• 締切済み

考える=価値 なら 知的障害者<一般人 なのか

考えることに価値を置くと知的障害者は価値が他の人間より低いといえますか。 最高の考える力を持つ知的障害者と最低の一般人の比較とかだと意味無いですので、一応各グループの平均の考える度合いを基準ということで。 知的障害者というのも基準が微妙ですが微妙な点についてはどちらのグループにも入れない方向で。 ここでは思考能力が欠如している人を知的障害者と呼ぶと思ってください。 考えるというのも曖昧ですが、基本的に理性全般を指してます。具体的な部分については回答者様で定義してくださっても構いません。 感情論ではなく各回答者様の哲学を明確にして下さって、必要であれば言葉の定義もしながら話してくださると助かります。 またあまりある程度は知っていますが専門用語は最小限に絞ってくださると助かります。

みんなの回答

noname#155066
noname#155066
回答No.17

逆に難しい用語,哲学的語彙,例題,を使わず簡単に答えてあげます。 言えません。 そんな考えを思う貴方の方が,その人達より知的レベルが低いです。 哲学をかじっていて,簡単な道徳の区別もつかないとは… 無いと思考は別なんですよ。 と言っても貴方はいろいろ反論するでしょう。 その時点で貴方の徳のレベルが公になります。

314h
質問者

お礼

>無いと思考は別なんですよ。 誰が無いなんて言いました。以下じゃないかと言う仮定を立てただけです。 そしてそう言うなら人間と動物を分けるのに思考は全く関係ない点などを論証していただかないとね。 使わずですって?使えないの間違いじゃないんですか。 他の質問を見るとあなたに特別な知性や、哲学を志すものに重要な論理性を感じることは出来ません。 http://okwave.jp/qa/q7501362.html 哲学の厳密性、哲学の中にこそ道徳があることを知らないのですか。 確かに私はこうやってわざわざ知的障害者というのを出して感情や良心に逆らうように極端な質問をしていますが、それはこういった極端な例のほうが私の意図が伝わるかなと思ったんですがねぇ。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.16

11,13です。遠まわしなことは言っておりません。 社会とは、考えずに生きられるように最大限の人々を生かしている、構築されたシステムであるのに、 なぜあなたは、未来には、考えない人々の価値が薄れると思っているのかなと、 疑問に思いましたもので。 むしろ人工知能が高度な計算や予測に基づいて行政や環境保全をし、多くの人間が従うだけというのが未来図なのではありませんか。 ご質問は、思考能力の多寡というより、志向性が社会適合か社会不適合か、だけの問題だと思いますが。 あなたが理性とおっしゃっても、たぶんそれは社会的合目的性・社会的合理性のことにすぎないのではありませんか。 これらは確かに価値のあるもので、人が逸脱すれば蔑まれ白眼視されるでしょうが、 それを逆照射したなら、その人が考えないからでもなく思考能力が欠けているからでもなく、 社会の暗黙の合意における目的や論理が経験的に得られないためです。 その原因には知的障害もあれば生育環境の問題や文化背景の相違もありえます。 繰り返しますが、社会不適合が明らかなケースで知的障害者が蔑視されるのは、 社会の暗黙の合意における目的や論理を、彼が経験的に得られないためです。

