世に悪とは存在せず?善のねじ曲がりとは何か

このQ&Aのポイント
  • この世に悪は存在しないという問いについて、善のねじ曲がりが悪であると言える。善は存在し、悪はそれとして善の損傷として現れる現象に過ぎない。
  • 悪は心のへそ曲がりに発し、ウソやいつわりのことと言われる。一方、善は個人ごとに主観的に決まる心のあり方であり、悪は善のひねくれやねじ曲がりでありそれがくせとなると善が損傷を受ける。
  • 悪は他のものから独立して存在するのではなく、善が減少していくにつれて現れるものと捉えられる。善としての心の本性が減り、それを悪と呼ぶ。したがって、悪は存在せず、善が減った状態の名前で呼ばれる現象に過ぎない。
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この世に 悪は 存在しない。

 ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.22

こんばんはです。 ☆☆☆ ☆(a)悪は存在しない。 「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」 ということになるのでは、というのが率直な疑問です。 どちらも、人間がその都度その都度こしらえてきた価値観に従い、ある現象を〈善〉と呼び、それに相反する現象を〈悪〉と名づけているのではないでしょうか。この世に、あるいはこの世を離れたところに、真理界や叡智界というものがあるのならば話は別でしょうが、この現象的世界に絶対的な善や普遍的善などはありえず、善悪ともに相対的なものでしょう。ある社会で善と考えられているものが、別の社会では悪とされることもよくあります。時代によっても、善の内容は変化します。むしろ、善悪は文化・社会などによって異なる相対的で、多極的なものという捉え方は駄目ですかね。 また、 善性の欠如、もしくは善性をねじ曲げることをもって悪を定義するのならば、同様に、 〈悪性〉の欠如や、〈悪性〉をねじ曲げることをもって「善を定義する」ことも可能になるのは。 bragelonneさんの論法をしたがうのならば、 (a’) 〈善〉は存在しない。 (b’) 主観としての〈悪〉をねじ曲げ傷つけることが、〈善〉である。 (c’) すなわち 〈悪〉は それとして存在するが 〈善〉はその〈悪〉の損傷としてこれをひとことで〈善〉と呼ぶ現象があるのみだ。 となりはしませんか。 人間という不完全な存在を考えた場合、むしろ〈善〉より〈悪〉を実在視し、そこから哲学を組み立てるべきなのでは、などとも思っています。 〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉を善悪の判断基準とするのならば、〈悪〉を実在視する方が、理にかなっているようにも思うのですが。 ☆☆☆ ☆ ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。 ◇〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉という心理的現象に善悪の根拠を置いているようですが、 bragelonneさんは、 そうした感情をいだくために、人間には本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力が備わっていることを前提としているように思います。 はたして、人間にそのような能力が生得的に備わっているのかどうか、僕はかなり懐疑的です。 そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。 そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。 そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、 ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。 また、僕は、理性や悟性といったものは、道具的なものだと考えています。 理性や悟性といったものは、自己利益の追求のためにつかう道具的なものという意味です。したがって理性や悟性そのものには価値はない、というのは極論ですが、便利な道具、その程度のものでしょう。 そして、人間は、生物学的な進化の中で、そうした理性や悟性と言われるものを身につけ、いわゆる動物とは別な存在になった。 しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。 ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。 この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。 ☆☆☆ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。 (そのどちらもふくめているのかしら?) 〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか? 老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。 で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。 だとしたら、今回の質問の背景にある思想は、キリスト教ではなく、日本・中国などにみられる自然(じねん)の思想が背景ということになるのでしょうかねぇ~。 だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  いそがしくなってまいりました。夕飯と夕刊を済ましました。  ★ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。  ☆ なるほど。これらの言葉について深く規定し終えてはいませんでした。  ★ 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。  ☆ ただしこれは 語源辞典をしらべたのですが どちらも《あざむく・だます》を共通としているようですが ご説明願いますか? 違いについてです。  ★ ~~~~  〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか?  