• ベストアンサー

物心がつくとは どういうことか? (存在論)

 わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。  ひとは誰でもそうなのか。  そのとき われとなんぢとは  物心を 分かち合っているのか。  いやいや ひととひととも  もともと仲がわるかったのか。  ことばは はさみか。糊か。  ことば はさみか? 糊か?  情感は?  知性は?  あるいはただのズレか?  もともと仲が良かったが  ズレが出来たということか?  ただそれだけのことか?   世界という生命は  すべてをつなげているのか?  それにわれもなんぢも  つらなっているのか?  それとも もともと  互いにお呼びでないのか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.6

 物心がつくとは煩悩の始まり。  人の成長は欲望と共に。  欲望が煩悩を成長させ、人を成人へと成型する。  成人は煩悩の塊。  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  なぜ拭おうとするのか。不思議だ。    やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と拭おうとするのだ。  子は親を忘れていても、親はいつも子の事を気遣っているもの。  その親の呼びかけに気付く子は親の元に駆け寄り安心を手にいれる。  ☆ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  こんなことを考えました。  

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむ。おもしろそうですね。  ご回答をありがとうございます。  ★ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  ☆ 質問者は ここで(この質問では) 跳躍者――つまりもっと言えば飛躍者――となります。  ○ ものごころがつくその同じ時点で 煩悩ないし無明ないし生存欲を持つと同時に 共生の種をも持ったか? さらには みづからの魂にその共生の種をみづからが植えたか?  ★ ~~~  やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と〔おのれの《心の曇り》を〕拭おうとするのだ。  ~~~~~  ☆ というふうに――成長期の或るときに―― 行動を始めるのは もともと 物心がついたときにその種を植えていたからか?  ★ ~~~  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  ~~~~~  ☆ つまりは この初めの線引きそのことにおいて人は 世界の中から浮かび上がらせたおのれと同じ存在を ほかにも見止めていたのか? 共生の相手だと知ったのか?  世界という地に線を引いて――つまりは ものごころをつかせて――おのれを図として浮かび上がらせたそのことは 切り離したと同時に つながっていた。もしくは 切り離し行為そのものにおいて つながりを確認したのか?  ★ 物心がつくとは煩悩の始まり。  ☆ と同時に その無明を明知へと転換するむしろヰルスを仕込んでおいたのか?    人は ものごころがついたとき おのれを世界からほんとうに切り離したのか?  むしろつながっていることを確認しただけなのではないか?  世界の中に位置づけられているおのれを見たとき 母や父や 婆や爺を見て すでにおのれの子や孫をも見たのだろうか? これらを見たとき 共生を始めていたのか?    地と図とであるなら そして人はそれぞれが自分としての図であるのなら みんな地続きであるのではないか?   そうなると では 人は  ○ 人は おのれがこの世界‐内‐存在(《 In-der-Welt-Sein 》)であることを どこで・どうして忘れるのか?  という主題に変わって行くであろうか?

その他の回答 (21)

回答No.1

脳は、その発達の初期において、環境からの特定のパターン に対して、条件反射的に特定の行動をとらせるものであった。 その「特定のパターン」をもたらす感覚器官が複数になり、 1つの対象からの複数の感覚器官の刺激の相関の蓄積に於て、 次の感受における先行感覚(光や音など情報性の高い)に 対して、それ以外の直接的・生理的感受の記憶が励起され、 “そこに行った時に起きる事”=予測としての空間的広がりが 感じられるようになる。 その過程において、最初は条件反射的に環境と一体であった 精神活動が、徐々に客観的対象として分離され、その主体と しての自我の目覚め=自己存在の客観視も可能になる。 (それは「事実を知る」というような本質への接近ではなく、 無=無限不確定性の潜在としての認識可能性における、 プランク定数の収束(=物体収縮=宇宙膨張)の時系列化に よる変化を原点化した感受表面(現在=光速)からの自我 仮説(経験=過去=超光速=時間軸)と時空仮説(予測=未来 =光速下=時間軸)の相補分化として、その虚構の時間軸へ の無限不確定性の相補分化における、経験的な階層現象 表面的定性化=原理的確定を伴わない“いい加減な”捉え 方による有限性の派生によるものである)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1)  ★ 無=無限不確定性の潜在としての認識可能性における  ☆ という・言うとすればその舞台は 《われ》と地続きなのでしょうか?  のちに切り出されて来る《われ》と 時空間として なおも 連続していましょうか?  (2)  連続しているけれども 人には・われには 分からないということでしょうか?  ★ 原理的確定を伴わない“いい加減な”捉え方  ☆ しか 人間は ものごころがついたあとは 出来ないということでしょうか?  (3)   けれども もしそうだとしても――つまりは もう環境世界との連続性は断たれたとしても―― では何故 もとは 地続きだったと分かるのでしょうか? 脳細胞とそのはたらきから分かりましょうか?  (3-1)  ★ 最初は条件反射的に環境と一体であった精神活動  ☆ これは 地続きであり連続していたということでしょうか? そこまでは言えないのでしょうか?  (4)  ★ 徐々に客観的対象として分離され、その主体としての自我の目覚め=自己存在の客観視も可能になる。  ☆ これは 理論的に言っているのみであって 実際には ここに言うところの  ★ 客観的対象〔として分離され〕 / 〔自己存在の〕客観視〔も可能になる〕  ☆ は 言わばただ類型的に(近似値としてのように)そうだということでしょうか? それとも 実際にそういう能力が 人間に開発されうるという意味でしょうか?

