• 締切済み

神とは何ですか?

902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

みんなの回答

回答No.12

仏教や神道では単に人間より優れた存在としています。 神道の場合は「神=上」ですね。 仏教の場合、迷いの世界を罪と功徳の度合いで大きく6段階に分け(六道)5段目を人間、それ以上の功徳を持った存在を「天」(dava=神)としています。 更に神の世界も大きく「六欲天」(「人界」も含んで六欲天以下を「欲界」普通の欲に振り回されてる状態)「色界」(まだ物質的な執着のある世界)「無色界」(精神的な執着が残ってる状態の世界)の三段階、細かくは三十三段階に分けられます。 色界や無色界は、非常に徳の高い境地ではありまするが、功徳が尽きると下の世界にどんどん落ちて、地獄にはまる事もあり得るそうです。私は「神は死んだ。」のスレッドはROMだけしてましたが、仏教では神が死ぬのは当たり前なのです。 ちなみに、「六欲天」は割と人間と同じような欲に振り回されているので、謂わゆる「悪魔」も人間より優れた能力を持っている点でこの欲天に属します。 お釈迦様が覚りを開かれんとするときに、誘惑したり邪魔したりしたのが「第六天の魔王」こと「他化自在天」(大自在天)です。他化自在天の名称の意味は「他の快楽を奪って自分のものにすること自在である」と言う意味です。 覚りを開かれる直前のお釈迦様に、魔王が「最上の快楽を与えよう」と誘惑しましたが、その快楽の源はお釈迦様自身の功徳であり、しかも大方を魔王がピンはねすることを見破っていたので、お釈迦様は相手にされませんでした。

mori0309
質問者

お礼

nekoucchaliさん、回答ありがとうございます。お礼が遅れてたいへん申し訳ありません。  神の世界にも階級や序列があるのでしょうか。人間はこの世で徳をつんだら神の世界へと すすむのでしょうか。そして神の世界でも「出世」するために頑張らなくてはならないの でしょうか。なんだか現世と変わらないですね。死んだらまた競争社会だった・・・・ ああ、死にたくなっても死にたくない。(すみません。冗談です)  ダンテの神曲なんかでもそうですが、あの序列体系はどうも「それはちがうぞ」という 気がしてなりません。神になることは自分のステータスをあげることなんかじゃない。  神は、高い立場から人間を支配・統治・裁定・処罰・褒賞するような存在でしょうか。 これじゃ俗世の権力者と変わらない。神と人間はそんな対峙的関係にはないと思うんです。  ご回答に対する反論ではありません。ご回答をきっかけとして考えた妄想です。

  • rene
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.11

回答と言うよりかは,アドヴァイスに近いです. むしろ,参考と言うべきかもしれません. ユダヤ-キリスト教の唯一神ヤハウェYahvehについて, 神は全知全能なのに,なぜ人間に困難を課すのか, と言われますが(言われないかも……), ちょっと考えてみました. ここで<神>を,あらゆるものを完璧に向かって存在させる可能性を持つ力と考えます. それで,<神>を不完全と捉えます(全知全能にこだわるなら,不完全なフリと考えてもOK). ところで,ウィニコットD.W.Winnicottの考えの1つは次の通りです.  母親って,子供に欲求不満を出させながらも,  その欲求不満に全て答えていくのが「ほどよい」んじゃない?  子供が欲求不満にならないくらい完璧な母親って偶にいるけど,  それって母親が自分の思いばかり重視して,  実際には子供の方にすれば,やりすぎなんだよ. ここで母親⇒<神>,子供⇒<人間>と置き換えてみるとどうでしょう?  <神>って,<人間>に欲求不満を出させながらも,  その欲求不満に全て答えていくのが「ほどよい」んじゃない?  子供が欲求不満にならないくらい完璧な<神>は,  この地球という世界では,信仰するのにちょっと無理があるんじゃないか? ……というのはどうでしょう?

