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後北条氏の滅亡は、氏直の時代を読めず政治力不足?

kuroneko3の回答

  • kuroneko3
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回答No.1

 北条氏の滅亡が徳川家康の陰謀というのは,単なる結果から導き出された推測に過ぎず,妥当とは言えません。  北条氏滅亡後,家康は北条氏に代わり関八州を領国として与えられましたが,北条氏討伐の段階では,家康やその家臣達も,褒美としてはたぶん伊豆をもらえるのだとうと思っていた節があります。それが秀吉の命令で,突然関八州への国替えを命じられたというのが現在の通説であり,これを覆すような史料は特にありません。また,家康は秀吉の北条氏討伐にあたり,駿府の人質時代からの知己であった氏直の叔父・氏規を通じ,ぎろぎりまで和平による解決を試みていました。そのせいか,戦争になれば家康も伊達政宗も北条家に味方してくれると思い込んでいたようですが,そのような見通しの甘さから秀吉との和平を蹴ったのは,あくまで北条氏の決断によるものです。  北条氏直自身は,豊臣秀吉との開戦に積極的であったわけではなく,強硬な開戦論者は父の氏政や叔父の氏照であったこと,戦後氏政や氏照が切腹を命じられる一方,当主である氏直が高野山への追放にとどまったのは,秀吉もこのあたりの事情を熟知していたことによるものです。当時は反乱を起こした結果,城内の民衆ごと撫で切りにされた例もあった時代であり,処分が厳しすぎるとは当時の誰も思わなかったでしょう。  北条氏の滅亡は,氏直一人の責任というわけではなく,当時の北条家が一族・官僚による統治を高度化させるあまり,組織全体の動脈硬化が起きていたことによるものです。史上悪名高い「小田原評定」はその象徴ですが,甲信をめぐる徳川家康との戦いでも,動員できる兵力は北条家の方がかなり多かったにもかかわらず,戦時には不可欠な迅速で機動的な決断ができず,結局家康と不利な条件による和解を余儀なくされています(督姫が北条家に嫁いだのはこの和解によるものです)。氏直自身も,徳川家との戦いで一軍を率いていたものの,一族の合議で決めた作戦に反する独断行動は許されないと家臣達に反対され,徳川軍を破る好機をみすみす逃しています。

lions-123
質問者

お礼

ご回答を賜りまして、誠にありがとうございます。 大変、参考に成り、心よりお礼と感謝を申し上げます。

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