればよいというようなおおらかな考えのようですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 教団の示す教義には関心がありません。 1.クリスチャンもブディストも 人間に神の霊もしくは仏性がやどると想定するところは 同じです。 2. ですから 生まれながらにして人はその自然本性において クリスチャンでありブディストであり得るという意味です。 3. 言いかえると一方で 仏性を持つ人間が その存在において 煩悩をも持っているということですし 他方で神の霊をやどす人間が その自然本性において 原罪を〔犯したところの初めの人間の意志行為の結果をあたかも代々相続しつつ〕持つということです。 4. キリスト者が 原罪をその始祖アダムとエワとから引き継いでいるというその結果状態というのは おのれの心にさからって嘘・偽りを表わすことも人間には自由だという意味です。 5. ただし この原罪は キリスト者が神として受け容れているキリストが 人間イエスとしてその張りつけの刑を受けることによってつぐなわれたとされています。 6. 原罪は すでに完全につぐなわれています。と同時に 人間にその意志行為があって これは自由意志のもとに自己表現をするというかたちであり そのような自然本性として人間存在は 成り立っていますが それは もともとの姿です。 7. 原罪は イエス・キリストによって ちゃらにされましたが ウソ・イツワリを言ったりおこなったりする意志自由は 引き続き受け継いで来ています。 8. 煩悩は 無明とも言いますが 何から光が閉ざされているか?――人は そもそも生きること・生きようとすることにおいて その心も知性も暗いのだと言います。 9. 生存欲そのものが 人の生きることについて暗くしているのだと。これが 煩悩です。無明です。先が見えないというわけです。やみくもに行動するほかない状態に陥っているのだし それは 生まれつきなのだと言います。 10. 言いかえるなら 光を得て目覚めた状態(ブッダ)になるのは この無明ないし煩悩としての生存欲から自由になるときだと見ているようです。これを ニルワ゛ーナというようです。 11. 諸行無常としての人間の思惟や行動 それとして生き動き存在するというそのあらゆる行為 これが 無常なることであるのだから 生存欲じたいから人は自由にならなければならない。そうなれば そのことが さとりでありブッダとなることだと言います。 12. 人には仏性がやどるゆえ 誰でもブッダになれる。ということなのでしょう。 13. ★ 例えば異性に対してみだらな思いが起きるということです。 ☆ この《みだらな思い》を 煩悩ないし原罪の余韻だと見なしておられますが まづその当否は別としても この――《みだら》とはどういうことかも然ることながら――《思い》といった行為の基礎に 片や自由意志の自由度の広さがあると見ますし 片やそもそも生存欲があると見ます。 14. 後者は そのような生存欲から自由にならない限り生きようとする《思い》そのことも 煩悩であり無明だと見るのだと考えられます。 15. 《みだら》とはこれこれこういうことだと定義できたとしても そもそもブディストにあっては 生きようとするときの思いや行ないそのものが 無明から出て来た煩悩だと見るはずです。 16. キリスト者にあっては 仮りにミダラという主観的な感覚と思いを持ったとしたら それは かつて自由意志がおのれの心にさからったかたちでその意志内容を想い描き想い描いたことを行為に移したというその行ないの結果がそのあとの生きる過程に尾を引いているのだと見ます。 17. その意味で 心(意志)と身(身におけるミダラという感情)とは一体だと見ます。大きく広く自由意志のもとにあると。 18. そのあとは――キリスト者にあっては―― 身も心も 十字架上のキリスト・イエスにゆだねていますから みづからの自由意志そのものをも ゆだねつつそのつど――相手の存在や意志を自分のそれらよりも一秒は先にとうとび優先させるようにして―― その場や情況にしたがいつつ応じつつ行動すると考えます。 19. つまり 感じや思いや行動が みだらであろうがなかろうが キリストにゆだねたところの自由意志のもとに 相手や情況をおのれの最大限の知恵と能力を発揮しつつ捉え判断し 結論を得つつ 行動します。 20. つまり みだらかどうか 善か悪かの単純なる分け方によって判断し行動するのでは必ずしもなく――というのは 原罪はすでにわれらを捕捉していないのですから―― おのれの主観において 相手の主観とのあいだの間合いを取りつつ 相手も自分も 自由意志のおもむくところを十分に自由に発揮できるような内容を実現させることを目指します。 21. ブディストが 《みだらな思いを抱いた》ときにどうするか? どう判断するのか?――わたしは 知りません。 たとえば 関心がお有りでしたら 次の質疑応答を参照なさってください。 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html