mori0309
質問者

お礼

reneさん、回答ありがとうございます。お礼が遅くてたいへん申し訳ありません。  神の正体は、おさないころの父や母のイメージが、こころのなかで内面化した ものと言えるでしょうか。幼児にとって父はこわい神で、母はやさしい神。全知 全能の。(こういう男女の固定観念はいけないのでしょうけど)  三つ子の魂、百まで。まことに生まれたばかりの真っ白の赤ん坊にとって、 自分を守ってくれて食べ物を与えてくれる父母の存在は、それはもうとても とても強くて大きいのでしょうね。  神を信じるということは、絶対的全知全能者に、すがりついて、庇護をおねがい するということ・・・・・でしょうか。  それは違うと私は思うのですが・・・・ (ご回答に対する反論ではありません)

noname#8665
noname#8665
回答No.10

宗教における神ってのはたいがい名前は違っても、創造主って意味合いで 語られることが多いように思います。 上記と違う場合もありますが、その場合はこの世界を管理し、 その振る舞いを見守る存在であるというような認識であるようです。 こういう場で必ず引き合いに出されるところのP・Kディック「ヴァリス」 なんかみたいな白痴なる神の場合であってすら、振る舞いを見守っています。 一般的な定義の神ってのはたぶんこれでしょう。 「世界を管理し、見守るもの」っていう。 で、これに宗教によっては、人間を中心にした利害を管理するものって 定義が加わってきちゃう。「悪いこと(もちろん人間にとって)をした人は 罰せられる」とかなんとか。これは人間の価値基準であることは言うまでも ありません。たとえば、深遠なる思想をお持ちの神は 人間なんぞどーでもいいなどとお思いかもしれません。 実際、宇宙中を管理してるんだったら、たかだか地球なんぞという惑星の たかだか、生命体の一種に過ぎない人間をそんなに重きをおいて 見るんだろうか?(なーんてなこと書くとキリスト教原理主義者の人とかに 殴り殺されそうですが)まーでも、実際僕の中の基準においては神は 人それぞれのなかに、人それぞれの形でしか形をなしえないものである ように思います。 PS. 「世界を管理し、見守るもの」っていうのはあれですね。 ここの管理部(神)としたときに神に管理されるものとしての参加者全員 との関係に例えるとわかりやすかったりして。

mori0309
質問者

お礼

oni_ocさん、回答ありがとうざいます。いつもお礼が遅くてすみません。思索がどうどう めぐりしています。身のほどをわきまえない質問をするからなんです。 > 神は人それぞれのなかに、人それぞれの形でしか形をなしえないものであるように思います。  神はまったく人間の主観的な幻想にすぎないということですね。美とか愛(←口に出すのは こそばゆい言葉ですが)はどうでしょう。これも幻想でしょうか。  私にとっては(完全に私の主観的実感ですが)美も愛も神も、法律や国家や財産などよりも 強い実在感があると思います。美や愛や神は、モノというよりも力とかエネルギーに近いと 思います。法則ではない。そして科学的計測の不可能な。人間の精神にだけ作用するエネルギー。 そんなふうに感じます。  法律や国家や財産だって、人々の共通の思いこみ(約束ごと・幻想)であり、人間の頭のなかに しかないものだと思います。(法律は紙という物質じゃないし、財産も貨幣という物質じゃないので)

mori0309
質問者

補足

P.S. 自分なりに考えていたことです。 他室での話題と同じ内容になってしまいましたね。すみません。 ご回答に対する反論ではありませんので、ご了承を。

noname#155689
noname#155689
回答No.9

ご無沙汰ですが、お元気ですか? まず、下記URLはご覧になってますか? 皆さんの意見を読んでいると 神に関して無党派層である限り やはりイデア信仰のようなものが動機ではないか? と、感じます。 では、次に「何故そんなモンを求めるのか」を考えたのですが いろいろあるんじゃないか? 向上心がそうさせる 浪漫がそうさせる 罪悪感がそうさせる 弱さがそうさせる 想像力がそうさせる 探求心がそうさせる ・・・これって、まさに人間だから、じゃないでしょうか! つまり、神とは、人間の拠り所 ってな感じでしょうか。