314h
質問者

お礼

>社会とは、考えずに生きられるように最大限の人々を生かしている、構築されたシステム そういう捉え方でしたか!ここでもズレがあったみたいですね。 私は生きるために必要な時間を短縮してくれるのが社会の発展です。それによって人間は人生の意味だとか、それに向けた努力により力を注ぐために発展があるのではないかと考えています。 むしろ考えないという意味では生きることに追われていた昔の人のほうだと思います。現に哲学や科学が発展してきたのはそういった余裕ができてからの時代だと思いますし。 お互いの未来予想図のズレでしたか、勘違いすみません。 >むしろ人工知能が高度な計算や予測に基づいて行政や環境保全をし、多くの人間が従うだけというのが未来図なのではありませんか。 人間の思考には飛躍があると言われている以上、人工知能には決められた中で判断を下す力はつくかもしれませんが、新しい思想は生まれないと考えています。ですから決まった中で力を発揮するのは人間よりむしろロボットかなと思っていたんです。 >ご質問は、思考能力の多寡というより、志向性が社会適合か社会不適合か、だけの問題だと思いますが。 それを考えるという言葉の範囲内において定義して話して欲しいんですよ。特に厳密な質問ではないということですね。 ちなみに私は真理からの距離、神の被造物、社会において価値、根拠のない感情の4つの観点から回答が来るんじゃないかと思ってましたが、ほとんどが社会においてからの意見だったので少しびっくりしています。 多分色々ズレがあったのでお互いに話が噛み合ってなかったのだと思っているのですが、あなたの中で考えるを定義していただいて、考えた先の価値や、真理からの距離でもいいですし自由な結論を出して欲しかったんです。 ですから最後の結論は社会不適合だから軽視されるとかではなく、あなたの定義でいくと知的障害者<一般人はどのように否定されるのかを述べ、立場をはっきりして欲しいんです。 経験的に得られないためだとかではなくあなたの立場でイエスかノーかで答えてくれないという意味で遠まわしだと言ったんです。 ご回答ありがとうございました。

回答No.15

#3の者です。 >また寿命がほぼ0,つまり人工中絶された赤ちゃんは >最も幸福度の低い存在ということでいいんですかね 違います。死は幸不幸なしの±0で、苦痛はマイナスです。 だから自殺は意味があるのです(苦痛から逃げる=プラス指向)。 よく「バカは自殺しない」と言われます。 他人にとって耐え難い状況でも、認識できなければ苦痛には ならないのです。 もちろん、認識力が低い場合も苦痛はありますが、それは 身体的な痛みや目の前の他人からの叱責といった感覚的 なもので、状況が過ぎ去れば解決されるものです。 例外としては肉親の死といった「感覚的な苦痛」は持続的で、 認識の深まりによらず自殺の原因たり得ます。 草原を遊牧しているマサイ族は、「将来」という概念がなく、 刑務所に入れると“やがて釈放される”という事が理解できず、 散々暴れた後に(その状況がずっと続くと感じて)自殺して しまうと、ケニアに住んでた頃聞きました。 余談になりましたが、幸福の順序としては; 認識力の高い人の苦痛(長期的・社会的)<認識力の低い 人の苦痛(感覚的)<死(±0)<認識力の低い人の喜び< 認識力の高い人の喜び(長期的な意志や他人への愛による) という順序です。

314h
質問者

お礼

苦痛という概念をすっかり忘れてました。 丁寧な応答有り難うございます。

  • rizakura
  • ベストアンサー率31% (11/35)
回答No.14

補足します。 書けば書くほど私の教養の浅さが露呈するような気もしますが、一つの考えとして書きます。 「知的障害者は家族などの小規模のコミュニティのほうが価値が高く、 「会社」→「国家」とコミュニティが大規模なるほど、必要性が薄れ、「価値」は下 がる。」 と考えた理由を書きます。  規模が大きいほど、個人個人の影響力は少なくなる。  ↓  規模が大きくなるほど、個人の人間性は問われなくなる。  ↓  人数が増えるほど、価値は平均的になるため、例外的に価値がある人間、一人一人の存在は薄く(少なく)なる。  ↓  また、規模が大きくなるほど、単純な利益を要求される。  ↓  規模が大きくなるほど、人としてより、数字として見なされる。  ↓  個人個人としてではなく、数字として価値を計ると、知的障害者は一般人より、利益を生み出しているとは言い難い。  です。 「知的障害者は家族などの小規模のコミュニティのほうが価値が高く、 「会社」→「国家」とコミュニティが大規模なるほど、必要性が薄れ、「価値」は下 がる。」 を、言い直します。 知的障害者はコミュニティが小規模なほど、人間性などによる影響力が大きく、また、価値があると判断される例外の存在も大きくなる。 が、コミュニティが大規模になるほど、個人の、人間性などの影響力は薄れ、例外も存在が少なくなる。 最終的に、国家として利益を生み出す量を数字上のデーターだけでみれば「考える=価値 なら 知的障害者<一般人」である。 定義ですが、 考える=行動。 価値=利益。 として考えています。 以上です。 間違った部分も多々あると思いますが、よろしくお願いします。      

