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大阪の陣で城に命中した砲弾数について
豊臣家が滅んだ大阪の陣においては、大砲が活躍したいわれていますが、何キロも離れたところから撃っているため、滅多にあたらなかったという話を聞きました。 そこで質問なのですが、徳川方のその滅多に当たらない大砲は、何発、天守閣などの建築物に命中したのか記録が残っていますか? また、もう一つ質問なのですが、徳川方は大阪城の一番外側の石垣に触れることさえできなかったという話を聞きましたが、一番外型の堀の石垣とは、どこのことでしょうか? 大きな城には3重ぐらいの堀があると思うのですが、大阪の町まで囲った、天守閣から見て一番外側の3番目あたりの堀の石垣、という意味でしょうか。 よろしくお願いいたします。
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- nene-k
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回答No.2
命中したのは2発です。 慶長十九年(1614年)12月16日に、備前島から放たれた砲弾の1発が天守に、もう1発が淀殿の居所である千畳敷に打ち込まれて侍女が亡くなりました。 『豊内記』『當代記』などに記載されています。 大坂冬の陣の時は、北は、その大砲のあった備前島(現在のビジネスパークのあたりです)までで、南は、真田丸(現在の環状線の玉造駅と鶴橋駅の間)を越える事ができなかったはずですので、そのあたりから内側には入って無かったと思います。
- あずき なな(@azuki-7)
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回答No.1
命中したのは たったの1発 その1発が天守閣の本丸に直撃し淀殿の侍女が即死 これにびびった淀が家康との講和を結び大阪冬の陣は終結 つまり命中したのは1発です
質問者
お礼
ありがとうございます。 一発だけというのも、なんとも不思議な感じがするんですね。 どの文献に書いてあるとかわかりますか? 本当に一発だけだったとすると、柱が折れたという話も聞くのですが、その一発が、侍女たちを爆死させつつ、柱を折ったということですよね。
お礼
ありがとうございます。 こうして質問させていただいた以上、はっきりさせておきたいのですが、記録としては 冬の陣全体を通して「2発のみ」当たったという理解で良いのでしょうか? 「12月16日に2発命中した」ということはわかりましたが、それだけだったのでしょうか。。