参考URL:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=60281
mori0309
質問者

お礼

CUE009さん、いつも回答ありがとうございます。お礼が遅くて本当に申し訳ありません。 元気ですが、相変わらず大忙しです。(要領が悪いだけなんです・・・今も会社です) それにしてもこの「教えてgoo」には、まいってしまいますね。仕事中でも見ることが できてしまうので大弱りです。今の私には新聞よりも雑誌よりもテレビよりも、この 「教えてgoo」がいちばん面白いです。中毒みたいなもんです。 > 下記URLはご覧になってますか?  拝見しました。やはり無神論者を標榜される方は多いですね。この時代に神を信じるなんて いうのは、月の世界のうさぎを信じるのと同じくらい非科学的なことなのでしょうね。神を自分の 外部にあるものと決め付けて、客体化・相対化しようとすると、どうしても無神論に行き付くと 思います。神が認識や分析や定義の可能なものであるならば、人間の理性によって必ず征服されて しまいますから。そして理性が下す神というものの結論は、心理学的なものであったり、社会学的な ものであったり、論理学的なものであったりするわけですね。  ただしかし、私は人間は理性一辺倒で生きていてはいけないと思うんです。理性と対置される ものとして、うーん、なかなかしっくりする言葉がないのですが・・・感情・感性・情・情愛・ こころ・・・(どれもイマイチですが、ここでは「感情」を使わせていただきます)  理性はきわめて沈着冷静で、その目指す方向は、観察・分析・抽象化・概念化・定義・説明など による外部世界の対峙的な征服ですね。そうすることにより自己の安心と安定を得、自己の優越を 確認する。理性は精神(自我ego)が自分を守り外部を征服するための矛であり盾だと思います。 だから理性は「自分そのもの」ではない。  感情はまったく逆で、外部世界に自己を投影したり同化しようとしたりします。自然のなかに 美や愛を見出し、それらは自分を守ってくれるものと感じ取ります。うーんと、そういう言い方は ちょっと語弊がありますね。うまく言えないです。自然を無理に擬人化して感傷にひたっている わけではないです。  なんと言うか自然との一体感ですね。それは理性的認識ではなくて、なにかこの、いのちの故郷 とでも言うべきものと向き合うことの喜びであり、互いに無常で有限であるがゆえに、かえって 「無意味である」「無主体である(つまり宇宙や自然は無我で、物質法則の必然性によってだけ動いて いる)」という空虚とはまったく逆の、「ある力」を、互いに共有しているという情愛感覚です。 共有しているというより彼我一体である・・・そんな感じを強く抱くんです。  神というものは本当に言葉では表現できないです。私には「ある力」としか言いようがないです。 私の感情(理性ではなく)にとっては「ある力」が幻覚なのか実在なのかは、あまり興味のない 問いです。(でも私の理性はたいへんな興味を持っています。だからこうして質問しているんですが) 真・善・美・貴・聖は、「ある力」の現れである。そんなふうに思われてなりません。  「ある力」は私の外部に存在して、私を奴隷のように支配するものじゃないです。私という存在の 本源にある私自身、真の自分、真の自由、万人・森羅万象と共有され、一体であるもの。そんなふうに 感じられてなりません。  真の自分は理性なのか感情なのかそれ以外か。それは真実在(すなわち宇宙や自然を無我でなくする もの)か。私の永遠の問いです。  お礼が遅いこと、重ねてお詫びします。これからもよろしくお願いします。

