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「神は死んだ」について
学校の倫理の授業で、ニーチェをやったのですが、 先生が、「キリスト教道徳が結局キリスト教自身の首を絞めることになってしまった。」 というようなことを言っていました。 キリスト教道徳の弱いものをかばうような姿勢が人間の精神を卑小化してしまったというのは理解できましたが、 なぜキリスト教そのものを否定することまでになるのでしょうか? 私は浪人生でして学校のノートを読み返していたら上の記述があったので、先生に再び質問することはできないので、もしわかるかたいたらお願いします。
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こんにちは。 聖書記者ヨハネは ○ 神が ひととなった。 ○ 霊が 心と体としての肉になった。 ☆ という意味のことを書きました。《神あるいは霊》とは 《何も人間には分からない》という意味です。《無根拠》という意味です。 あるいは 《人間の持つ経験合理性では分かるか分からないかが 分からない》ことです。 つまり 神は 人間には 表象し得ません。それゆえ 《霊》ということばでも表わします。 この《表象し得ぬ無根拠》が 死ぬわけがありません。もしくは 死ぬか死なないかは 人間には 分からないことです。言いかえると 神が存在するかしないか これは 人間には 分かりません。 《死んだ》と言われた神は 観念としての神 のことです。ひとが勝手に 観念として抱いていた神のことです。つまり 神ではないものです。 《心と体》としての肉を超えたところの霊に関して 死ぬ・死なないは あり得ないことです。あり得るのは 心ないし精神ないし理性で表象し得たと言い張るところの観念の神が 死ぬことです。想像裡に現われたり ひとによっては 捨てられたりする思念としての神 これは 死んだりまた現われたりするわけです。 《道徳》も 同じことですね。ひとが――それは 自由だということになっていますので―― 人と人との関係の形式について 自由に その内容を考え 社会共同のならわしとして あるいは 規則や規範として 〔あるいは法律として〕 持つことになります。 ところが 観念の神と同じように おそらく 自分の能力と努力によってだけでは この道徳規範を守ることは むつかしいでしょう。しゃちほこ張って生きつづけるひとは いないでしょう。 もし信仰として言うとすれば 無根拠の神を受け容れたそのこころに ひょっとしたら その神の霊がやどって ひとを愛するということも 現実に できるということなのかも知れません。(霊がやどるというのも 《無根拠》に関して ただ 文学的に表現しただけのものです)。 ですが 観念の神あるいはそれと同類の道徳規範 これらによっては ついぞ われわれ人間が あたまに思い描いているだけであって 現実にその思いが実現するということは なかなか ありません。 この観念の神に対して ご苦労にも 神は死んだと言ったひとは わざわざ 超人というやはり観念の神を 別様に 作り上げようとしました。そういう問題のようです。自分自身の首を締めることになったようです。
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- kigurumi
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http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2821689.html No.3さんがうまく説明されてます。