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書にみる主観の孤立
書の素晴らしさとは、主観の孤立といったところにあるのでしょうか? 書くということは、主観の存在証明なのでしょうか?
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>書くということは、主観の存在証明なのでしょうか? 何を書くのかによりますが自らの思いでなりを記録したりするのであれば主観の存在の証明になります。それをみて「あ~なつかしかったな~」というのは見た時の感情的な喜びです。なので証明でありながらなおかつ新しい発見があるのも記録という事になると思います。無論見たいときに見れば言い訳で残しておくことに損はないと思います。ただ新しいことを創造するという意味では過去のみでは難しく他の何かを吸収したり独自の発想等を織り交ぜることによって新しい創造ができ上がるので記録を新しい創造を作る材料にするならば新しい創造の役に立つような利用法が望ましいでしょう。無論記録しようがしまいが本人の自由ではありますが、旅行や楽しい出来事などは記録しないと忘れてしまう可能性があるので私は残しておきます。あとあと見て「あ~こんなことあったな~w」と喜びに浸ったりします。まあごくごく一般レベルの意見ですな~w
- kurinal
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「表現」ということと、「物事の一回性」ということを、連想します。
お礼
なぞる・・・ということはしない 訂正も真似もしない たった一回だけの線 を書く それで済ます そこに何を求めるかは自由
全くの素人ですが、毎日水をつけた筆で段ボールの上に字を書いています。書かれた字はやがて消えてしまいます。書かれた字を主観(のあらわれ)と思ったことはありませんが、書に限らず何事もずっと残れるものではないと思います。
お礼
残ってはいても、書くと同時に消えていくもの 筆を走らす瞬間にのみある主観のひろがり だが、孤立している 紙という宇宙に記す主観の自在
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
どんなに主観であっても、言語そのものが、単なる空気 の振動や紙のシミに過ぎないものが送り手と受け手の 脳に同じイメージを励起する=共感の産物に他ならない 以上、その「主観」は限定的である。
お礼
書家によって、紙のシミが異なる >その「主観」は限定的である。 限定と孤立感は違う そんな感じがします。
お礼
商業デザインは感性の照合に耐えやすく 記録の書は無機な符号の羅列 自分だけの符号と言葉を求めて書いたものに満足はない 欠けているという主観の孤立 だが、誰も直せない