  • illashige
  • ベストアンサー率53% (305/569)
回答No.8

ぼくは、まったく無宗教の人間です。 しかし、ほぼ確信を持って神の存在は信じています。 この自然界(地球上に限りません。宇宙全体)の秩序が偶然の産物であるというのはあまりに無理があるのではないでしょうか。 ぼくは、誰か作った〔造ったはなんとなく使いたくない・・〕存在の意志を感じずにはいられません。 これだけ美しい秩序を作ったからには、人間の考える「善」の方向と矛盾しない存在であろうとは思うものの、人間の犯す罪や悪なんてものともしない、とほうもなく、「にこにこした存在」ではないかしらん。 宇宙の片隅の銀河系の地球くらい、どっかの馬鹿が核爆弾を使って吹っ飛ばしても、「しょうもないねぇ」くらいにしかおもわない、ふところの大きな存在をイメージします。宇宙全体の半分くらいぶっこわせば、むっとするかしらん・・。 だから、既成の宗教の教えるようなモラルの規範となるような神と違ったものではありますが(たかが人間のやることくらいどんなことだって許してもらえそう)、でも、その存在の作った混沌ではない秩序、美しさは、人間どもの考える浅はかな「愛」や「善」に通じるもので、せっかくその大きな存在の作ったこの世界のほんの片隅に存在する幸運に恵まれたからには、その存在の意志の目指す方向に向いていられればなぁ・・てな気分になりますねぇ・・。(あんまり向いてないけど)。

mori0309
質問者

お礼

illashigeさん、回答ありがとうございます。 > 人間の犯す罪や悪なんてものともしない、とほうもなく、「にこにこした存在」では > ないかしらん。 まったく同感です。この世に罪を犯していない完全な人間なんて、ただの一人もいない ですものね。嘘や言い逃れやなすりつけやこっそりズルと言った小悪事は、ホントにもう しない日はないと思うくらいです。小悪事も大悪事も、神のような大きな存在からすれば 十円玉と百円玉の違いくらいしかないのかもしれません。(逆に「これくらいの悪い こと、みんなやってるから・・・」なんてのが重大悪事に等しいとも言えますが) 不完全な人間が罪を犯したからと言って、神がそれを理由にその人間を地獄に落とすなんて いうことがあるはずがない。これはずうっと昔から思ってきたことです。ちょうど1年前ですが 映画「グリーンマイル」を家族と一緒に見たとき、感動はしたものの、神がこんなことを するはずがないというのが素直な感想でした。脳をガンに侵されて口汚い言葉をはく女性は 救済されて、自分勝手で仲間にいやがらせばかりする男は発狂させられたのです。 人は自分で地獄に落ちていく。神が突き落とすわけじゃない。神はただただ人間を愛する。 人間を救う。そんなふうに思います。 > 混沌ではない秩序、美しさは、人間どもの考える浅はかな「愛」や「善」に通じるもので・・・ そうですね。真、善、美、貴、聖、、、その先には神がいる。そう思います。

回答No.7

難しいですね。『神』という言葉の意味、定義、解釈、語感、これについて、自分の中だけでもスチエ-ションごとに『神』に対する思いがまちまちです。何かテ-マをあげていただけれると、お答えしやすいのですが・・・・・それほど、『神』とは一口で表現できるものではない、言い換えると、人が都合よくどうとでも扱える代物なのかということです。人が、曖昧にしている部分を『神』という言葉にすりかえてごまかしてしまう、そして、納得する。おかしいですね、でもそのほうが不都合でないからなんでしょうね。

mori0309
質問者

お礼

littlekissさん、いつも回答ありがとうございます。お礼が遅いmori0309です。どうかお許しを。 > 自分の中だけでもスチエ-ションごとに『神』に対する思いがまちまちです。 そうですね。日ごろは「神なんかいないさ」と思っていても、窮地に落ち込むと 「神様、助けて」と祈ったりします。人間ってなんて虫がいいんでしょうね。(私のことです) 「神を信じます」モードにいるときの自分を省みても、神のイメージは、絶対法則であったり 人格神であったり、天の太陽や星であったり、故郷の羽衣の滝であったり、我が子の幼いころの 笑顔であったり、、、いろいろです。 「自分は神は信じない」と言う人でも神という言葉は使いますよね。アインシュタインは 完全な無神論者でしたが、不確定性原理に反対して「神はサイコロ遊びはしない」と言い、 同僚のかなり有名な科学者(誰だったか思いだせません)に「その神という言葉を使うのは やめてくれないか」と、からかわれています。 人間を超越し、人間の運命を支配するなにかしら大きな絶対的な存在。そういうものは 存在するのでしょうか。それともこの宇宙には人間の理性より高度で自由なものは存在 せず、運命とは単なる確率的偶然にすぎないのでしょうか。

