• 締切済み

考える=価値 なら 知的障害者<一般人 なのか

考えることに価値を置くと知的障害者は価値が他の人間より低いといえますか。 最高の考える力を持つ知的障害者と最低の一般人の比較とかだと意味無いですので、一応各グループの平均の考える度合いを基準ということで。 知的障害者というのも基準が微妙ですが微妙な点についてはどちらのグループにも入れない方向で。 ここでは思考能力が欠如している人を知的障害者と呼ぶと思ってください。 考えるというのも曖昧ですが、基本的に理性全般を指してます。具体的な部分については回答者様で定義してくださっても構いません。 感情論ではなく各回答者様の哲学を明確にして下さって、必要であれば言葉の定義もしながら話してくださると助かります。 またあまりある程度は知っていますが専門用語は最小限に絞ってくださると助かります。

みんなの回答

回答No.7

こりゃ、知的障害者の自殺願望だな。 品性下劣。 自分の価値の低さを嘆いたほうがいい。

314h
質問者

お礼

私はタブーに触れたりするそういったすべてのことを人間の感情や品性に反すると片付けてしまって、考えを放棄した人こそ人間としてどうなのかなと思いますが。 あなたは地動説に対して天動説を唱える人のようです。 私の詳細なこの質問をするに至るまでの経緯をきいて明確な意見を持って批判するなら私も受け止めますがそれだけだとただの侮辱にしか見えないですね。

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  • rizakura
  • ベストアンサー率31% (11/35)
回答No.6

私の個人的な考えです。 私としては人の価値は知能で計るものではなく、また、価値を求めるものでもないと思っていますが。現在の論点ではないので省きます。 人の価値を知能だけに絞り、「考える=知恵」なら「知恵(勉強、仕事能力)=価値なら知的障害者<一般人」が成立するのかもしれません。 仕事の能力だけ取れば平均的な一般人のほうが、役に立つでしょう。ただ、仕事ができない一般人もいますし、仕事のできる知的障害者も中に入るでしょう。が、今回は今回は平均なので例外は計算に入れないことにします。知恵だけを取った場合は、一般人より、知的障害者の方が劣る(劣るとは言いましても、障害者の実務上の貢献度が一般人より、低いと言うことなので、実務上の貢献度の面でのみ、劣ると言うだけかもしれません)と言うことかもしれません。 ですが、考えるを「感じる」、「思う」に定義すると、ら「考える(感じる、思う)=価値なら知的障害者<一般人」は成立しないのではないでしょうか。知的障害者の方はうまく表現できないだけで、人間としての感情を持っています。一般人と同じように「感じて」、「思って」いるのです。その面では一般人に劣ると言うことはないでしょう。 そして、知的障害者が小学生並みの知能で、一般人より価値が低いとしますと、「小学生は、一般人より価値が低い」と言うことになってしまいます。この場合は一般人の定義も、あやふやになりますが。 「子供の方が一般人より価値が低い」という文章には、違和感を覚える方もいるのではないでしょうか? 以上が私の個人的な考えです。

314h
質問者

お礼

もちろん感性を元にするとまた違った答えが出てきます。ただ一旦理性において価値を判断してみて、何か理性に価値を置きつつも知的障害者=一般人の価値となる考えはないかな~なんて思いで質問しました。 他にも別のものに価値を置きつつ意見を述べる人も出るでしょうからそういったものも副産物的な感じで受け取るつもりでした。 常識から見れば非人間的ですがね。 >「子供の方が一般人より価値が低い」という文章には、違和感を覚える方もいるのではないでしょうか? これを言えばこの質問自体が違和感バリバリですからね(笑) 冗談はおいておきまして理性で考えることの多くは意外と違和感を覚えられるものだと考えているので、そこは判断基準になるか分かりかねます。 ご回答ありがとうございました。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

考えることに価値を置くと知的障害者は価値が他の人間より低いといえますか。 ○ 言えないんですよ。この論は考える主体が脳しかないという間違った観点から来るものですね。 考える主体は心であって、心の中心は心臓あたりにありますからね。脳が働かなくても考えることは同じなんですね。 脳はコンピュータで例えるとCPUですから、CPUが故障すると全体の制御ができなくなりますが、コンピュータを使っているのはキーボードに向かっているあなたであって、CPUではないですね。キーボードに向かっているあなたが心ですから、つまり、操縦者はみなまともなんですね。肉体というロボットが自由に動かないというのが事実なんですよ。だから知的障害者と呼ばれていますが、実は知的障害ではなく、脳の機能障害なんですね。それで考えをうまく表現できないだけでみな分かっているのですよ。故障した肉体がなくなればみな普通の人と同じということがわかります。 だからね。脳学者の唱える全て脳しかないという考え自体が間違いですから、このような間違った考えを信じてはだめですね。というのがまっとうな哲学者の回答になりますね。

