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震災復興の哲学は何なんですか?

自分は震災で身内をなくしたものです。単刀直入に訊きますが結局のところ復興の哲学は何なんですか? 大学の哲学者とかいうのと同様、こうした質問サイトでも相変わらず何かよく分からない議論が続けられているようですけど、なんで震災復興の哲学については語られないのでしょう。 梅原猛とかいうのも、原発にケチをつけたのは結構だが、えらそうに哲学者を名乗りそれ以上のことは何か言ったのでしょうか。こんな重要な時に社会の役に立たないなら、そんな下らんことはやめてしまえと思いますが間違っているでしょうか

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  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.13

自分はたまたま仙台空港で津波に巻き込まれまして、水と爆発の中で直接人が死んでいくさまや、 それ以上に死んで放置されているさまも見たり 物資の無い千人超の閉鎖空間で1晩過ごしたり、脱出した先々で物資を奪い合うさまをみたり そのまま原発を見に行って日本政府の作戦の失敗や混乱、水素爆発を目撃したり、 米軍の作戦能力の高さや日本の統治能力の欠落を目の当たりにしたり、 その後も腐乱した友人を確認したり、たまたま立場上復興最中の制限区域の中で 何が行われていたのかを見る機会もあったので、まぁステレオタイプな被災の在りようの あらかたは通常以上にたっぷり経験できたかと思うんですが、 それでもやっぱり暖かい部屋で題目を唱え続けたであろう坊主や哲学者さんとまったく同じく 万人に共通する哲学なんぞを語った時点で、質問者さんにはやっぱり 何をえらそうに、と言われてしまうと思うんです。 私がどんな行動を取ったか、私の言葉を聴いただけでは明確にイメージできないでしょうしね。 つまりは、えらそうに、と言われない資格を持ちえる人間はいないと思います。 いろんな方にお話を伺っていると、我こそが一番の被災者、といわんばかりに窮状を聞かせて いただけるんですが、一言に被災、といってもその体験は様々ですよね。 街中で棚が崩れて大変だったー、エレベータが止まって階段で降りた、というのも被災者でしょうし 質問者さんのように身内を亡くされても被災者でしょう。 ですが我々は語ることでもなお、その経験を完全に共有できるわけではありませんから 自身で経験した以上の鮮烈さをもって、他者の痛みを完全に理解することは不可能です。 (まぁ私が見たまま、複数折り重なったまま腐乱した人間がどうなるか、なんて言葉で説明しても ドン引きされるだけでしょうしねー。) ですから、"語ることが認められる明確な資格"なるものは 象牙の塔に篭っていようが失われるわけではなく、 瓦礫の中を這いずり回っていようが、得られるわけではない。 "被災者様"であらせられる質問者さんを満足させるような、そんな資格は平等に存在しないと思うのです。 ではこの前提の下、復興の哲学とは何ぞや、と問うと 万人に資格が存在しない、その上で復興の哲学を俎上に載せるのですから それは主張する人間の性質は論ずるに値せず、ただひたすらに内容に対する検討であるべきですよね。 私はヒサイシャだが、身内が死んだが、大学教授だが、専門家だが、なんていう 枕詞はまったくの不純物であって、語る人が偉そうだからだめとかいうのはまったくもってナンセンスです。 万人に資格は存在せず、だからこそ万人に語る機会があるのです。 質問者さんは他者の主張を腐すだけはなく、自分自身でその哲学を見つけるべきですし、また主張されるべきです。 そのときは、私が逆に何を偉そうにいってるんだこのバカは、クソの役にも立たねーな、と言ってあげますので安心してください。

kanamennko
質問者

お礼

>語る人が偉そうだからだめとかいうのはまったくもってナンセンス そうかもしれません。亡くした身内といってもほとんど知らない人ですし、元から自分にも切実さが人よりあったとは言えません。自分にはインターネットを利用して得た学しかなく、探してはみても自分でそれを唱える気はなかったですし、多少のひがみがあったかもしれません。ともかく色々な意見を聞けたことは参考になりました。他の方にもそうなればと思います

その他の回答 (17)

回答No.7

それって哲学でも何でもなく、哲学家もどきの評論家が、一時のカネを稼ぐための 詭弁だと思いますよ。現状の正しい認識とコストと国家戦略が必要なだけで、 哲学なんてどこにも必要が無い。ただ、仕事をすればいいだけの話です。 まあ、現代日本はそれすらできない愚かな二流国家に成り下がっていますが・・・。 だからこそ、民衆一人一人のレベルアップが必要なのです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

自分は震災で身内をなくしたものです。単刀直入に訊きますが結局のところ復興の哲学は何なんですか? ○大震災というものを悲しみと捉えるのではなくに新たな可能性と捉えるのが復興の哲学ですね。 時間は戻せません、戻せないからこそ起きたことには反省しかないのです。でも反省の先には無限の発展の可能性があるわけです。 文明というものは営々と築きあげるものですが、それが停滞になれば、新しい人には足かせになるものなのです。街の一等地に住む者が永遠に同じ場所にいられない。あるいは同じことをしてきたグループがバラバラになる。あるときある日、一夜にして状況が一変する、こんなことは震災だけでなく政変、クーデターでも起きることです。でも震災は地形さえ変えてしまうという点では、全く新たな出発ができるということです。 悲しむのではなく新たな大陸を発見したコロンブスのように新しい町、都市、国づくりができる機会をもらったのだと考えること、それが哲学ですね。 今までの街を同じように造り、同じような考え、風習、やり方を踏襲する、回復ではないのです。回復にははっきり言って「反省」が含まれていないからです。何が悪かったかはしっかり反省すれば、そこから大いなる発展の目が見えるはずです。それが復興哲学ですね。 大災害の地は英知を集め、大志を抱き、日本の未来社会の手本となるような町、都市造りをすることなのです。原発反対とか、後ろ向きの話に乗っても何も生まれません。絶対安全な原発を未来の産業のベースに誘致し、多くの未来産業がそこに集まるようなビジョンを描くこと、それを若者が共用し、実現していくことそれが復興ですね。 回復と復興の違いは、忍耐出来るかどうかなんですね。今の自分のためにが回復、忍耐は惜しまず未来の子孫の為にが復興ですね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.5