老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。  で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。  ・・・  だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ なるほど。そういう筋もあるのですか。ゆえに 大道廃れて仁義ありになるわけですね。  困りましたね。  ええ。分かりました。次のような方針を明らかにします。  ○ (ここでの問い求めの方針) ~~~~~  1. ここでの善悪論は あくまで実践論である。少々理論の不備があっても 実践に役立つことを旨とする。  2. 主観を基礎とし理論としてもそこから出発するかたちを取っていますが それは 必ずしも《心理》の問題を重んじて扱うことではありません。そうではなく 言うなれば むしろ《生理》です。  3. 広く生理として人には 《顔を赤らめる・動悸がはげしくなる・言葉がしどろもどろになる》といった反応があります。ここに少しく《心理ないし倫理》を含めて そのとき《やましさ・うしろめたさ》をも感じるとする。とすると それはおおむね《うそ・いつわり》という自己表現にかかわっているはずだという見方をする。  4. 《やましさ》でこれらの生理的心理的反応を代表させるなら この疾しさを持つということは 《しかるべき心の状態・また立ち帰るべき心の状態》から背き離れる心のウゴキである。と見る。  5. 《しかるべき心の状態〔とおのが心が思っているそれ〕》を《善》とよぶべき自然本性のあり方と規定する。したがって この善に背き離れる動きは 負の善であり ひとことで《悪》と呼ぶ。  6. このような定義から 次の命題をみちびく。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~  ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) ★ ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。  ☆ 性善説 その孟子版については かなりここでの善悪論は違っていることに気づきました。No.21お礼欄をごらんください。  (あ) すでに表現が外に出てしまっている状態について 相手との関係において 善悪を規定する傾向が 孟子にある。こちらにない。《悪は人の外に存在する》とまで言っているそうです。こちらは《存在しない》と言っています。  (い) やはり外に出た表現行為とその人間関係について見て 善悪を規定しようとする。人間の性は善だという説は 《善の兆し》が先天的にそなわっているからだと言う。たとえば 《惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)》だと。  でもこの兆しないし傾向は おそらく主観〔という動態〕における生理的心理的な反応をめぐって立ち帰るべき状態があると見たり その状態から離れようとする別種の反応が観察されたりすることなどから 《善》なる自然本性が捉えられるという原点があるから そう言えることではないか?  その善から 自己背反としてのような悪という現象が現われる。と捉えるかたちを ここでは採る。       *  (8) ★ この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。  ☆ キリスト教・つまりオシエないし宗教は 知りません。嫌うという意味です。アウグスティヌスに――自分の解釈をとおして――拠っています。  (9) ★ ~~~~~~~~  しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《根源》は――実践論であるゆえ―― あつかわない。という方針です。  (10) ★ ~~~~~~~~  本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力・・・  そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった過程そのものについての議論は 差し支えないかぎりで 扱いません。  (11) ★ ~~~~~~~~~~~  そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 能力が先天的か後天的か あるいはウソ・イツワリをめぐる感覚反応が快不快という判定の仕方によるべきか あるいは有利不利かによるべきかなどなど これらは 出来る限り扱いません。  主観が何を最終的にもとめているか。ねがっているか。立ち帰りたいと思っているその場は なにか。これによって判断し あとはそのしかるべき場ないし状態を善ととらえ それにさらかうウゴキと状態を悪とよぶ。これのみで 話をすすめるという方針です。  (12) そうしておくなら   ★ ~~~~~~~~  そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、  ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった別様の理論に対しても 同等の位置を持ち得る。こう見ます。  わづかに 質問趣旨のほうが 有益だと思われるのは 主観がただちに善悪の判断が分かるかたちを取っているそのことです。  (13) ★ ~~~~~~~~~~~   ☆(a)悪は存在しない。  「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」  ということになるのでは、というのが率直な疑問です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この反論についても 主観が何をもとめているか ここに焦点を当てるかたちで なお持ちこたえ得て行くものと考えます。上のご見解は あまりにも《客観的》すぎましょう。実践論を構成しがたい。と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  とりあえず このあたりでひとまづとします。もし取りこぼした論点などありましたら 申し訳ないですが そのとき考えます。  