お礼
ありがとうございました。原罪とか煩悩といっても所詮は人間の心の問題だと思えば教団があれこれ言ったことにいちいち賛成したり、反論したりすることもないのでしょうね。千変万化する心の働きをコントロールできないのが人間の弱みですから、それを梃にして信者を獲得しようとしている教団もないとはいえません。煩悩は具体敵に示されていますが原罪は抽象的でいまだに私には理解できないのです。原罪のないイエスキリストには煩悩はなかったのかと素朴に思うのです。
>こういう思いは本能としてとらえればことさら原罪や煩悩といわなくてもいいのではないかという人もいます その通りだと思います。 煩悩も原罪も宗教人にかかわれば非常に深刻な問題なのでしょうが、普通の無宗教人の考えとしては上記の思いは妥当だと思います。 ですから単に知識として原罪、あるいは煩悩をできる限り正確に把握しようとしても無理なのではないかと思いますが、私の知る範囲では下記のように理解しています。 原罪:人間が人間という知恵を持った生物として他に伍して生き(残)るためになさねばならなかった(神から見た)悪事。 煩悩:ひとが努力をして向上しようとしているときに邪魔をする、様々な自身の世事に関する悩み事、欲望など。 ご参考になれば。
お礼
わかりやすいご意見ありがとうございます。個人的な感覚としては原罪は脅迫的で煩悩は自虐的です。原罪でも煩悩でもかまわず人格者を目指せばそういうものがすくなくなるのかなとも思います。実際に人格者をみると完全とは言えなくとも原罪や煩悩から解放されているなと感じることがあります。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
イメージ的なんですが。 原罪てのは客観的な臭いがしますね。 それに対して煩悩てのは主観的な感じが。 対比するのであれば、無明と原罪の方が しっくりくるように思えますが、どうでしょう。 原罪は、人間は元来真っ新で、それがある時リンゴを 食べるなどして、 罪を負った。罪を何とかすれば、元の真っ新に戻れる。 しかし、無明の方は初めから人間に附属するもので 取り去ることなど出来ない、これが原罪と無明の 差異だ、と説明する人がいます。 しかし、仏教でも無明は除去可能で、取り去れば 真っ新になれる、とする教派もあるようです。 キリスト教が日本に根付かないのは、原罪の理解と いうよりも次のような事が原因だと思います。 1,キリスト教の信者になれば救われる? なら先祖は救われないのか。そんな宗教じゃ困る。 これは先祖を想う日本人には馴染まない。 2,神と悪魔? 実際の世の中は、善悪など簡単に割り切れるものじゃ ないだろう。 取った駒を自由に使える日本人の相対感に合わない。 3,「新井白石」談。 神が山川草木天地人総てを創った? なら神は誰が創ったのだ? 神は自ずから存在するとするならば、山川草木天地人 自ずから存在するとして何が問題なのだ。 キリスト教は鉄砲とか形而下学はすごいが、 形而上学は子供みたいだ。 庶民レベルでも学者レベルでも、あまり説得力が無かった からじゃないですか。
お礼
ありがとうございます。新井白石さんのことばは日本人の私にはよくわかります。「あなたは生まれながらにして罪人です」と言われて素直に従う人の気がしれない。ひょっとしたら、そのような素直な人こそ原罪はなくて、私のような疑い深い人は罪人なのではないかとさえ思います。宗教でも信じてまともになってほしい人ほど宗教には縁遠いのも皮肉なものだと思っています。
- cincinnati
- ベストアンサー率46% (606/1293)