314h
質問者

お礼

>知的障害者はコミュニティが小規模なほど、人間性などによる影響力が大きく、また、価値があると判断される例外の存在も大きくなる。 例外というのは社会で価値を認められにく人のことで、それは社会に比べてコミュニティが小さくなればなるほど認められやすくなるということですよね。 それで先ほどの補足で述べたことを再度聞きたいのですが、その国家における価値とその小さなコミュニティ、ここでは家族とした場合、合算すると知的障害者と一般人どちらのほうが価値があるように思えますか? >考える=行動。 価値=利益。 行動というのは考え方を実行するということで、利益は精神的に+になるものと考えればいいんでしょうか。 ご回答ありがとうございました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.13

> 最終的に社会は争いがなければ知識労働者とロボットによってしか動かなくなると考えて > いるので、考えずに従う人間の価値は社会において!薄れるばかりだと考えています。 国家とはどういう仕組みだと思いますか? おのれの持たざる技術、持たざる知恵、持たざる材料、持たざる代償、持たざる保障、持たざる保安、を 人はどれだけ社会に補われていることでしょう。国民および市民の権利として手に入るようにと。 でなければ、大草原の小さな家を建て、糸を紡ぎ、薬草を採取し、器を作り、鉄を鍛え、武器を携え、明りを作り、水を汲み、伝書鳩を飼い、畑を耕し、道をならし、乗り物を作り、重い荷物を運搬し、物々交換して生きてみるとよろしいでしょう。 そうして常に考えて頑張っていくうちに、あなたが知的障害者でないなら、貨幣という便利な制度を考えたり、法律という便利な制度を考えたりするでしょう。 あるいはあなたはすべてを人から盗んで生きることもできましょう。またあるいは人に盗まれるのが嫌で保安保障制度を考えるようになるかもしれませんね。 機構を整えるということ。 そしてそれを改良していくこと。 こんにち誰もが政治参加でき、これを考える機会を持っています。 さて、機構の発展を考える人間の価値と、考えずに機構に従う人間の価値は、ちがうと思いますか? おもにマスメディア依存を指して一億総痴呆化と呼ばれたこともある日本ですが、 どれだけ「痴的しょうがない者」がいると思われますか?

314h
質問者

お礼

社会においてという観点で話します。 >さて、機構の発展を考える人間の価値と、考えずに機構に従う人間の価値は、ちがうと思いますか? ぜんぜん違うと思いますよ。 >どれだけ「痴的しょうがない者」がいると思われますか? かなり低めに見積もって半分はそうでしょうね。 何が言いたいんですか?そういう遠まわしな言い方をされても誤解があるかもしれないのでなんとも言えません。 ご回答ありがとうございました。

  • rizakura
  • ベストアンサー率31% (11/35)
回答No.12

前にも答えましたが、もう一度考えて、個人的な意見を述べさせていただきます。 今回は自分の感性を捨て、「考える=価値 なら 知的障害者<一般人」である、と断定して考えさせて貰いました。 そうすると定義が、 考える=仕事の能力。 価値=生み出す利益。 というのが、まず思いつきました。 「仕事の能力=生み出す利益 なら 知的障害者<一般人」である、と言うわけです。 会社からすれば、利益の少なく雇う「価値」が少ないといことです。 金銭では計れない利益などもありますが、今回は除外させていただきます。 さらには、規模を国単位にすると、 考える=知的行動。 価値=国民としての必要性。 というのが思いつきまして、 「知的行動=国民としての必要性 なら 知的障害者<一般人」である、と言うわけです。 スケールが大きくなればなるほど、その人の人間性、人格は問われなくなると思います。国からすれば知的障害者は「数字」としては「価値」が少ない国民だ、という事です。 結論としては、知的障害者は家族などの小規模のコミュニティのほうが価値が高く、「会社」→「国家」とコミュニティが大規模なるほど、必要性が薄れ、「価値」は下がる。 と言うのが私の今回の考えです。 以上です。