回答No.6

鳥山明さんのドラゴンボールのお話の中で特徴的だなと思ったのは、神様が、ピッコロ大魔王という悪の権化と、実は一体であったが、分離して二者になったという設定です.そして、ピッコロ大魔王が、ある宇宙人との戦闘で体を張ってある存在を防衛するために、死んでしまうと、神様も死にます. 最近そのあたりをコミックで読み直した矢先で、この物語をTV放映で知る(※)世界の諸文化圏の子供たちは、この設定と展開にどういう感想を持つだろうか、ひょっとしたら自然に受け入れられるのかもな、などといろいろと感慨を持ちました. これがどういう意味があるかあまり考えていないのですが、投稿してみました. ※多くの国でTV放映されているようですので.

mori0309
質問者

お礼

finetoothcombさん、ありがとうございます。 > 神様が、ピッコロ大魔王という悪の権化と、実は一体であったが、分離して二者になった・・・ > ピッコロ大魔王が、ある宇宙人との戦闘で体を張って、死んでしまうと、神様も死にます. ドラゴンボールはよく知らないのですが、こういう設定は面白いですね。神は造物主では なく、まず「存在」が「誕生」したのですね。「存在」自体は、善でもなく悪でもなく 神でもなく悪魔でもない。悪を殺せば、神も死ぬというのは、なんだか共感できます。 すべてが一体だとしたら、悪を切り捨てることは、自分の肉体の一部を切り捨てるのと 同じことなのかも。 ”神”もよくわかりませんが”悪”もよくわからないですね。”悪”とは何でしょう。 「神は愛であり、悪は愛の欠如状態である」この言葉を、私は永らく胸に保っていました。 でも”神”の実在感よりも”悪”の実在感のほうが大きいという感じもします。”悪”は エゴイズムであり、これこそ生命力の源泉である実在?ああ、分からなくなってきました。

  • kanakoiya
  • ベストアンサー率16% (9/53)
回答No.5

 「神」または「仏」とはあなた自身です。  人間は浄化されるために生まれてきます。そのための修行が「生きる」ということです。ただ、浄化の方法を多くの人間は知らないために「神」や「仏」となり得ないのです。  子どもは「親を選べない」のではなくその親のもとで修行するために「子どもが親を選んで」生まれてくるのです。私たちの出会いや行動はそのほとんどが必然で、親子としての出会いもまた必然です。私たちはすべて選ばれた存在でありそれゆえ、浄化めざして他に優しく己に優しく生きていかなければいけません。   

mori0309
質問者

お礼

kanakoiyaさん、回答ありがとうございます。 ご回答内容は、すばらしいと思います。美しいと思います。 反論したり批判したりするつもりは毛頭ございません。 (という言い方自体が反論になっちゃいますか。すみません) 私自身はこういうお話はいつも詩的・文学的に受け止めています。 私見ですが人間が何かを信じるときの信じ方には、感性的・文学的なそれと 理性的・科学的なそれと、ふたとおりあると思います。 理性レベルで「生まれる前」や「死んだ後」のことを信じきってしまう のは、やはり危ないことと思います。 私は詩的真実と科学的真実と、どちらが正しいか、決着をつけないように しています。どちらかだけが一方的に正しいということはないと思うので。 「正しい」ということの言葉の意味も、詩的な「正しい」と科学的な 「正しい」があり、両方とも「正しい」と思うので。 ご回答内容を誤読しているかもしれません。どうぞご指摘ください。