私はプロテスタントのクリスチャンでモルモン教、統一教会、エホバの証人とは関係ございません。なぜこのような口上を述べるかと申しますと、プロテスタントの立場は聖書を書き換えたり、追加したりせずに、聖書の記載通りに「信じる」立場をとっていると申し上げたいからです。 >原罪と煩悩はどう違うのですか クリスチャンで仏教のことは学んだことはございませんが、日本文化に色濃く浸透している仏教に関する断片的知識を寄せ集めますと、煩悩とはどうも私どもの欲望にその原因をもつ心の動きのような気がします。その結果自分に悪い結果を招くような心の有り様という気がします。一方クリスチャンとしては広く聖書を読む人々の間で認められていることはアダムとエバが神様の命令を破ったことが最初の人類が犯した罪ということで「原罪」とよばれているということではないかと思います。 アダムとエバの罪の性質はその後の人類に受け継がれてまして、私どもは自然な行動として罪を犯すと言うのが聖書の見解であると思います。しかし聖書はここにとどまらずに人類の罪の問題の解決に(本来の人間の姿を取り戻すための方策の提供に)神様が取り組んだという物語であると思います。 聖書によればアダムとエバは罪を犯したために、神と交わりのある天国のような「エデンの薗」から追放されたとの記載があります。創世記3章20-24)、しかしその罪を赦し神様との関係を回復するためにイエスキリストをこの地上につかわしたという物語が、新約聖書となっています。 >キリスト教が日本に入ってきて100年以上になるのに信者が少ないのは「原罪」が理解できないせいではないかと思うことがあります。キリスト教を信じている方はどのように納得しておられるのでしょうか。 聖書によれば私どもは実は素晴らしい存在で、人のためにその命さえ捨てかねない良い動機を持ち、チャンスがあればなにか人のためにならないかと探し回っていないでしょうか。このような人間像は聖書の記載にも合致しています。 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。 男と女に創造 された。」(創世1・27)「 見よ、それは極めて良かった。」(創世1・31b) ... 「わたし(神)の目にあなたは価高く、貴く」(イザヤ書43:4) 聖書では人の命は全世界を手に入れてもその命を損なったらそれにどんな意味があるのか、人の命は何よりも尊いと述べています。その命とはどんな命かと考えたとき、罪にまみれた、無目的になり、虚無に陥っている命だけを見てはおられないと思います。つまり神さまは人を創造されたとき「極めてよかった」という存在の人間を見ていると思います。 >キリスト教を信じている方はどのように納得しておられるのでしょうか。 普通の生活の中から突然クリスチャンになった経験はおそらくほとんどのクリスチャンにとっても忘れることができない事件だと思います。回答者である私自身もその時何が起こったのかわかりませんでした。つまり歓喜、歓喜、歓喜だったのです。それは地上にあっての天国の体験ではないかと思います。あるいはエデンの薗への回帰ではなかったかと思います。さらに心に去来したことは「人間はなぜこんなに素晴らしい存在なんだろう」という感動でした。それはエデンの薗に神様がアダムとエバを置いた時、神が神の目にあなたは価高く、貴く」と人間の存在を喜ばれたことに符号するように思います。 >人は生まれながらにして罪人だといわれてもいまだに素直になれない私です。 アダムとエバの性質が私どもにも受け継がれておりますので、良いことをしたいと願っても、悪い方に転んでしまう傾向があります。神はイエスキリストを通して神の目から見て罪のないものに私どもをして下さる手段を提供しています。聖書をお読みいただきますと、現下の問題の解決がございます。あるいはお近くの教会の牧師に疑問点をお尋ねいただけましたら、みなさんをお助けするためにその地で教会を開いておりますので、喜んで答えていただけると確信しております。
お礼
ごていねいにありがとうございました。 ところで、原罪といわれてもいまだにわからないのは、「神の命令にそむいた」結果、それが原罪になったのかということです。神にそむくような原因が既にあったからそむいたのではないか。とすれば、神に背く前からそういう種を持っていたとすれば、それこそ生まれながらにもっている原罪ではないか。 それから、それがどうして全人類に受け継がれたのかが解せません。父親が犯罪を犯しても父親一代のことで子供には罪はないのではないでしょうか。人類の祖先と決まってもいないアダムとエバが犯した罪を我々も負っているなんて「冤罪」ではないかとさえ思うのです。
お礼
ありがとうございます。原罪をキリスト教の「神と人間」の完全な上下関係から説明されているのは共感できるところです。上下関係を維持、強化するためには原罪を声高に叫ばなければならないのでしょうね。それに納得できる人だけが真のクリスチャンといえるんでしょうね。煩悩も悪いものだととらえればいやになってしまいますが、未熟な精神状態だと思えば納得いきます。原罪にはそういう前向き(楽天的)な解釈は許さないところがありますね。