314h
質問者

お礼

>結論としては、知的障害者は家族などの小規模のコミュニティのほうが価値が高く、「会社」→「国家」とコミュニティが大規模なるほど、必要性が薄れ、「価値」は下がる。 と言うのが私の今回の考えです。 もう少し具体的にお願いしたいです。私の予測するところでは人格や人間性にによって近しい存在に影響を与えるということでしょうがその小さなコミュニティでは一般人=知的障害者 なのか 一般人<知的障害者なのか。 またそれは家族の幸福につながるからなのか、より知的障害者を知ることによって近しい人の人間性が向上して、幸福度がますからなのか。 などなどの点を明確にしていただけると助かります。 ご回答ありがとうございました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.11

> ここでは思考能力が欠如している人を知的障害者と呼ぶと思ってください。 > 考えるというのも曖昧ですが、基本的に理性全般を指してます。 《思考能力》が問題になりえるような論点は、知的障害をめぐるいかなる議論にも無いと思うなあ。 知的障害者は思考自体は盛んにやっている。またその思考の質が劣悪というわけでもない。 頭頂側頭野の機能不全という点からすれば、情報を獲得したあとに関連づけや細かい対象化ができない、 なぜできないかというと、真似て記憶に貯蔵する力が弱いため、動作の動機が弱く、経験も身に付かないからであり、そのようなスタート地点ゆえに具体認知の土台作りができないということは、そもそも概念形成が全般に弱くならざるをえず、情報を選び取る範囲も狭いうえ、作業記憶の強化も期待できず、優先順位を見出す材料や根拠に乏しく、行為の確認や反省も脆弱な状態にとどまる。 それでも、考えない、考えていない、ということにはならないんじゃないかなあ。 前頭野の障害の人ならなおさら、言語化やイメージ喚起の障壁があって、もしも将来、こういう人々を人工知能とリンクさせる技術が実現したら、ほとんど筋力の障害のような問題となるケースも少なくないだろうから。 近代社会の合理化と効率化によって、また移民の労働力を包括した経済体制によって、集団保育、集団教育が求められるようになりました。そこで知的障害者が区分されるようになりましたが、集団教育に反映するところの、社会や国家に沈殿するロゴス、歴史や文化の持つロゴスの、近代における変質に少しばかり目を向ける必要があるでしょう。 かつて生産共同体の家内労働に従事するにあたり、重度を除く知的障害者はできる労働に従事することで生産力に関与し、生育環境に結びついた習得事項も狭く特化していたといえます。それが、近代の工業化と産業化のもとでは、資本の流動力を支える賃労働者となることが生産を担うことにほかなりませんから、指示されたいかなる内容をも的確にスーディに処理する能力が求められます。 その能力の程度の高さが生産力の高さであり、そうした生産性の優劣が近代的人間の価値の多寡であるかのような側面があると思います。 ロゴスというのは、掬い取り、掴みという語源に由来する単語ですが、言語・イメージ運用原理とでもいうべき、そしてそのかぎりでは人間にとって情報の網羅的体系の総体ともみなしうる生きた掟である、といえるかもしれません。それは確かに理性によって統合された展望的世界であるでしょうが、その言語・イメージ・情報運用の網で掬い取るものを決定するのは、可変的な社会の都合であるということにこそ本題があるのではありませんか。 知的障害者をその網に掬い取らないような価値体系を、現社会はこの200年ばかり選択的に築いてきたのだということを押さえ、また、考えるということはこの近代国家の拠って立つ体系的な体制においては考えずに従うことほどには必要とされていないという点も見据えて、ご質問は練り直されるべきでしょう。あたかも真か偽かというような命題として提示する前に。