その他の回答 (133)

noname#161051
noname#161051
回答No.104

分かり易い言い方があったので書きます。 (A)「ウソ・偽り発言をして、やましい気持ちになった、そのやましさ反応は基の善の損傷によって発生する現象である故に悪は存在しない」 (B)「ウソ・偽り発言をして、やましい気持ちになった、そのやましさ反応は基の善の損傷によって発生する現象である故に悪は存在する」 この(A)と(B)はどのように違うのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 (B)は 《悪》の定義がさだまっていません。  (A)もそうですが 《ゆえに悪は存在しない》という部分の前の文には 悪は触れられていないので そのように《故に悪は存在しない》と言っても かまわない。定義が分からなくても 悪が善の対義語だということまでは分かっていると考えられるから。  ただし 文(判断)としては おかしな意味内容となる。

noname#161051
noname#161051
回答No.103

 どうでもいいんですけどまず私の回答に対して何か書いていただかないと『自分の理論の問題点を認めるがそれは認めたくない』という子供じみた自尊心としか見えませんよ >はこぶるさんとのやり取りを見て あらためて考えてみるのも よいかも知れませんね。>  はあ・・見てみましたが私と同じような『意味不明』という言語がでてますし、『土台が砂だ』とかも書いてありますね、まあそりゃそう思うだろうなと思いますよ?ご自身はまず回答者の補足質問にまともに答えず。間違えたなら『間違えた』、他の見解を理解したなら『理解した』、反証するなら補足質問から逃げない反証をなぜしないのですか? >結果を保証することは できかねますが。> いやまったくできてませんね。 >理論――と言いますか たんなる作業仮説ですが――の決定的な不備をつくことが 大事です。> 散々ついてきましたが、決め手となるような反証を書かれていない故に支離滅裂と言っているんです。  >箸やペンを右手で持つか左手で持つかは その人がそのことを頭の中に想い描いても ことさらやましさ反応が現われるわけではありません。 と言いますか この点はもう少し微妙であって あとで考えると いまそのような結論に達しますが その前の段階では いろんな考え悩む過程を経ることもあります。 親が 右手で箸を持ちなさいと命じる場合もありましょうし 社会の中では 左利きであることが いくらか奇異に見られることも時にはあるからです。 でもこの問題は いくら考えても 右左の選択に合理的な是非ないし善悪の判定がくだされるとは思えません。たとえば これが《善でも悪でもない》場合の例です。> <ですが このような場合の例は いまこの問い求めにとって 肝心要の問題だとは思えません。> 相当重要だと考えますよ。その問題に大してもし『もし』ですよ嫌悪感や罪悪感を感じたとした場合、ご自身の場合良心の損傷つまりご自身の言う『基の善の損傷』が引き金になっていると考えるわけですよね?それは否定しませんが、それに対して罪「悪」感、嫌「悪」感に置ける《悪》が脳の反応つまり生理的反応として何故《存在》するのかと聞いているわけです。 >少々不備でもかまわないわけです。> 不備だとその命題における哲学的解釈は得られないと思いますよ。「自分の理論賛同させよう的質問」になってるようにしか見えません。 >《悪は 存在しない》という命題を得るのに解いておかねばならない課題だとも思えません。>  そんな事はないと思います。「悪が存在しない」というのはそういう考えもあるからそう見たほうが良いという意味で書かれたのであれば哲学とは言えません。哲学はもう少し真実味を帯びた内容を議論するものであって、賛成反対を問うものではありません。(まあちなみに私はあなたの考えに賛成ですが) >つまり この作業仮説は どこが弱いか? どこが 理論として不備であるか? こういう視点で取り組んでみてください> だから取り組んでいるじゃないですか・・・相当追い詰められているんですかね?完全に支離滅裂です。  この作業仮説の弱いところを言えば定義論です。前々から例題を出していますが、ご自身の主張は「『車は存在しない』あるのは物質で作りあげれた動的乗り物であり、そこから派生したのが『車』という概念であって、ただそうやって呼んでいるだけだ」と言っているのと内容は違いますが意味は一緒です。それに対して私は「その通りだと思う否定する余地は無い」と思っています。しかし「それはちょっと見方を物質もしくは物理論を基準にした見方であって決して間違えてはませんが多少違和感がある」と言っている訳でして、それを説明反証してきてるわけです。それに意味不明な回答をするというのが子供の自尊レベルだといっているのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 散々ついてきましたが、決め手となるような反証を書かれていない故に支離滅裂と言っているんです。 ☆ これは そっくりお返しします。   ○ ウソ・イツワリ  これに戻ってください。やましさ反応という言い方で代表させて来ましたが そうですね     ○ 生理的心理的なウソ・イツワリにかかわるやましさ反応  こう言うようにしましょう。  というのは やましさという言い方では部分的にピンと来ない場合があるようです。  ウソ・イツワリと言えば そのウソをつくということを本人は知っているというおよそ普遍的な事実があるからです。    やましさ反応は このウソから来る。こう捉えてください。  そうすると 話が分かりやすい。  たとえば右利きか左利きかの例を出した《善でも悪でもない》というばあい それは どっち利きであっても 《ウソはない》ということです。  ただし だから善だとも言えない。いえ 右でも左でもどちらも善だと言えば それでもいいわけです。おそらくその場合は 右利きであることが どうして善であるなどと言うのか? 何で善悪の見方で それを捉えるのか? というツッコミが返って来ましょう。面倒だから 《善でも悪でもない》場合もあると言っておいたわけです。それだけのことです。  その点でもう少し話を延ばすなら こうです。  自然本性に じつは ウソをつくという片向きはあるわけです。  片向きが出て来る素地は あるわけです。善とも呼ぶべき基礎においてもそのクセを持とうとするような片向きはあるわけです。  クリナメンと言うのかどうなのか知りませんが 自然本性もそして精神も人間という存在も かなしいかな 移ろいゆくものであり朽ちてしまうものです。そのような状態から 生きることという基礎・基本の中からも それに逆らうような片向きが出て来ます。  しかもその片向きをさらに欲する意志さえもが現われます。  この段階になると ウソとなります。心に逆らうウゴキです。やましさ反応をともなう意志の――負の志向性です。  ここが ややこしいのですが――というよりは 本質論=存在論として本格的な哲学の議論をしなければならないところですが―― ヒトと生まれてその自然本性の中には 何ごとも永遠不変のものはなく 朽ちて行く性質であるところへ持って来て その移ろいゆくこと自体を好くという性向もあるらしい。  この朽ちるということを好んで積極的に欲するというウゴキも現われるらしい。  この生きることに対する負のウゴキは 意志も精神も それは負でありウソだと知っている。  しかもこのウソを欲する心の動きさえ現われる。  移ろいゆくこと・朽ちること このこと自体は 生きることに対して負ではあるが 自然本性のふつうのあり方だとすれば わるいことではないであろう。言いかえると 生きることが よいことだとすれば それに逆らうことは よくないこと すなわち わるいことである。そうであるが 生まれて来た者が その生をまっとうしてやがて去って行くことに それ自体として《よくないこと・わるいこと》はない。  けれども よくないことを積極的にわざとそのおのが意志によって選択し欲すること これは 積極的にわるいことである。と自然本性は 知っている。  それは イツワリにおいてウソをつくことから始まるのではないか。その意味で ウソは 負のよいこと・つまり負の善・つまり悪である。というときには ウソをつくときに やましさ反応が伴なわれているとおのれが知っているからそう名づけるのである。  生きることを善とすれば 悪はその善に逆らっておのれの意志によってさえ起こされ現われる。のであるが その悪というもの自体が どこかに初めにあって 出て来るのではない。それが現われるのは 善の損傷行為としてである。善が存在しなければ 悪は現象することはない。なぜなら ウソに始まるからである。ウソという反抗性のもの・負のものは 初めにそれとして存在するもの・いわば正のものがなければ 現象しないから。