314h
質問者

お礼

唯物論を唱える哲学者もいますし、まっとうかどうかわかりませんが応答します。 >考える主体は心であって、心の中心は心臓あたりにありますからね。 この根拠や唱えた人を教えていただけませんか? >考えることは同じなんですね。 これは普通の人間と根本的な考え方ことは変わらないということですか? ところで全体的なことを通してみるとこの世の中とは別に精神世界(実際の姿)があって、今の肉体ではわからないかもしれないが、そこではすべての人はすべてわかっていると述べているように見えるのですが。 ですとなおさらあなたが一体何に価値をおいて意見を述べているのか分かり兼ねます。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

”考えることに価値を置くと知的障害者は価値が他の人間より低いといえますか”     ↑ 理論的にはそうなるでしょう。 それがまずい、となれば、何かを持って 来る必要がありますね。 人間の価値は、考えることだけに尽きる ものではない、とかですね。 その他には、考えることに価値をおく、その ことが問題だ、とか。 捕鯨問題で、鯨は頭が良いから殺すのは悪だ、 という論法がありました。 これなどは、アフリカ人は頭が悪いから殺しても 奴隷にしても良いのだ、というかつての欧米の 論法に繋がります。

314h
質問者

お礼

>これなどは、アフリカ人は頭が悪いから殺しても奴隷にしても良いのだ、というかつての欧米の論法に繋がります。 そうですよね。この考えだと動物と人間の差があまり明確でなくなりますしね。 これは少し質問とはそれますが、最近神という概念なしに動物と同じように扱ってはならない理由が、社会に生きているからという以外見つからないんですよね。 私個人で見ればそれは幸福に生きるための妨げになると思っていますからやりませんが、そうじゃない人もいるかも知れませんからねぇ、、、 ご回答ありがとうございました。

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回答No.3

「認識性が価値がある」というのと、「生きる目的である 充足量の最大化は認識性に比例する」というのは、根本 的に違う所がある。 前者は社会的評価で、後者は主体的な価値観である。 つまり、前者なら「認識力の低い人間は役に立たない」が、 後者においては、もし「役に立たない」からといって、一旦 この世に生を受けた者を害するならば、それは「認識性」 以前の「充足量の最大化」に反する事になる。 「認識性」の深まりは、確かに充足量の最大化に寄与 するが、それは喜びの大きさと同時に悲しみも増大させ るものであって、“何でもいいから認識が深まればいい” というものではないのだ。 自己の生の本質性に根差した意志=自己の生存の社会 生命性の自覚化=自律的社会行動(他我性)=助け合い としての生=生存の最大化×生きる事自体による充足 ×最大の感受性=人生を通算した充足量の最大化に つながるのだ。 そこにおいて、何らかの能力の低い(物質的繁栄に貢献 できない)者を否定しようとする指向は、その根本に自己 チューや即物性を先入化した勘違いである。 問題は、愛(他我)があるかどうかであって、どのような 微力(精神的充足量の最大化への寄与として)であっても、 愛があれば確実なプラスだし、どのような高い能力も他人 に害を成すなら、その大きさはマイナスでしかない。

314h
質問者

お礼

>この世に生を受けた者を害するならば、それは「認識性」以前の「充足量の最大化」に反する事になる。 これがいまいちわからないですね。死刑執行人などは充足量の最大化に反しているのですか。 平均的な知的障害者と平均的な一般人の主体的価値は、充足度が一番の問題であり、思考は充足度を大きくも小さくもできるため変わらないということですね。 あなたの言うには思考は人間を不幸にするにも幸福にするにも役立つということでしょうが、そうすると幸福度は 最大の幸福度の知的障害者<最大の幸福度の一般人 最低の幸福度の知的障害者>最低の幸福度の一般人 といえると思いますがこれでいいんですかね。 また寿命がほぼ0,つまり人工中絶された赤ちゃんは最も幸福度の低い存在ということでいいんですかね。 この認識で正しいのであればこの補足に対する返信は結構です。 ご回答ありがとうございました。

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  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.2

「悩めるソクラテス」が、散々考え抜いて その答を出せたとして得た存在価値は 「満足した豚」とかわりなかったりする。 んじゃないでしょうか・・。

314h
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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回答No.1

知性の価値と人間の価値の区別(=ディスカッションドメインの区別)もつかんようじゃ、哲学には近寄らん方が良いで。

314h
質問者

お礼

あなたこそこういった話をただタブーとして捉えているんじゃないんですか。 質を問わない快楽至上主義だって立派な哲学だったりしたじゃないですか。知性至上主義だって十分な議論に足るものでしょう。そこから出た結論について話すのの何が悪いんですかね。

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