314h
質問者

お礼

>また、考えるということはこの近代国家の拠って立つ体系的な体制においては考えずに従うことほどには必要とされていない 最終的に社会は争いがなければ知識労働者とロボットによってしか動かなくなると考えているので、考えずに従う人間の価値は社会において!薄れるばかりだと考えています。 >ご質問は練り直されるべきでしょう。あたかも真か偽かというような命題として提示する前に。 一応考える事によって何も得られないだとか得られるだとかいうふうな論法でこの質問は批判も肯定も可能だというふうにしたつもりなので、特に練り直す必要があるとは思いません。 考える=価値の定義に問題があるのであれば考える=価値を否定するような理論を展開して回答をしていただくのも喜んでお受けします。 ご回答ありがとうございました。

noname#194996
noname#194996
回答No.10

あなたのおっしゃる”価値”は理解できます。 哲学の分野ではありません。 当然ながら民間の営利会社はより能力のある人間を正社員として雇おうとします。 よく考える能力は利益を生みますからそういった点を期待されるわけです。 これは経済性の問題でしょう。 特別な美女やイケメンが平凡人よりもTVでもてはやされるなどという価値の世界でしょう。 考える人間 考えない人間 これは知的な(IQの高い)人間かどうかとは無関係です。 IQ が高くても、考えない人間はたくさんいます。 障害者(知的障害者を含めて) 健常者 この区別は厳然としてありますが、人間としての価値の差はないとされています。 なぜなら、人間としての種が同じですから、強者、弱者の差があっても、恵まれたものが他をカヴァーして共生していくというのが現在の考え方だと思います。 感情論ではありません。

314h
質問者

お礼

哲学じゃありませんでしたか。何にすればよかったんですかね。。。 ちなみに私はこの前提なら!理性が弱いと真理から遠くなるんじゃないかという観点から知的障害者が価値が低いのではないかと考えていました。 社会での価値は社会に役に立つかどうかなので、共生だとかいうのは表向きに思えてしまいますね。あくまで社会における価値とする場合ですが。 ご回答ありがとうございました。

回答No.9

愚答に近いですが、参考までに。 1)「考えることに価値を置く」なら「より多く考えることのできる人」のほうが「(思考を基準として)価値がある」。 2)「背が高いことに価値を置く」なら「背の高い人が低い人」より「価値がある」。 3)「金銭に価値を置く」なら「金持ちが貧乏人」より「価値がある」。 どれもみな(たぶん論理的に)「真」だと思います。 上記で明らかなのは、質問文は、どうもトートロジーに近いということです。 それではそっけないので、補足するならば、「仮定」のところに「味」があるといえば、あるかもしれません。 「思考」というのは、この「問い」のいわば論理空間より、いわば「一息」先行するものなので、 つまり、説明したり、主張したり、反論したり、という行為を超越論的に「しばっている」ので、 1)を、2)や3)と同次元では扱えないように見えるからです。 「見える」と思わせぶりな言い方をしたのは、 1)と2)や3)の差異を強調するのは、いわば「伝統的な」「よくある」見方であり、 その違いはどこに根拠があるのか、懐疑的に「解体」するのがひところはやったものですから。 この「思考」をありがたがる傾向(これ=合理的判断がないと、とりあえず世の中がぐちゃぐちゃになりますから)、 への「復讐」が質問者様の真意かもしれませんが、すなわち、ここをごまかしていては、あらゆる「救い」が不可能となるというのが その真意かもしれませんが、 「思考」とは縁を切れないというのが私たち「凡人(健常者)」の宿命です。

314h
質問者

お礼

いえ、救いだとかそんなだいそれたことじゃなく(まず私は無宗教)、人間のどこに価値を置くべきか考える上でいくつか浮かんだものの中で理性至上主義があったのですが、問題点としてこういったものが浮かんできたので何か解決策、もしくは代替案はないかと思ってこういう質問をしたんです。 どうしてもこの問題が解決できないので外に求めたほうが早いかなと。 >どうもトートロジーに近いということです。 理性の目標は何かまでは書いてないですよね。ですから理性の目的を変え、理性の範囲を変えることによってもしかしたら私のこの命題も否定できるかもしれません。そうなれば歓迎なんですがねー ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