noname#161051
noname#161051
回答No.102

>☆ 胸騒ぎをおぼえるなどのやましさ反応が 一般に ひとにはある。自分の意志が しかも自分の心にさからう選択をすると その反応が起こる。  このことの一般性だけで勝負ということです。  誰もが《悪と思う》というよりは その反応があると 実質的に《善の損傷》であると捉え――なぜなら 要するにウソ・イツワリだということです―― これを《悪》と呼ぶ。ということ。これが 仮説の中身です。>  <誰もが《悪と思う》というよりは・・・>という事は「誰もが悪と思うかどうかわからないが」と同義ということですね。  <その反応があると 実質的に《善の損傷》であると捉え――なぜなら 要するにウソ・イツワリだということです(A)―― これを《悪》と呼ぶ>とすると「Aは物理的な現象であるが―これを《悪》と呼ぶ」と言ってるのと同義ですよね?そうするとこの視点というか基準は『「物理的な現象だけだ」という事を誇張して《悪》と呼んでるだけだ』と言いたいわけですよね?まあその基準からしてみれば正しい発言だと思います。 >☆ それが 生まれつきの心のあり方であろうと思うからです。  自然本性として ふつうのあり方であろうと。  その認識を持つことが 目的です。> その認識をご自身が持っているのになんで質問したんですか? >★ bragelonneさんの理論の逆を言えば「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさ反応と呼んでいるだけだ」とも言えますよね?  ☆ 順序がぎゃくでしょう。生理的反応は 事実の問題です。悪と呼ぶのは 言葉の使い方の問題です。善の損傷という認識ないし自覚が それらをつなぎます。> >順序がぎゃくでしょう。>  だから逆に言えばと言っているのに・・・なんで激情するんだか・・・ >生理的反応は 事実の問題です。>  そりゃそうだ。じゃあ言い方を変えましょう。「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさと呼んでいるだけだ」というのは? >悪と呼ぶのは 言葉の使い方の問題です。> まったくその通りですが >善の損傷という認識ないし自覚が それらをつなぎます。> つないでしまうなら《悪》が派生する可能性を肯定している事にまりませんか? >★ もしそうでないならbragelonneさんの定義の押し付けになりませんか?  ☆ あたらしい定義は つねにそうです。>  あたらしい定義は哲学的には常に議論され精査されていくものです。それを放棄して『俺の定義だからそれは覆らん』と端っから固めてしまう行為というのがbragelonneさんの定義の押し付けではありませんか?と言っています。 >★ なので普通に生きる事に背く=悪とは限らないのではないかと前々から言っているわけですが、なぜそこは認められないんですか?  ☆ 主観におけるやましさ反応を基準にして定義をするというのみです。> <あるいは 生きること=ふつうに生きることとしての心に背くという意志 これがあります。これも 善の損傷です。>と言っていて<やましさ反応=善の損傷の一部>と定義してるんだから<主観におけるやましさ反応を基準にして>話を進めています。なんでそのような支離滅裂な表現をするのですか?  ということで<ひとつの思惟や行動の結果 あらたに善あるいは悪が生じたというのは 定義とは別の話>にならないでしょう。 <その結果としの状態を捉えて その人がどう思うかが その話の中身となります。>ならbragelonneさんがどう思うかの話の中で議論されるのはおかしいでしょう。 <やましさ反応を起こさなければ 広く取って 善でしょう。>広く取って悪くないということなんじゃない。 >★ ~~~~~~  前々から補足要求してますがなんで自然本性のよき心根に反することが必ずしも悪とはならないんではないかと思います。相当たる自信もありますし、証明もしてきましたから「反証してみろ」とは言わないで下さい面倒くさいだけです。  ~~~~~~  ☆ こういう対応が出て来るのなら もうやめましょう。>  自分は私の質問に<あなたとのやり取りを 初めから 読み直してみてください。ぜんぶ答えています。>と唾を吐き捨てるように答えておいて<こういう対応が出て来るのなら もうやめましょう。>は無いでしょう。反証してますから見てくださいよ。 >あとは 見ていません。> 見てくださいまた支離滅裂な発言されちゃたまりませんからね。 >★ ~~~~~~~~  今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~  ☆ 《人間以前の状態にある人間》のことでしょう?  そういう人間は 《早く死にたい》と言っているということでしょうね。あるいは すでに死んでいるということなのでしょう。  そのような状態あるいは意志のあり方 これらを自分の考えにおいて 自由に貶(けな)してよいと思います。けなすことを 否定してはいません。>  ちょっと意味が分かりませんでしたが別にその行いを行った人の対処法を聞いているわけではなくて、そのような行為なども悪意があったり、悪行となっていいたりするのではないでしょうか?(無論現象学や物理学の視点で言っている訳では在りません。ここは重々言っておきますが違いますよ) >そのことと 善悪観がどうなっているかとは 別の切り口になります。>  ならないと思います。それを加害者側は悪意が出たと感じるでしょうし、被害者側は悪意を感じる人がいると思いますがそれを加害者からしてみれば『虐めて楽しい』とか『殺人はスリルがあって残酷で面白い』と感じる人もいるでしょう。被害者(もしくは被害者に共感する)側からしてみれば『最低な行為』『残酷な行為』『卑怯極まりない連中』『異常者』などと捉える人もいるわけでその一部に『悪意』『悪行』と捉える人も居るのではないかという話です。そうなると『悪行』や『悪意』などが派生したという風に主観もしくは他の共感できる人などは感じてもおかしくないわけだから主観性や共感性の観点で行けば『悪行が行われた』と捉える事が出来るのではないでしょうか?それを『無い』と断定するのは見解が足りないのではないでしょうか?と言っているわけです。つまりご自身の視点は現象学物理学を中心に絶対軸にしているので『無い』となっているのではないでしょうか?(無論それを否定している訳ではありません)と説いています。

