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ニーチェは僧侶だったのでは?
ニーチェは僧侶をぼろくそに言っています。つまり、価値を転倒させて、善悪を逆転させたのだと。でも、そういうことを言っているニーチェこそ、それまでのキリスト教の価値を転倒させているではないか、善悪を逆転させているのではないかと思ってしまいます。そうすると、ニーチェも、単なる僧侶に過ぎないのではないでしょうか? 否、否、三度、否。というときに、これは四度、否。五度、否。ということも言える余地を作っています。ニーチェはきっと、何かをしたのでしょうけれど、結局、何もしていないのではないでしょうか。
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こんぱんは。こんなオッサンの戯言にお付き合いいただいて恐縮です。 ニーチェが原点に立ち帰れと言った原点は「ソクラテス」の世界です。キリストやその弟子であるパウロを指してのことではありません。 ではなぜ古代ギリシアなのかとの問題が頭を擡げてきます。それをソクラテスは明らかにしたからです。哲学にあって宗教にはないもの。それは「知る」ことでありそれと同時に「考える」ことです。哲学ではそこに立ち入り禁止の区域はありませんが宗教には明確なそして暗黙の領域としてそれが存在します。 哲学では「なぜそう考えるの?」が常に付いて回りますが、宗教では「そこから先は知ってはいけない」と無碍に拒絶される部分があることで「なぜ?」に関する許容範囲は制限されます。不可知論です。これに対しソクラテスはその結界を越えようとします。 その後ヨーロッパの思索は長い長い冬の時代を迎え、14世紀ドイツに出現する一人の人物を転機として大きくハンドルを切ることとなります。マルティン・ルターと活版印刷の普及が、それまで一部の階層に独占されてきた聖書および聖書の解釈を教会から解き放ちます。印刷物としての聖書が大量にそして手に入れる事の出来る価格で普及することが逆に教会の権威を疑う事へと変化していきます。当初は聖書の普及を意図した教会にとっては誤算でした。そしてこのことがもたらした更なる波及効果はルネサンスから近代へと受け継がれていき、ガリレオやケプラーそしてデカルトやライプニッツによる「検証による事実解明」が「真理」を宗教から解放する形へと進み、ヨーロッパは市民革命の時代を迎えることとなります。そして18世紀のフランス革命はヨーロッパに決定的な転換点をもたらします。市民社会の到来です。この市民社会の到来をニーチェが古代ギリシアの市民社会と対比させていたことは容易に想像がつくことです。古代ギリシアが他の世界と異なっていたのは市民と呼ばれる階層に属するなら誰しもが自由に政治参加できるとのシステムです。この「誰しもが」がニーチェにとって最も大切な要素であり、その対極にあるものが「キリスト教を独占的に所有している教会とその組織」だから「神殺し」によって全てを解放できると彼は考えたのでしょう。 『ツァラトゥストラ』に使われている言葉には「ヤァ」「イ・アー」がやたら目に付くとお感じになっていたことと存じます。この言葉はドイツ語の「Ya」であって英語の「Yes」に相当します。逆に否定・拒否を示す「Nein」はそうそう出て来ません。なぜでしょうか。もしこの作品に登場する人物設定をニーチェの思索に基づいて解釈するなら、イエスと言ってきて人物が「ろば祭」を経て覚醒する過程を読みとることもできます。つまりこの時点で最初の「イエス」が実質的に「ノー」に変化していると僕は解釈しました。 ニーチェの作品の殆どは韻文です。論文の様な形を採らず感性に訴えかける形で詩作を敢えて選んでいるともいえます。 お読みになった本の性質は「ニーチェ」の作品を解釈した人物の見解を更に解釈したことで、オリジナルとしてのニーチェの物の考え方が読みとりにくくなっていることが否めません。もし可能でしたら木田元や細谷貞夫といった哲学の研究者やドイツ文学の手塚富雄のエッセーをお読みなることをお勧めします。 木田元さんは僕がまだ学生時代だった頃、近隣の中央大学の哲学科で教員をお務めになっていて、国立にある僕の大学からは目と鼻の先でした。噂にもなっていたのでどんな話なのか一度聴いてみようと思い、哲学概論の講座に潜り込んで聴いた憶えがあります。刺激的でした。読書好き映画好きそして何よりも話し好きなおじさんとの印象がありますその木田さんがおすすめのハイデガーの『ニーチェ』も現在では文庫本で入手できますので肩も凝らずに読むことができます。
