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東大現代文対策(理系)について

東大現代文(理系)について質問です。高3です。 夏休み終了までに、現代文の本質的な解法をある程度身につけようと思い、 何となく印象が良かった「現代文読解力の開発講座(駿台文庫)」を購入しました。 他の科目の関係もあって、今の状態だと、現代文にかけることの出来る時間は せいぜい週一時間です。英語の場合、「毎日英文を読め」とよく言われますが、同じく語学である現代文についてもやはり同じことがいえるのでしょうか? 夏休み中はまとまった時間が取れるので、その時までは手を付けないほうが賢いのか、断片的にでもやっておくべきか、一般的にはどうなのでしょうか? 当方、学習塾には通っておらず、記述現代文に関しては初心者です。あまり相関性はないかもしれませんが、センター現代文はだいたい80~90の間です。また、理系だからといって現代文の対策を 蔑ろにするつもりはありません。 変な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。

みんなの回答

  • key00001
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回答No.2

お礼ありがとうございます。 > 「本質」や「慣れ」を実感するまでの道のりは、決して短いものではないでしょうが、最終的な目標はそこに置こうと思います。 私の駄文の「本質」を見抜いて下さった様で、さすが東大を目指す、未来を担う優秀な若者ですね! しかし、最終的な目標は、国語学習の本質を見抜いたり、東大に合格することでもないです。 大学に進学し、何を学んで、社会でどう活躍していくか?ですよ。 その上でも「言語」「言葉」は非常に大事であり、特に母国語である国語能力は重要であることは、言うまでもありません。 いくら自分の中で素晴らしいことを考えていても、それを正しく人に伝えないと、素晴らしさを損なってしまいます。 逆に、素晴らしくない場合には、言葉でごまかすことも出来ますよ。(笑) 自分の意思を伝える場合、 ・内容に対し最も的確な単語を選択。 ・必要に応じてふさわしく形容し。 ・それを文法的に正しく接続。 ・相手や状況に応じ、敬語化など体裁を整え表現する。 逆に聞いたり読んだりする場合は、相手の表現も正しく理解し受け止め、場合によっては意訳もしてあげる。 現代文の国語試験などは、概ねこれらと同じ能力を要求しているだけで、社会に出たら当たり前で求められます。 大したことじゃないし、逆にそう言う能力を身につけなければ、社会に出たら苦労するだけです。 日本語は、非常に奥が深く、未だに学者間でも結論が出ていない議論も沢山あり、極めるのは不可能に近いくらい難しいです。 しかし、母国語を堪能に使いこなすことは、誰でも出来ます。 コレは、「コイツと本気で判り合いたい!」「自分の真意を完璧に伝えたい!」などと言う気持ちじゃないかな?と思います。 従い、ちょっとだけ意識すれば、友人と会話するだけでも、国語能力は鍛えられますヨ。 たとえば、会話で些細な違和感などが生じたら、放置せず「なぜ?」と考えてみるだけで良いです。 国語学習の本質などは、案外、こんなトコでは?と思います。 国語だけでは無く、英語など他国語学習も、「本質」はコミュニケーションです。 極論すれば、数式などでさえ、コミュニケーションの方法の一つですよ。 人が読めない難読漢字を駆使して知識をひけらかしても、コミュニケーションは「出来ない」です。 そういうコトをするのはバカと同じです。 あるいは、知識は豊富にも関わらず、人との関わり合い方が下手で、一言もしゃべらない様な東大生もいますよ・・。 そう言うバカなお利口ちゃんにならないで下さいね。 「知識」+「知恵」=「知性」で、いずれも重要です。 知識をひけらかす様なのは「下品」です。 「知性」+「品性」=「人格」です。 質問者さんの人格形成上に、高学歴が必要なら東大を目指せば良いです。 しかし東大卒は、知識量では周囲の尊敬を集まられますが、人格が尊敬されるかは、全く別の話し。 人格が尊敬されるのは、パフォーマンス、即ち「言動(言葉と行動)」です。 言葉・言語、特にその中核をなす母国語を使いこなすことは、非常に重要です。 これらも国語の本質かと思います。 そういうコトを意識してりゃ、母国語など簡単に身に付きますよ。 「言葉」「母国語」を大切にしてきた人は、概ね成功しています。 逆に、たとえ総理大臣になっても、自分が発した言葉に責任を持たず、平気で公約違反をする様じゃ、小学生にもバカにされてるでしょ?