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさんとのやり取りを見て あらためて考えてみるのも よいかも知れませんね。  結果を保証することは できかねますが。  理論――と言いますか たんなる作業仮説ですが――の決定的な不備をつくことが 大事です。    箸やペンを右手で持つか左手で持つかは その人がそのことを頭の中に想い描いても ことさらやましさ反応が現われるわけではありません。  と言いますか この点はもう少し微妙であって あとで考えると いまそのような結論に達しますが その前の段階では いろんな考え悩む過程を経ることもあります。  親が 右手で箸を持ちなさいと命じる場合もありましょうし 社会の中では 左利きであることが いくらか奇異に見られることも時にはあるからです。  でもこの問題は いくら考えても 右左の選択に合理的な是非ないし善悪の判定がくだされるとは思えません。  たとえば これが《善でも悪でもない》場合の例です。  ですが このような場合の例は いまこの問い求めにとって 肝心要の問題だとは思えません。少々不備でもかまわないわけです。  《悪は 存在しない》という命題を得るのに解いておかねばならない課題だとも思えません。  つまり この作業仮説は どこが弱いか? どこが 理論として不備であるか? こういう視点で取り組んでみてください。

回答No.101
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。善悪観を問い求めるというとき ここでは   ★ 徳積み  ☆ という概念は かかわっているようで まったく関係ないです。  もしかかわらせようと思えば こういうふうです。  ふつうに自然本性のあり方としての心にしたがって生きるとき 世のシガラミの中にあって その中身――つまり一般に善のおこないもあれば悪のそれもあって過程として成り立っているその中身――を自分もその身に浴びているが そして心においてもその中身のうちの特に社会力学上きわめて有力なむしろ悪の部分に対して 屈せざるを得ないときがあるのだが   そのようであるのだが それでも ふつうの心のあり方に沿って――ということは 悪を受け留めつつそれに従わざるを得ない場合も経験しつつ しかもその悪の部分をおのれの心の海の中におさめつつ海の全体としては ふつうの自然本性にしたがって――生きつつあるとき  そうであるとき 何ならその行き方を《徳のある心》だと言うとすればよいでしょう。    それを《積もう》としておこなっているわけではありません。   まして 《コスト》を考えることはありません。  一階も二階も 同じです。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.100

#98です。 > ★ ~~~~~  「たしかにあるもの」に焦点を当てないことによって得られる「>《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になることが目的、というわけですか。  達成されると、どんな良いことがあるのかわかりませんが、仮に(良いことが)あったとして、「たしかにあるもの」がある以上、いつかはそれに焦点が当たるわけです。  いわしの頭でも信心できればそのことで幸せになる人がいるとは思いますが、いわしの頭の出所は問うな、あるいは、問わないという立場での論議である、ということですね。  ~~~~~~~~  ☆ ひとつの例示によって 反証すれば それで済むことです。くだくだと言うべきことではありません。 : 言い訳が通用しなくなると、こうした居直りセリフを吐く、というパターンが常態化しているようですね。 まあ、それもいいでしょうが、そうおっしゃる以上、先に「《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になると、どんな良いことがあるのか証明するのが質問者としてのマナーでしょう。 > 《善でも悪でもないこと》は 《悪ではない》ことがはっきりしています。だから 《悪は 存在しない》という命題にことさらかかわるものではありません。 : それはわかりました。 ただ、この論理の場合、《善ではない》ことは、なぜはっきりしていないのかが不思議だというだけの話です。まあ、どのように考えようと人の勝手ですから、もう説明は不要ですが。 一連のこうした論理に対して「げげげ」と返しても良かったのですが、エチケットとして、 「 見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。」と言ったわけです。 ですから、至極適切、且つ紳士的な対応であって、 > ☆ こんなことを言うために わざわざ 回答を一件ものしたのですか。げげげ。 : の「こんなこと」というのは、日本語の使い方を誤っていることになるでしょう。 いずれにしても、きりが無いので今回はこのへんで。   

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~  エチケットとして、  「 見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。」と言ったわけです。  ~~~~~~  ☆ このやり取りは どうやら見解の相違に互いに合意するというところまで来たようだ ここらへんで互いにおけるそれぞれあらたな見解の進展を俟つというかたちで ひとまづ終えましょう――というのが エチケットです。

