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大阪城は大砲の存在を考えて作られてますか?

kuroneko3の回答

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  • kuroneko3
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回答No.8

 当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。  本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本格的な大砲攻撃を想定して造られた城ではありません。  織田信長も鉄甲船に大砲を積んで実戦に活用したりしていますので,秀吉が大砲の存在を知らなかったはずはありませんが,当時の大砲の威力からして,その攻撃に備えるために城の造りを抜本的に変える必要性までは感じなかったでしょう。  小田原攻めに大砲を使わなかったのは,わざわざ大砲を持ち込むのが戦略的に有効でなかったからであり,徳川家康も大坂城の実質的な主人が淀の方でなければ,大砲は使わなかったかもしれません。なお,大坂夏の陣の約20年後に起こった島原の乱では,オランダの協力を得て大砲攻撃が行われたものの大した戦果は挙げておらず,結局は兵糧攻めと人海戦術でようやく一揆の拠点・原城を落としています。  原城は,有馬氏によって築城され,一揆当時は廃城となっていた小城であり,そんな城を落とすのにも大砲が大した役に立たなかったということは,要するに当時の大砲では,城を物理的に破壊する役割はほとんど期待できなかったということになります。

schuler
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも、一発だけなんですか? 大坂城内にいた次女が大砲でバラバラになって死んだという話が残っているのですが、あたったのは その一発ということでしょうか。 大河ドラマとかだと、けっこう当たっていますが・・(笑)

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