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- TANUHACHI
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ここにおもしろい書物があります。ニーチェの処女作『悲劇の誕生』です。彼はこの本においてそれまでのヨーロッパの価値観を二つにカテゴライズし、一方が「アポロン的」、もう一方が「デュニソオス的」です。 質問者様のお言葉を借りれば「縛る者」と「解き放つ者」です。ニーチェを読み理解するにはやはりニーチェそのものに立ち帰らざるをえません。彼の言葉を直接聴くこと以外には一冊の例外を除いて他にはありません。 その一冊が最初にご紹介したM.ハイデガーの『ニーチェI・II』です。この本と『悲劇の誕生』を読み比べてみますといろいろと面白いことも見えてきます。ニーチェが本当に蹴飛ばしたかったのはキリスト教そのものではなく「それを取り巻く周辺にある者達やそれによって創られた現実に転化した仮想世界(本来あるべきとは異なる、との意味)」であり、その中にはカントさえ含まれる。と同時に時間としてのヨーロッパの生成と変質過程(歴史的ヨーロッパの形成過程)をどの様にとらえ、どの様になっていくかを悪戯な目線で眺めていることもわかります。 ニーチェを理解するには『超訳ニーチェ』のようなものは最も排除されるべき性質の本であり、もし他の要素からニーチェを知ろうとするなら陳腐なことばですが、ワーグナー以外にはありません。「気分」と格闘する世界ですから、そこには論理とよばれるものはあっても論理学とは異なります。単純にAだからBなどと説明することが可能な世界とはひと味もふた味も異なる世界です。近代の思索の足跡を辿ることは論理付けと気分をどう天秤に掛けるかを楽しむ世界です。どうぞ楽しんでください。
- TANUHACHI
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???。「ニーチェは僧侶をぼろくそに言っています。つまり、価値を転倒させて、善悪を逆転させたのだと。でも、そういうことを言っているニーチェこそ、それまでのキリスト教の価値を転倒させているではないか、善悪を逆転させているのではないかと思ってしまいます。そうすると、ニーチェも、単なる僧侶に過ぎないのではないでしょうか」この質問文の前提には2つの要素を交雑させてとらえている誤解があります。 質問文を読みますと、もしそれまでのキリスト教的価値観が教会と神学者によって構成され維持されてきた性質のものならば、それに対しニーチェが批判や解釈を加えるのは彼の自由であると同時に近代の知性が負う使命の一つでもある。 近代以前の認識論のあり方として、「キリスト教的でないものおよびその価値観を有する者=反キリスト者」と断ずることが一般的であり、それに対する疑問から生まれた結実がルネサンスおよび宗教改革です。ここで重要な点が「ありのままの姿の人間、をありのままにとらえること」動物界の一綱として存在すること、その前提として人間は神によって作られたものではなく、逆に神を創ったのは他ならぬ人間であることを事実として認めることです。 教会と神学者はこうした見解を極端に嫌悪し憎悪の対象と見なします。文面からは「キリスト教的価値観に誤りはない」との認識がうかがえますが、このスタンスに立つなら「ニーチェもキリスト教的価値観を否定する別の宗教の僧侶である」との認識も一応は成り立ちます。 しかし厳密な意味で言えば、彼はキリスト教を殺した役者です。最後通牒を突きつけた思索家です。ハイデガーの論文『ニーチェ』をお読みになりましたか?。この論文は「I.美と永劫回帰」「II.ヨーロッパのニヒリズム」から構成され、自然を生きたものと見る見方を復権することによって、自然を制作のための死せる材料としか見なかった西洋文化(つまりキリスト教文化)を批判し解体しようと企てています(=古代ギリシアおよびルネサンスによる人間認識への回帰)。 これは不自然ではありません、むしろ思索のあり方としては健全です。