回答No.4

これは個人的な考え方ですが、人間はなぜ生まれてきて、何をすべきなのかという問いに対する、一つの回答を提供するものでないかと考えます。創造主(神)の立場に立って考えてみますと、人間を含めた創造されたものには、創造されてよかった、生まれてきてよかった、創造主に感謝したいという感情を持ってもらいたいと考えるのではないでしょうか。自分の子供に「なんで生んだんだ」と呪われるよりも「生んでくれてありがとう」と感謝されたいでしょう。神のために人間はなにをなすべきかというと、感謝すべきだと思うのです。では心から感謝するためには、自分が幸せにならないと感謝できないでしょう。では幸せになるためには?これは非常にメンタルな問題であるので、人それぞれだと思いますが、普遍的な方法として「愛すること」(アガペでしょうか)というプロセスが有効であると思います。自分を含めたすべてのものを愛することによって幸せになる可能性があると思います。この考え方でいくと、人間は愛する為に生まれてきて、愛し続けるために生きているということになりますでしょうか。私は、このような考え方をするために神が存在するという前提を置く必要があると思うのです。

mori0309
質問者

お礼

JunkMasterさん、ありがとうございます。 > 自分を含めたすべてのものを愛することによって幸せになる可能性があると思います。 > この考え方でいくと、人間は愛する為に生まれてきて、愛し続けるために生きていると > いうことになりますでしょうか。 同感です。愛という言葉はどうも通俗化しすぎている気がしますが、やっぱり愛は愛ですね。 そして「愛」は「好き」とは、まったく違いますよね。 (なんか哲学の部屋にふさわしくない話になりそう・・・) > 私は、このような考え方をするために神が存在するという前提を置く必要があると > 思うのです。 同感です。が、神は、個人に見えてくるもの、感じられてくるものであって、学問上や 思想上の理念ではなく、科学的観測可能な実体でもないので、人々と無理に共有しようと してはいけないのだ、とも思います。こういうと神はただの個人の幻想ということに なってしまうでしょうか。 美が概念ではなく実在ならば、神もまた概念ではなく実在である。私はそう思います。 数学者にとって数が実在であるように。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.3

神っていうのは、人間の力じゃどうすることもできないことが可能な存在というニュアンスでよく使われますね。 最近の科学技術の進歩にともなって、人間はいろいろなことが可能だ、と言われるようになる一面、「それは倫理的にマズい、神の領域を侵している」というようなことも言われます。(例:クローン人間) しかし、科学技術はどうやって進歩するかというと、新たに法則を発見し、新たに法則の使い道を発見することによって成り立つのです。 でもって、人間にはその自然の法則を造り出すことはできません(かなり当り前ですが)。 では誰が造ったのだろう、ということになって、最後には神なる存在がいるということで納得するしかないのです。 じゃないと、偶然自然の法則なるものができあがって、偶然人類が生まれてきて、ということになりますよね。そうすると人間は生きている意味を感じられなくなってしまう。欲求というのは恐怖から生まれるもののようで、自分の存在価値を持っていないと怖いという理由から、神を必要とするようになったのです。 だから、神がいるということになりますが、そうすると神という概念自体が人間の造ったもので、人間がどう神に対するか(崇拝など)は人間の価値観でやっていることでしょう。 実際、人間に産み出された神以外に「神」がいるのかどうかは人間にはわからないと思います。 神がなぜ必要か、という話が中心になって、神とは何かという質問からズレた回答になっていますが、こういうことです。