noname#161051
noname#161051
回答No.99

 3回もとちってしまいましたがそれはさておき。お礼に書かれている内容に対しての個人的な見解です。 >《やましさ反応》に着目して それがないのが善 あるのが善の損傷すなわち悪 というふうに仮説した。ということです。したがって 初めから終わりまでぜんぶ仮説です。> bragelonneさんのということですね。 >仮説が 一般に当てはまり そう捉えることに不都合がなければ ひとつの理論として持つことが出来るのではないか。>  これも微妙ですよ。動揺とかそのような心の動きを『悪』と一般人が思っているというわけですか?そう思う場合とそう思わない場合があると思いますよ?まあ統計を取らなければ分からない話ですし、ここは私が感知するところではありません。 >いえ 理論というより 《悪は 存在しない》というひとつの認識 これを得ることができればよしとします。それが 常識になれば それで万々歳です。> なんで常識にしたいんですか?なにが目的なのですか? >《悪は 存在しない》というひとつの認識>  まあそのような認識は現象学や物理学の視点でいけばそういう事になりますが、主観から見た場合必ずしもそうならないのではないかというのが私の主張です。 >悪意は 意志のそれとしてのあり方です。  つまりそれとしての意志による選択が 悪意であり その選択つまり悪意を実行しようとするときに やましさ反応が出ます。よってその思いないし行為は 悪と呼ぶ。>  逆に言えば「悪と言う行為はやましさ反応がでます。よってその悪ないし悪意もしくは悪行はやましさ反応と呼ぶ」と表現できますよね?bragelonneさんの理論の逆を言えば「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさ反応と呼んでいるだけだ」とも言えますよね? >つまり 《悪》の定義のほうに焦点をあてているということです。悪意も関連しています。>  悪の定義とすればwikiでは『悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。』です。また『日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と称されている。鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。元々は「悪源太義平」にみられる「突出した」の意をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である』と書いてあります。《定義》というのがご自身の勝手な《定義》であるならそれはbragelonneさんの主観的感性が入らざるえないです。それを《定義》とした場合私も含め他の人が《悪》の定義をした場合、それも正しいという事になりませんか?もしそうでないならbragelonneさんの定義の押し付けになりませんか? >ただし 《悪意》が 別様にあるということではないと考えます。やはりあるのは 《善の損傷》という内容です。>  これも以前述べましたが《善の損傷》のみ(「>別様にあるということではない>」と述べているので)が《悪》であるとbragelonneさんが突き通しているだけであり議論や質疑応答になっていないと考えます。 >あるいは 生きること=ふつうに生きることとしての心に背くという意志 これがあります。これも 善の損傷です。これが 悪であり 意志の発動に焦点をあてれば 悪意となります。>  では「普通に生きる事に背いたが故に善になったもしくは悪でなくなった、という現象もありえるのではないかと反証できるわけです。」なので普通に生きる事に背く=悪とは限らないのではないかと前々から言っているわけですが、なぜそこは認められないんですか? >☆ このやましさ反応による善悪の定義なる仮説を提出しているのは わたしです。悪と名づけたことが 一般に人びとによっても受け容れられるかどうか それは いまこうして吟味・検証しています。>  吟味・検証しているということは以前のbragelonneさん反応にしてみると変化しましたね >やましさ反応としての生理現象が起きるなら それを引き起こした意志の発動は 自然本性のよき心根に反することだと捉えるから 善の損傷であり 名づけて悪である。と言っています。微妙に順序がちがうように思います。>  前々から補足要求してますがなんで自然本性のよき心根に反することが必ずしも悪とはならないんではないかと思います。相当たる自信もありますし、証明もしてきましたから「反証してみろ」とは言わないで下さい面倒くさいだけです。 >★ ~~~~~~~~  今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~  ☆ 《人間以前の状態にある人間》のことでしょう?  そういう人間は 《早く死にたい》と言っているということでしょうね。あるいは すでに死んでいるということなのでしょう。  そのような状態あるいは意志のあり方 これらを自分の考えにおいて 自由に貶(けな)してよいと思います。けなすことを 否定してはいません。>  ちょっと意味が分かりませんでしたが別にその行いを行った人の対処法を聞いているわけではなくて、そのような行為なども悪意があったり、悪行となっていいたりするのではないでしょうか?(無論現象学や物理学の視点で言っている訳では在りません。ここは重々言っておきますが違いますよ) >そのことと 善悪観がどうなっているかとは 別の切り口になります。>  ならないと思います。それを加害者側は悪意が出たと感じるでしょうし、被害者側は悪意を感じる人がいると思いますがそれを加害者からしてみれば『虐めて楽しい』とか『殺人はスリルがあって残酷で面白い』と感じる人もいるでしょう。被害者(もしくは被害者に共感する)側からしてみれば『最低な行為』『残酷な行為』『卑怯極まりない連中』『異常者』などと捉える人もいるわけでその一部に『悪意』『悪行』と捉える人も居るのではないかという話です。そうなると『悪行』や『悪意』などが派生したという風に主観もしくは他の共感できる人などは感じてもおかしくないわけだから主観性や共感性の観点で行けば『悪行が行われた』と捉える事が出来るのではないでしょうか?それを『無い』と断定するのは見解が足りないのではないでしょうか?と言っているわけです。つまりご自身の視点は現象学物理学を中心に絶対軸にしているので『無い』となっているのではないでしょうか?(無論それを否定している訳ではありません)と説いています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ これも微妙ですよ。動揺とかそのような心の動きを『悪』と一般人が思っているというわけですか?そう思う場合とそう思わない場合があると思いますよ?まあ統計を取らなければ分からない話ですし、ここは私が感知するところではありません。  ☆ 胸騒ぎをおぼえるなどのやましさ反応が 一般に ひとにはある。自分の意志が しかも自分の心にさからう選択をすると その反応が起こる。  このことの一般性だけで勝負ということです。  誰もが《悪と思う》というよりは その反応があると 実質的に《善の損傷》であると捉え――なぜなら 要するにウソ・イツワリだということです―― これを《悪》と呼ぶ。ということ。これが 仮説の中身です。  ★ ~~~~~  >いえ 理論というより 《悪は 存在しない》というひとつの認識 これを得ることができればよしとします。それが 常識になれば それで万々歳です。>  なんで常識にしたいんですか?なにが目的なのですか?  ~~~~~~~  ☆ それが 生まれつきの心のあり方であろうと思うからです。  自然本性として ふつうのあり方であろうと。  その認識を持つことが 目的です。(この問い求めとしては)。  ★ bragelonneさんの理論の逆を言えば「悪もしくは悪行があるだけで、それをやましさ反応と呼んでいるだけだ」とも言えますよね?  ☆ 順序がぎゃくでしょう。生理的反応は 事実の問題です。悪と呼ぶのは 言葉の使い方の問題です。善の損傷という認識ないし自覚が それらをつなぎます。  ★ もしそうでないならbragelonneさんの定義の押し付けになりませんか?  ☆ あたらしい定義は つねにそうです。  ★ なので普通に生きる事に背く=悪とは限らないのではないかと前々から言っているわけですが、なぜそこは認められないんですか?  ☆ 主観におけるやましさ反応を基準にして定義をするというのみです。  ひとつの思惟や行動の結果 あらたに善あるいは悪が生じたというのは 定義とは別の話です。その結果としての状態を捉えて その人がどう思うかが その話の中身となります。やましさ反応を起こさなければ 広く取って 善でしょう。  ★ ~~~~~~  前々から補足要求してますがなんで自然本性のよき心根に反することが必ずしも悪とはならないんではないかと思います。相当たる自信もありますし、証明もしてきましたから「反証してみろ」とは言わないで下さい面倒くさいだけです。  ~~~~~~  ☆ こういう対応が出て来るのなら もうやめましょう。  あとは 見ていません。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.98

