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キリスト教
キリスト教の学校に通いながらも、全然よく分からないないと言う イエスは何故全員の弟子に見捨てられ裏切られてしまったのでしょう?(最後の晩餐) イエスキリストの生涯34年(短命) 彼が人々に教えた年月は3年にもみたない イエスは 何を行い 何を伝えたかったのでしょうか?
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- st_augustinus
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イエスはユダヤ教徒です。 ただユダヤ教を広めたかったんでしょう。 しかし、戒律の厳しいユダヤ教を病人や女性などにも広めるために 色々と異端なことをしていたから、びっくりされたんでしょうね。 イエスが伝えたかったことはユダヤ教ですが、 弟子たちがそれを拡大解釈してキリスト教というものに仕上げたんですよね。 教えの内容に儒教的なものも入っているので、 イエスは儒教の影響も受けていたと思いますが、 結局ユダヤ教の教義内容を伝えていたイエスと、 自分たちが新興宗教の権威となりたかった弟子たちとの確執があったんでしょうね。
- cincinnati
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>キリスト教の学校に通いながらも、全然よく分からないないと言う 日本も諸外国も同じなのかもしれませんが、キリスト教を標榜しておりますが、それを実践していないという学校が多く見受けられます。批判に聞こえてしまうかもしれませんが、キリストを建学の精神としながら、実態はこの世の他の学校とほとんど変わらないという学校や大学が多く見受けられますので、そのような学校ではキリストのことがまるでわからなくても驚くにあたりません。 >イエスは何故全員の弟子に見捨てられ裏切られてしまったのでしょう?(最後の晩餐) イエスが最後の晩餐の後にローマ兵に逮捕されて、十字架につき、その後3日目にイエスが蘇るまで、キリストの弟子たちはキリストについてその本質を理解していなかったので、困難や死に直面したときに、人間的な恐怖心からイエスキリストを裏切りました。本質的に人は楽しみを求める動物であり、痛みを避ける動物だからです。弟子たちがイエスを裏切ったことに驚きを持ちません。 >イエスキリストの生涯34年(短命) その通りと思います。人生のながさがその人の人生の充実度を表していなとも言えると思います。イエスの死を思い浮かべるとき、昔洞爺丸という船が津軽海峡で沈没した事件ですが、乗船していて亡くなられた2人の宣教師の事を思い浮かべます。彼等は自分の救命胴衣を他の乗客に上げてしまった結果、2人とも死んで海岸に打ち上げられました。救命胴衣をもらった人は助かったというキリスト教史に残る事件が有りました。それは溺れかけていた乗客に宣教師が近づいてきて、救命胴衣を渡された方が生き残って証言したことで後世に残ることになった話でもあります。 何を申し上げたいかと言いますと、イエスの教えようとしたことは命よりも重要なことであったということが出来ます。イエスの弟子たちがイエスを裏切って逃げてしまったのはまだその命より大事なものが何か分かっていなかったからだと思います。 >彼が人々に教えた年月は3年にもみたない たしかに、真実を実践するのに3年間が必要であったということかもしれませんし、イエスの教えるところはなにか哲学を述べたり、生き方を語ったりするというようななにかよい考え方とか、宗教の教えというモノと明らかに異なっておりました。そのためにあるとき(つまり3年後)には十字架で命を捨てる必要があったのです。 >イエスは何を行い何を伝えたかったのでしょうか? イエスが十字架の上で教えたかったことは以下の言葉に要約されております。 「イエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。・・・・』」(マタイ16:24~25) 聖書は大いなるパラドックスの世界と言えると思います。つまりあなたが本当の意味で充実した人生を送りたいのであれば、自分の命さえも捨てて、わたし(イエス)と供に十字架につきましょうと述べています。しかしそれは弟子が恐怖に駆られて逃げ惑うような人生ではなく、歓喜に溢れた充実した人生なのだと述べています。もし弟子たちがイエスが自分の命を捨てたその意味を、イエスが死ぬ前に理解していたら、裏切ることはなかったと思います。 聖書では自分の命に振り回されるような心にあるものは「罪」だと述べています。つまり自己中心は罪だと述べています。もしこの罪から開放されたら、あなたがたは自由になるともイエスは述べています。 「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14:6 お近くのプロテスタントの教会を訪ねてみてください。人生のご質問に答える牧師がいると思います。