お礼欄に書いたものの訂正です。 多分私は真理に近いことが価値があると捉えているんですね。漠然とですが。 そしてそれに到達するには理性に信頼を置かなければならないと考えていました。そういう自分に対する批判の意味もあった気がします。書くときは思っていませんでしたがこう言えば言うほどそういう思いがどこかにあったようなきがします。つまりあなたのいう復讐ではないかもしれませんが、真理を探求し自分の哲学にそって生きようとする自分への疑問の現れなのかもしれません。 こういった思いにも改めて気づかせてくれてありがとうございます。

noname#156094
noname#156094
回答No.8

>感情論ではなく・・・ すでに答えが出ているのではないですか 感情論には負けてしまうという。 障害者の扱いにおいては、健常者との比較においての配慮という人間性が求められます。 比較だけで済ます配慮は、配慮ではありません。 また、配慮に欠けた比較は、人間性を無視したものです。 配慮という感情を抜きにした人間性は有り得ないからです。 障害者と健常者との能力の比較を論ずる、ということには、人間性の不在を感じるばかりです。

314h
質問者

お礼

あなたは良心に正直に生きることがベストだと考えているのですか? まずあなたが肉を食べるという前提で話しますが、そこに良心が痛むことはありますか?多分たいていの日本人なら犬やうさぎといったものを目の前で見ながらただ美味しい物食べるためにそれを殺すことに良心が痛むと思います。 しかし普通の人は美味しいというために肉を食べるし、良心が痛むことは殆ど無いといっていいでしょう。 上で述べたように人間性というのは実は怪しい側面があります。 確かに私は知的障害者の価値が低いというのには死に際の人と接したこともあり、あまり良くないだろうとは感じていますが、こういったデリケートな話題だからこそ、遠慮せずにえぐりこむように客観性を持って話さないとダメだと考えているわけですよ。 ただあなたこの質問に人間性がないといってらっしゃいますが人間性があるからこそこんな質問をするのですよ。 だって完全に人=モノ(唯物論的な)のように捉えていたら質問するまでもなく社会にとって(自分にとって)役に立たない人はいらないと結論づけますよ。 また私は思春期ですし早くから自分の哲学を確立しそれにそって矛盾なくソクラテスのように生きたいですからね。

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  • 大学の論文で迷ってます 初歩的質問ですが…

    哲学初心者です。 大学の課題で哲学の論文を提出することになりました。課題の内容はある哲学本を読み各自の日常の問題意識に関わらせながら論述しなさいというものです。指定本であるその哲学書の内容としては まず序論として哲学についての考察の仕方(自我への反省等)についての大まかな概要に触れそこから自我の本性を理性とし、人間の精神能力を3分類していき  受容能力・思うー思うという働きを知ると考えるに分けそこから認識論、真理論、論理学、合理論等  関係能力・有るー一般的にものが有るという点から存在論、もののあり方から空間、時間形、原因、刑相、質量、結果等。他には形而上学等  自発能力・行うー人間の行いを道徳・芸術・宗教に分け、道徳からは倫理学、功利主義、芸術からは美学、宗教からは宗教哲学 ※もっと細かく真理論であればそこから明証説や反映論などにもふれ、参照としてはデカルトやカントなどについても記述されていますがここではキリがないために省略させてもらいます。 という哲学を学習するにあたって基礎的な構成の本だと思います。この本以外にも認識論等でも他の哲学関連の他の本を参照し、自分なりに理解に近づこうとしたのですが課題の内容でもある日常の問題の意識と関わらせての論述となると、どう向き合っていいのか分からず全く進みません。哲学における思考での日常の問題意識に関わらせて考えるとはどのように考え、またここでいう日常の問題意識には具体的にはどのような問題を指すのか、皆様のご意見をお聞かせください 長文失礼致しました、アドバイス宜しくお願い致します。