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長篠合戦 武田軍の敗因は?

black_shepherdの回答

回答No.3

防御陣地を構築している敵に対して攻撃をかける場合、攻撃側は最低でも防御側の2倍の兵力は必要です。 開けた平地での機動戦であれば、用兵や兵の質で兵力差を覆すことも可能だったでしょうが、長篠の合戦の舞台である設楽が原は丘陵に囲まれた窪地で、織田・徳川連合軍は防御陣地を構築していました。 織田・徳川連合軍3万8000 武田軍1万5000 鉄砲の数など関係ありません。 自軍の2倍以上の兵力が防御陣地を構築しているところに攻撃をかけたのだから、最初から武田に勝ち目など無かったのです。 じゃあ、武田は何故こんな無謀な戦いをしたのか? 武田軍の退路に位置する鳶ヶ巣砦が、酒井忠次の別働隊によって占拠されてしまったため武田軍は無傷での撤退が不可能になったからです。 退路の鳶ヶ巣砦を攻撃すれば当然織田・徳川の主力が背後から襲いかかります。どんな精強な軍隊でも背後から攻撃されればひとたまりもありません。 そもそも武田が長篠に出兵したのは、武田を裏切り徳川に付いた奥平に懲罰を加え武田の威信を守るためです。 その結果、長篠城は落とせず、自軍に損害を出して撤退したのでは武田の威信は大きく傷つきます。 武田の選択肢は、自らの威信を貶め多少の犠牲を出して撤退するか、一か八か勝利か全滅かの賭けに出るかの2択しかなく、後者を選び壊滅した・・・これが長篠の戦いだと思います。

azuki-7
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