#93です。 瑣末なことにはいちいち反応しないでおきますが。 > ☆ ひとつの目的は 《悪は存在しない》という認識が 人びとの常識になることです。  ですから 《善でも悪でもないこと》という部分は――たしかにありますが―― 焦点を当てていないと捉えてください。 : 「たしかにあるもの」に焦点を当てないことによって得られる「>《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になることが目的、というわけですか。 達成されると、どんな良いことがあるのかわかりませんが、仮に(良いことが)あったとして、「たしかにあるもの」がある以上、いつかはそれに焦点が当たるわけです。 いわしの頭でも信心できればそのことで幸せになる人がいるとは思いますが、いわしの頭の出所は問うな、あるいは、問わないという立場での論議である、ということですね。 > ★ 現状を追随分析して、それでお終いですか?  ☆ そのとおりです。用を足すからです。 : 見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。   

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 瑣末なことにはいちいち反応しないでおきますが。  ☆ これは     ○ 瑣末なことは この際 議論として捨てますが  とでも表わすべきでしょうね。エチケットとして。そのように書かないと もったいぶっているかたちです。いくらでも反論があるんだぞと言っていることになります。  あるんなら 書けばいいではないか。と言いたくなります。  あなたは 心理学が専門ぢゃなかった?  ★ ~~~~~  「たしかにあるもの」に焦点を当てないことによって得られる「>《悪は存在しない》という認識」が人びとの常識になることが目的、というわけですか。  達成されると、どんな良いことがあるのかわかりませんが、仮に(良いことが)あったとして、「たしかにあるもの」がある以上、いつかはそれに焦点が当たるわけです。  いわしの頭でも信心できればそのことで幸せになる人がいるとは思いますが、いわしの頭の出所は問うな、あるいは、問わないという立場での論議である、ということですね。  ~~~~~~~~  ☆ ひとつの例示によって 反証すれば それで済むことです。くだくだと言うべきことではありません。  《善でも悪でもないこと》は 《悪ではない》ことがはっきりしています。だから 《悪は 存在しない》という命題にことさらかかわるものではありません。  ★ ~~~~~~  > ★ 現状を追随分析して、それでお終いですか?  ☆ そのとおりです。用を足すからです。  :  見解の相違がはっきりしたようですのでめでたしめでたし、ですね。  ~~~~~~~  ☆ こんなことを言うために わざわざ 回答を一件ものしたのですか。げげげ。  

noname#161051
noname#161051
回答No.97

no.96です。たびたびすみません。上文変になったので書き直します。 >★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?  ☆ ここで   ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで  ☆ の部分が 違います。  ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。  ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>  それはまったくもってその通りだと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないものなら『悪』という表現を使うのですか? >★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?  ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>  その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか? >すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?  善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。   けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。>  「>あらたな別の存在が現われるわけではありません。」というのならそれで結構ですが、それでなぜ悪意が現れるのですか? >悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。  善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>  ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷により引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?  ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」とか「酷い行為」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような意図があるのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ それでなぜ悪意が現れるのですか?  ☆ 光も曲がると知ってしまったから? というわけでもないかな。

noname#161051
noname#161051
回答No.96

すみませんno95の回答途中編集かさなったので書き直します。 >★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?  ☆ ここで   ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで  ☆ の部分が 違います。  ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。  ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>  それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないとものなら『悪』という表現を使うのですか? >★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?  ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>  その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか? >あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。  そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。   これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。>  現象というのがわからないのですがこれが心理現象である筈です。それを悪意が見られたという表現をするわけですか? >すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?  善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。   けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。>  「>あらたな別の存在が現われるわけではありません。」というのならそれで結構ですがなぜ悪意が現れるのですか? >悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。  善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>  ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷による引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?  ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」とか「酷い行為」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを悪意と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が悪意とか悪行とかそういうのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような意図があるのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 おおむね お応えしていると思います。  その項目じたいを取り上げていないところがありますが 悪意だとか 現象だとかの説明としては ほかの項目についてのお応えで 説明していると思います。