mori0309
質問者

お礼

nabayoshさん、ありがとうございます。 ぜんぜんズレてなどいないです。鋭いです。メチャメチャに切れる理性の剣の言葉だと 思います。冷静で客観的で事実だけを直視されている。神という感傷を拒絶されている。 でも私は、そういう強い理性は、やはり人間の半面だと思います。もう半面の弱くて 感傷的で、なにかよりどころを求めずにはいられない○○も、やはり人間の真実だと 思います。(○○にあてはまるべき言葉が出ません。こころ?感性?良心?) そして理性は男性原理的で、○○は女性原理的だと思うんです。ちなみに私は男ですが 心性的には女性原理のほうが強いです。リズムよりメロディにまいってしまうたちです。 (いまどきこんな性差を論じると、怒られるか笑われるか、どちらかですね。でも私は 宇宙の根本原理としての陰陽というか天地というか男女というか、そういうものはあると 思うんです。ちなみに今の時代、女性のほうが男性的で、男性のほうが女性的ですね。 これはすごく感じます) そうだ、○○は、感情とか情愛ですね。理性が法則を発見するように 情愛は神を発見する、、、と私は思うんですが。

関連するQ&A

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • 何人も神について語るべきでない。

           ある人の考え。 神についての教えはその一切が無意味であるとゆー。 全ての神学、あらゆる宗教は神について教えるものであり無意味であると。 神は考えて分かるものではないからであると。 神は一つであるとゆー。 イエス・キリストもアラーもイワシノアタマも皆同じであると。 また神は有っても無くても同じであるとゆー。 有る神も無い神も変わりはない、全て同じであると。 すると人間にとって神は存在しないに等しいことになる。 そして神については何を語っても無意味となる。 神については何も語る必要もなくなる。 何人も神について語るべきでないのか。        

  • ベルセルク 深淵の神(2)

    http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=933730 にもあったようですが内容が書いてあるものがなかったのでどなたか内容を教えて下さい!ネットでも探せなかったので皆さんの記憶だけが頼りだと思います。よろしくです・・・

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 「情報を得る」と知識はどう違う?

    前回の問い立ては拙かった。 出直しです。 インターネットの普及と絡めて返信お願い。 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=63784 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=63784 http://www.okweb.ne.jp/iwedding/kotaeru.php3?q_id=63784

  • 八百万の神について

    よく八百万の神は自然の至るところに神が宿るみたいなこと書いてますが、 どこの本に書いてあるんですか? 古神道の教えにあったとしても起源はなんでしょうか? そもそも八百万は自然のいたる所って意味にするにしては無理があると思いますし 古神道の人が間違えて解釈したとか捏造したものではないでしょうか? なんか八百万の神について書かれている文(本名も書いてくれれば幸いです) などがあれば教えてほしいです。

  • 仏教を学んだ人で神を信じている人はほとんどいないのでしょうか?

    原始仏教で釈迦が最初の段階で衆生に 「信仰を捨てよ」と説いたらしいので 仏教を学んだ人で神を信じている人というのはほとんどいないのでしょうか? また、仏教以外の宗教で信仰を捨てよという教えのある宗教はありますか?

  • CやJava言語はフリー

    下記の過去問で開発環境は無料とかいてありましたが、素人の私でも簡単に利用できるものなのでしょうか? http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2038403

  • 今の日本の選択  

    お世話になっております。 サリジェンヌです。 今、日本は重要な局面にいると思います。 今後の日本は弱者切り捨て型社会にすべきか、 国民皆を導いていくべきか皆様のご意見を伺いたく思います。また、前者の場合は、その方向に進んでいるように見えますが、後者の方向に針路変更したい場合はどうしたらよいとお考えでしょうか? 因みにサリジェンヌは後者派です(↓頑張ってきました(参考までに)) http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2254612 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2248694 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2245746 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2265951 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2265951 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2126838

  • なんとしても振り向かせたい!

    男子高校生です。 今学校に好きな人がいます。以前は全く接点がなかったんですけど、音楽部に入って知り合うことができました。でも、その子は他の男子と中がよく(付き合ってはいないみたいです)、僕はほとんど相手にされません。どうすれば彼女に振り向いてもらえるでしょうか。 以前ここで質問しました。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2436141 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2437751 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2441722