人間は『病気事故災害戦争飢餓など』の不幸に遭い、苦しんでいる。 それで、天使であるイエスキリストは人間をあまりにも可哀想に思い神様にいいました。『神様、このままでは人間はあまりにも可哀想です。私が人間界に行って真理を伝えたいと思います。』と。 神様はいいました『それは善いことだが、人間の世界に行けばすぐにも殺されてしまうぞ。』と。 イエスキリストは『それは覚悟しています。』といいました。 神様は『よろしい。行って来なさい』といいました。 そこで、イエスキリストは人間の世界にお生まれになったのです。 人間の世界で色々な奇跡を起こしました。 その奇跡とは『空中から6000人分のパンを取りだした。』『水の上を歩いた。』『黙れ静まれ。の一喝で嵐を静めた。』『生まれつき盲目の人の目を治した。』『死者を生き返らせた。』などです。 イエスキリストは『ほんの少しの信仰があれば誰でも、私のような奇跡を起こすことができますよ。』といいました。しかし、物理的な法則を固く信じていた人間たちには、信仰を得ることはできませんでした。 誰でも死後、永遠の命である天国に生まれたいなら次の戒めを守りなさい。そこには、『病気事故災害戦争飢餓など』の不幸はなく、寿命は永遠です。 ********************************************** 『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』 (新約聖書) ********************************************** それで、一切はこの二つの戒めにかかっているのです。 イエスキリストは、この二つの戒めがすべてだといいました。 しかし、当時の司祭たちに『神を冒涜している』と思われ、十字架にかけられ殺されてしまいました。
- mmky
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>>キリスト教の学校に通いながらも、全然よく分からないないと言う ○人間に理解不能な領域があるということですね。それがイエスですね。だから理解できなくてよいのですね。 >イエスは何故全員の弟子に見捨てられ裏切られてしまったのでしょう?(最後の晩餐) ○ イエスが現代に生まれても、みな同じことをしますよ。イエスの弟子になれる人はほとんどいないと思いますね。それほどイエスは純粋で妥協のない魂なのです。例えば、イエスの高弟は、エレミヤとか近代では、内村鑑三ですね。彼らの生き方で人生を生ききることは凡人にはできないのではないでしょうか。高弟でさえ、不敬罪程度ですから、イエスご本人がどれほど純粋かが予想できるでしょう。つまり、イエスが地上で長生きできるような環境は地球上のどこにも存在しないということだと思います。 つまり、キリスト教徒というのは本当のイエスを想像し得ないからキリスト教徒を口にできるだけなのです。まあ、方便を良しとしているだけですね。イエスが現代に現れれば、キリスト教会、キリスト信者は全てパリサイ人やサドカイ人と呼ぶでしょうね。そのような厳しいお方なんですね、純粋で厳しい故に、為政者が許容できず、結果として短命なのです。一方、短命ゆえに神話が生まれ、人気がでるのですね。不思議な魂ですね。凡人に理解できる神ではないですね。 >何を伝えたかったのでしょうか? ○ 上記と同じですが、「人間に理解不能な領域があるということ」を伝えているのですね。 イエスは、また「人間に理解不能な領域」の一部でしかないことも天の父という言葉で明言してますね。 そういうことですが、理解できましょうか?
補足
人々は奇跡だけを求め イエスだけを求めた 人々が考える救世主の姿と イエスの思いとはあまりにも違っていた 誰一人イエスを理解していませんでした イエスに特別な力があったため それしか関心を示さない 誰一人弟子たちさえも 以下省略
補足
生身の人間だから恐怖(死)には勝てなかったと言うことでしょうか