noname#161051
noname#161051
回答No.95

>★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?  ☆ ここで   ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで  ☆ の部分が 違います。  ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。  ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>  それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないものならなぜ『悪』という表現を使うのですか? >★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?  ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>  その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか? >あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。  そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。   これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。>  現象というのがわからないのですが悪意というのは 心理現象+物理的現象 である筈です。それを悪意が見られたという表現をすることをなぜ必死に否定しているのですか? >悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。  善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>  ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷により引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?  ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような抵抗が>★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?  ☆ ここで   ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで  ☆ の部分が 違います。  ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。  ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。>  それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないとものなら『悪』という表現を使うのですか? >★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?  ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。>  その通りだと思いますがやましさを感じたと言えるんじゃないんでしょうか? >あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。  そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。   これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。>  現象というのがわからないのですがこれが心理現象である筈です。それを悪意が見られたという表現をするわけですか? >すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?  善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。   けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。>  あらたな別の存在が現われるわけではありません。というのならそれで結構ですがなぜ悪意が現れるのですか? >悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。  善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。>  ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷による引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?  ご自身の現象説明は正しいと思いますが、今で言う「最低な奴」とか「酷い行為」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを悪意と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が悪意とか悪行とかそういうのではないでしょうか?別にそれを否定する必要がどこにあるのか?いやなぜ否定するのかが分からないと言っているのです。無論精神衛生上悪を消したほうが良いというのは分かるのですがbragelonneさんが否定するのはどのような意図なのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そもそもこの問い求めは ひとつにですが なぜわれわれは善と悪という言葉を持っているのか? この問いに始まっています。  ゆえに  ★ それはまったくもっとその通りと思いますが、『善の損傷が生じた』という出来事をなぜ『悪』と呼ぶのですか?『悪』は存在しないもしくは実在しないものならなぜ『悪』という表現を使うのですか?  ☆ というとき 先に《なぜ悪という言葉があるのか?》という問いを持ったということです。  その結果 善および悪を くわしい本質論にまでは到らないかたちながら 経験事象を観察しつつ 《やましさ反応》に着目して それがないのが善 あるのが善の損傷すなわち悪 というふうに仮説した。ということです。  したがって 初めから終わりまでぜんぶ仮説です。  仮説が 一般に当てはまり そう捉えることに不都合がなければ ひとつの理論として持つことが出来るのではないか。いえ 理論というより 《悪は 存在しない》というひとつの認識 これを得ることができればよしとします。それが 常識になれば それで万々歳です。  ★ 現象というのがわからないのですが悪意というのは 心理現象+物理的現象 である筈です。それを悪意が見られたという表現をすることをなぜ必死に否定しているのですか?  ☆ 関連しています。  悪意は 意志のそれとしてのあり方です。  つまりそれとしての意志による選択が 悪意であり その選択つまり悪意を実行しようとするときに やましさ反応が出ます。よってその思いないし行為は 悪と呼ぶ。  つまり 《悪》の定義のほうに焦点をあてているということです。悪意も関連しています。  ただし 《悪意》が 別様にあるということではないと考えます。やはりあるのは 《善の損傷》という内容です。あるいは 生きること=ふつうに生きることとしての心に背くという意志 これがあります。これも 善の損傷です。これが 悪であり 意志の発動に焦点をあてれば 悪意となります。  ★ ~~~~~  ・・・これを 悪となづけたというだけです。>  ご自身がということでしょうか?まったく意味不明でしたが悪と名づけて善の損傷により引き起こる生理現象を悪と呼ぶのではなかったのですか?  ~~~~~~  ☆ このやましさ反応による善悪の定義なる仮説を提出しているのは わたしです。悪と名づけたことが 一般に人びとによっても受け容れられるかどうか それは いまこうして吟味・検証しています。   やましさ反応としての生理現象が起きるなら それを引き起こした意志の発動は 自然本性のよき心根に反することだと捉えるから 善の損傷であり 名づけて悪である。と言っています。微妙に順序がちがうように思います。  ★ ~~~~~~~~  今で言う「最低な奴」「酷い行為」「虐め」「パワハラ」という表現。つまり科学的に言うなら「人を苦しませて残酷な行為をとってる事に快感を覚える最低な奴」と名づけてもおかしくないのではないでしょうか?  普通そういうのを「悪意」と敵意を込めてもしくは拒絶反応でとっさに言う発言が「悪意」とか「悪行」とかそう言うのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~  ☆ 《人間以前の状態にある人間》のことでしょう?  そういう人間は 《早く死にたい》と言っているということでしょうね。あるいは すでに死んでいるということなのでしょう。  そのような状態あるいは意志のあり方 これらを自分の考えにおいて 自由に貶(けな)してよいと思います。けなすことを 否定してはいません。  そのことと 善悪観がどうなっているかとは 別の切り口になります。

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     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 悪は 善のへそ曲がり・善の損傷行為である。

     悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。  だから 悪は ない。存在しない。  善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。  またその傷つける行為のことである。  善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。  これを問います。

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • 善と悪についての問答

    善と悪についての問答   問う人:  善とは何や。 「人の道」:   善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 問う人:   では悪とは何や。 「人の道」:   悪とは善の対極にあるもんや。  つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。 問う人:   偽るとはどういうことや。 「人の道」:   偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 問う人:   なぜ偽ることは悪なんや。 「人の道」:   偽ると真理の探究は出来んからや。 問う人:   如何なる場合も偽ることは悪なんか。 「人の道」:   そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。 問う人:   最大の悪とは何や。 「人の道」:   最大の偽りや。 問う人:   最大の偽りとは何や。 「人の道」:   神や仏、天国、地獄を語ることや 問う人:   なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。 「人の道」:   だから言うたろ。  見えんもんを見えると言うことは偽りや。  聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。  知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 「人の道」:   どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。 問う人:   はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。 「人の道」:   では最大の悪が何かも分かったか。 問う人:   はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。 「人の道」:   皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。      

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。