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.1

国語は学習だけでは身につきにくい学問です。 「本質的な解法」など、勉強したところで、解けない人は解けないし、逆に勉強していなくても、解法以上の能力が自然に身に付いている様な人もいます。 従い、先に結論を申せば、「一般的」は無いと言って良いです。 自分に合った方法を見つけないとダメで、更に言うと、何をやってもダメな人はダメです。 ただ、国語の現代文を、毎日勉強する必要は無いでしょう。 英語の場合、英語に慣れる必要があります。 しかし普段日本語を話す日本人は、現代国語には脳が慣れきっていますので、敢えて毎日勉強する必要性は低い・・と言うより「無い」です。 集中的でも、気分転換程度で日々やっても、問題や関係は無いでしょう。 自分のやりやすさとか、頭に入り易さなどで、やれば良いと思いますよ。 それと、国語でやっかいなのは、機微(ニュアンス)とか感性的な部分で、これだけはどうしようもありません。 極端に言ってしまえば、模範解答が正解と言う根拠もありませんからね。 出題者の意図と、原作者の意図が同じかどうかなど、判らないし。 それにも関わらず、国語が苦手な人は、「正解と違う」と言うことや、正解を聞いても納得出来ないことに、自信を無くしてしまいます。 正解を聞いても解答者が納得出来ないとか、疑念を持たせる様な問題は、「問題が曖昧」「悪い」と考えれば良いですよ。 たとえば、「主人公の気持ちを次の5つの中から選びなさい」などと言う問題は、最終的・実質的には概ね2択ですよね? 正解っぽい答えは2つ(せいぜい3つ)で、その中で悩むワケです。 間違いの方は、「引っかけ」です。 悩む原因は、「巧妙な罠」が仕掛けられている場合と、単にややこしく表現しているだけの場合です。 もし間違えたとして、巧妙な罠なら、正解を見て「ナルホド!」「やられた!」と思えますが、ややこしい表現などの引っかけは、すんなり納得など出来ません。 あるいは、問題文が有名な原作であれば、多少は原作者のことや原作の時代背景などを知らねば、確実に解答は出来ない様な例もあり、こんな問題は、原作(者)を知らなきゃ、どうしようも有りません。 私自身は、国語の試験と言うものは、問題のみと向かい合うだけじゃなく、出題者との勝負だと考えています。 国語の試験問題は、良問と悪問が混在していると言っても良いです。 数学などと違い国語の場合、「相手」や「問題の良し悪し」もあるので、「一般的」が無いとも言えますね。 試験問題を見て、出題者が巧妙な罠を仕掛けてきている良問なのか、ややこしい表現くらいで惑わせているだけの悪問なのかを見抜けば、正解のパターンなども判ってきます。 国語の試験の「本質」や「慣れ」は、そう言う部分だと思いますよ。

ryo5121
質問者

お礼

なるほど、現代文は他教科のような王道はないのですね。確かにおっしゃる通りだと思います。 本屋で問題集を探していると「解法公式集」なるものが眼に入り、そこから勝手に「一般的」な解法なるものの存在を妄想していたようです(笑) まずは、すこしずつ問題に当たってみて、自己分析をし、自分に合った勉強法を探すのに努めることにします。 key00001さんがおっしゃる「本質」や「慣れ」を実感するまでの道のりは、決して短いものではないでしょうが、最終的な目標はそこに置こうと思います。 丁寧な回答ありがとうございました。頑張ります。

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