復興哲学という場合の哲学は、本来の意味の哲学の ことではなく、復興の基本理念、といったもので はないでしょうか。 関東大震災の時にも、これを機会に東京を理想的 なものにしよう、という意見が出たのですが とうとう何もしないで終わりました。 単に、元通りにするのではなく、これを機会に 住みやすさ、交通の便、防災、防犯、美観景観 など、総合的な町並みに造り替える、というのが 基本理念といったものではないでしょうか。

kanamennko
質問者

補足

多分そうかもしれません。「政治哲学」とも言えるようです。つまり政治上の原理原則です

回答No.4

はじめに断っておきますが、私は哲学を専門にはしておりませんが、「間違っている」とか「間違っていない」とかいう問題ではなく、「勘違い」というレベルの話だということは言えると思います。 端的に言えば、本来哲学とは「philosophy = 智を「愛する」」という情を含む動的なものであり、「智・知」のみで対処しようとするものとは異なると言うことです。「知」と「情」の両方があってこそはじめて成り立つものでしょう。 「復興」という知的概念に「情」が伴うのか伴わないのか? 伴うのであれば、それは「哲学」の範疇です。 「○○学者」という肩書きを持つ方々は、往々にして「知」のみを前面に出される嫌いがあると思われます。そうでなかったとしても、受け手は「知」のみを切り取って理解しようとする嫌いがあるように思われます。背景にある「情」をしっかりと受け止め合おうとすることこそが、本質なのではないでしょうか?  「哲学」というものを止めると言うことは、「情を失う」ということと同義です。復興に馳せ参じようとする人々の心の奥底にたぎるものがあるとするなら、それこそが、その人々にとっての「復興の哲学」なのではないでしょうか? よろしければ、稚拙ブログの 哲学は役に立つのか、役に立たないのか。。。 http://jinen.exblog.jp/10842622/ を参照願います。 一部抜粋しておきます >>> 智を「愛する」という行為は、生まれながらにして人間に備わっているものであり、その自発的な「思い・情」を(何に)役立てるかどうかは、その人の人生そのものでしょう。また、「愛する」という概念自身が、人それぞれ異なるということもあるでしょうが、少なくとも「愛する」という方向は、肯定的な方向であり、対象が「智」ではなく「人」であれば、人と人とが相互に関わり合っていこうとする方向性です。対象が「自身の思考」や「他者の思考」であれば、さらに狭義の哲学に近い概念になるでしょう。 また智(知)と情との概念の差異からも、「愛する」ということが形にならない(智として共有可能なものにならない)ことがあるのは、当然のことといえます。 哲学が智を「愛する」といった動的な関係である限り、「何にとって」とか「誰にとって」とかいった対象(限定)が必要ですし、「誰が」といった主体(限定)が必要です。 そういった「限定」を取っ払って、「役立つか否か」を論じることが無意味だということは、形を変えて幾度も繰り返し述べられています。 逆に言えば「哲学が役に立つ・役に立たない」という論争は、一部の(狭義の)哲学「科」などの専門の方々に「限定」されてこそ成り立つ論争だと思われます。 「愛する」という概念を「智にて捉えきれる」と幻想するとき(すなわち、哲学に限界があるとする考えに等しい)にても、「役に立つ・立たない」という不毛な論争を引き起こすでしょう。(このことも、既に繰り返し述べられています。) すなわち、「愛する」(情)を以て、更に深く考えていくことを人々が放棄しない限り、哲学は永遠に「何らかの形で」「何らかの為に」役立っていると思っています。 <<< MIXIのコミュニティ「現代思想」の トピック「哲学は何故役に立たないのか 」内、241番目に投稿した内容から一部を改変。オリジナルの投稿日時:2007年01月06日 04:56)

  • ennalyt
  • ベストアンサー率29% (398/1331)
回答No.3

大学の教員というのは、役に立たないことを延々と何十年もやってる人たちです。 批判するのはちょっとお門違いと思いますよ。 すぐに役に立つことを教えてるのは専門学校の教員でしょう。 そして実際に汗をかくのは私のようなビジネスマンです。 四の五の言わないで現地に飛んでいった連中が周りに何人も居ました。

  • 6n0s0h04
  • ベストアンサー率19% (25/129)
回答No.2

復興に哲学が有るとは思えません。 過去の津波はすべて防げる、と自信満々の人々が 防波堤を乗り越えてくる津波に逃げもせず茫然と しているように思えました。 日本中が協力して瓦礫を撤去しても、また被災地に 住居を立てる予定ですね。 低層住宅は認めない方向で進んでほしいです。 戦後の日本の復興計画を練ったのは電気工学者 だと、聴いた記憶があります。 復興計画を練るのは国土交通省ですが、 地震・津波対策、産業の復興、病院学校の整備 全てを上手く行かせるのは結局は生き残った人々と 支援する人々の信頼関係ではないでしょうか?

noname#181154
noname#181154
回答No.1

復興に哲学と言う言葉が出るとは思いませんでしたが、 哲学ではなく、インスピレーションだと感じました。 ※ 現場や被災した人と触れました。

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