キリスト教的価値観を孫悟空の鉄輪のように一方的にはめられてきた西洋哲学をその桎梏から解き放とうとすることが僧侶であるとは僕には思えません。途轍もない勘違いをされているように感じられます。ニックネームとしての「神殺しの司祭者」の意味は「それまでのヨーロッパ的世界に終止符を打った」との譬喩表現であり「それまでのキリスト教の価値を転倒させているではないか、善悪を逆転させているのではないか」はごく普通の認識となります。その点に問題があると考える方が考えすぎでしょう。ただ質問者様が教会関係者ならば、ニーチェに対してイチャモンの一つも着けたくなりはしますが。ご自身の論理を一度検証なさることをお勧めします。
補足
私は宗教関係の人間ではありません。むしろ、宗教を嫌っています。 ただ、ニーチェの解説書を読んでいたら、本来、強者であるニーチェが弱者の考えに沿って行われていると感じ、危機を感じたのです。ですから、少し安心しました。 僧侶は縄で民衆を縛り付けていたのであり、ニーチェはその縄を解いたということであるならば、確かに、単なる逆転劇ではないですね。しばる人とほどく人は違いますものね。
- mmky
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ニーチェは僧侶だったのでは? ○ おもしろいですね。あたっていますよ。僧侶にも2種類があるのですね。 天国の善悪を説く僧侶と地獄の善悪を説く僧侶ですね。この二人の僧侶の説く善悪は真逆なんですね。 ニーチェにとっての神は地獄の神ですね。決して神を否定してはいないのですね。 否定したのは天国の神ですね、事実、ニーチェは悪魔になっていますから、地獄の僧侶であったことは間違いないことですよ。宗教とよぼうが哲学とよぼうが染まれば、その世界に行くことになりますから、ニーチェも立派な僧侶ですね。まっとうなものは決して染まりたくないですけどね。
補足
ニーチェを否定する人物がどういう人物かによりますよね。つまり、それが過去のキリスト者である場合と、そうでない新たな人物の場合です。いわゆる超人かな。 僧侶が二種類なのかどうか私にはわかりませんが、否定の否定は肯定なのであり、肯定の否定は否定なのだから、素直に考えて二種類であるというのは自然だと思います。ただし部分否定とかあるから、そんなに生易しくはないでしょうが。 プラトンの「国家」などに出てくるソクラテスの反駁者は、ニーチェたりうるのでしょうかね。その辺もお聞きしたいところです。もし、反駁者がニーチェ程度であるならば、プラトンはニーチェの出現を予期していたのですから。
- kusirosi
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ニーチェは 僧侶の職歴はない。 学界に属していた時は古典文献学者、その後は在野の哲学者である。 ※牧師の息子であり、確かに大学進学時は神学を学んでいたが、ほとんど聖書を理解しえない内 に放棄し、 転校している。 イスラム世界に生まれていたら異端のウラマー(イスラム法学者)になっていたかも。
補足
いえいえ、役職がどうのこうのでなくって、ニーチェの非難している僧侶、ニーチェの作品に出てくる僧侶のことを言ったまでです。つまり、価値転倒を行ったのではないか、というところが問題です。
補足
ニーチェの著作では、悦ばしき知識、この人を見よ、善悪の彼岸、道徳の系譜、ツァラトゥストラはこう言った、くらいを読みました。私が最近読んだのは、富増「図解でわかるニーチェの考え方」です。他に永井均の「これがニーチェだ」も読みました。それから、超訳ニーチェの言葉も読みました。でも、ハイデガーの著作は読んでいません。悲劇の誕生も読んでいません。 仮想現実の否定というのは、なるほどと思います。カントは物自体という虚構を作っているから、カントも拒否されているのでしょうか。でも、現実ってどういうものなのでしょうか。ニーチェ自身が新しい虚構を作ったとは言えないのでしょうか。大地というのは、本来あるべきものなのでしょうか。ニーチェは古典文献学をやっているせいか歴史を持ってきますよね。昔に帰れ、という発想が強いと思います。つまり、キリスト教の伝道者パウロ以前に立ち戻れ、と言っているように思います。でも、それが現実なのでしょうか。