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完戸建之助五箇条申披きとは?
明治初年に写したものが破損し又、明治35年に再度書写されたものが家にあります。表題「完戸建之助五箇条申披之事」となっています。 幕末ころの内容だと思いますがくずし字でよくわかりません。戸田采女、惣大将榊原、井伊掃部などの名前が初めごろに判ります。これは何があって申披きをしたのですか?なにか事件があったのですか?
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No.1です。 矢張り違っていましたね。 詳しい内容が添付され、全容がつかめました。 第二次長州征伐(長州戦争)に関連する資料になります。 慶応2年6月に戦闘開始で、その前の5月の話です。 征長幕府軍は広島に集結し、長州軍も出動準備を終え 一触即発の状態です。 幕府軍の本営の寺へ、毛利侯の名代として完戸建之助 が赴き、幕府の長州に対する詰問(長州を攻める口実) 五箇条に対し釈明したものです。 勿論これで幕府が赦すとは考えておらず、戦争開始の 一儀礼として行ったのでしょう。 すぐ戦が始まり時間稼ぎではない。 釈明をきかず仕掛けた幕府軍が悪い。 理は長州軍にある。 大義名分を得る儀式です。 元の文書も写しも含め、これ一通しか残っていなければ 貴重な文書です。 他にあったとしても照合などに 使えます。 山口県の県の資料を扱う部署に話をすることをお勧め します。 歴史家や学者に持ち込むのは良くありません。 抱え込んで仕舞う人がいるからです。 誰でも見られ研究出来るようにするのが大切です。
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- Pinhole-09
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もしかして「完戸」でなく「宍戸」ではありませんか。 宍戸だと大垣藩主戸田采女、水戸浪士に暗殺された 井伊掃部、宍戸藩の重役の榊原(新左衛門)の名から 水戸天狗党の乱と水戸藩の勤王、佐幕の抗争に関連し 幕府に責められた常陸宍戸藩の重臣の釈明状では ないかとも考えられます。 ぜんぜん見当違いかも知れません。
補足
回答ありがとうございます。 本文での情報不足でちょっと違うようです。 全体で115行程あってその書出しあたりに見えた名前を本文に書き上げたものです。完戸建之助で知ってる方がいれば内容が解かるかと思い質問しました。数代前の人が2回も書写して残しているので何か重要な記録なのかなと思ったり又は瓦版か読み本・浪曲などの写しなのかわかりませんが・・・ もう少し補足しますと 端々抜粋ですが次のようなことが書かれています。 ○は判らない文字で・・・は省略です。くずし字の読み誤りもあるかもしれませんが。 完戸建之助五ヶ條申披之事 芸州広島御菩提所国○寺慶応二年寅ノ二月御公儀ヨリ長州エ御○合之事 御公儀○御名代戸田采正○御普代惣大将榊原式部太夫伊井掃正○右三方国○寺法応の間被為在御座○間ニハ大筒小筒千五百丁○千筋弓五百挺御旗本並ニ紀州家中諸大名家中壱万五千人御固有之○皆々鎧兜ニテ厳重之ヨソオイ○○長州之名代完戸建之助年拾九才家来○野重太年拾八才上下六十人ニテ国○寺ニ参り完戸建之助ハ長上ミ下モニテ○○ヨリ通ル時ニ芸州公之御寺奉行浅野内膳御案内ニテ法応の間ニ至り申○ハ・・・・・・省略 ・・・・ 以下は五箇条のことか? ・・・ 防州山口に新城を築くは謀反の企て不軽○○罪・・・ 一昨年来○士を防州ヨリ九州エ船渡スハ○○不儀先例有之間敷候○・・・ 長州家中之者京都エ飛道具ニ入込焼討騒動スハ○○京都の者町人難儀に及日本をさわがする事全朝敵にて・・・ 一昨年長州へ亜○利加船入込候○公儀へ何の引合も無之徒ニ御○○○○又罪○るべし・・・ 昨年六月公儀より度々使者有之・・・ずっと続くが以下省略 ・・・・ 上記でもまだよくわからないかもしれませんが なんとなく領内での動きのことで公儀に毛利太膳大夫○の名代で申披きしたときのようすなどが書かれてるいるようだ?
お礼
回答ありがとうございます。 第二次長州征伐前の勉強をもっとします。