関連するQ&A

  • 知性 理性 感性の違いと

    知覚の扉という言葉に魅力を覚えます。なんか別世界みたいで。知性 理性 感性の違いと人間の能力としての順位はあるんでしょうか? また、知覚はこれら3つすべてのことをさすんでしょうか。

  • カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)

    カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?

  • 《蛍火のかがやく神および蠅声なすあしき神あり》か

     わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心(ものごころ)という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。    いやいや そんなことはないだろうか。           *  次のように描かれる《世界とわれとの未分化》なる昔の世界と いまモノゴコロがついて見ている現実世界とは どう同じでどう違うのか?  そこでは 世の中を人間たる自分たちによって思うように動かそうと心得た者どもの出現が 世界の貌を変えるキッカケだったと哲学している。か?  ▼(谷川健一:乱舞する神々) ~~~~~~~~~~~~~~~  大昔 森羅万象がアニマ(霊魂)をもっていた時代 植物も岩石もよく言葉を話し 夜は炎のようにざわめき立ち 昼はサバエが湧くように沸騰する世界があった。  存在するのは善意にみちたものばかりとは限らなかった。  夜は蛍火のようにかがやく あやしい神がいるかと思えば 昼はサバエのように悪い神がうろついた。サバエは稲の害虫であるウンカをいう。  日本列島の到るところ つましい存在と見られる青水沫(あをみなわ)さえ 自分を主張して異議を申し立てた。    日本列島の到るところ 動植物はいうまでもなく 岩石や火や水までも人間と同じように喜怒哀楽の感情をあらわにし 生き生きと動いていた光景を 『日本書紀』は次のように活写する。    葦原中つ国は 磐根 木株 草葉も なほよく言語(ものい)ふ。    夜は熛火(ほほ)の若(もころ)に喧響(おとな)ひ 昼は五月蠅    (さばへ)如(な)す沸き騰がる。 (神代・下)  ・・・(中略)・・・  しかし絢爛たる闇の絵巻をくりひろげた夜の挑発者たちが退場を余儀なくされる時が訪れた。  それは葦原の中つ国に支配権を確立することを目指す者たちが現われたことによる。    然も その地(くに)に 多(さは)に蛍火の光(かがや)く神     および蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神有り。        復(また) 草木ことごとくによく言語(ものいふこと)有り。    故 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 八十(やそ)諸神    (もろかみ)を召し集(つど)へて 問ひて曰く       吾 葦原の中つ国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(は       ら)ひ平(ことむ)けしめむと欲(おも)ふ。                                (神代・下)  (谷川健一:『日本の神々』 § 3  1999)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このひとつの哲学について どう思うか?  神々の国・にっぽんは いかなる貌と姿であることを あなたは欲するか?

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

  • 意志、理性、感情、? 言葉の共有!

     通常、人の心の能力、作用を表すのに「意志、理性、感情」という言葉を以て、三つの働きを表現していて、ほとんどの人は、この表現に疑問を持っていないと思います。  私も今、こうして質問として取り上げてみようと思うまでは、さしたる疑問を持つことはありませんでした。  でもよくよく考えてみると《?》と思ったので次のように提案してみたいのです。  “意・理・感”にはそれぞれに“性”という言葉を付けてみてはどうでしょうか。  “意性・理性・感性”というように。  そしてそれぞれの性に、意には志を、理には解を、感には情を、付けて「意志・理解・感情」として“思索”するというのが、言葉の使用を“共有”することになるのではないのか、と思ったのです。  どうでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     (1) まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。  《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ あやまち得る内容  《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容   ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた  (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。   すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。     誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。  (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。    (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。  (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。     《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。     《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと     思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。  (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。   スサノヲ感性語宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ》   というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。  (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      身のやましさ(恥づかしさ)反応と共なる心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。   ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?      人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《オシエや規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。  (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。   ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと    受け取られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの部下の所為にしなさい。     ・・・》  (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がっているのではないか?  これを問います。もしそうなら どうすればよいでしょう?

  • 邪念について(長文です)

    本当は大好きなのに、そのひとのことをとてもひどく考えてしまうことがあります。また悪口や自分にとってイヤな言い方をされたとき(相手は冗談で言ったのかもしれませんが)、「なんであんなこと言うんだろう?、腹が立つ」と思ってしまいます。家族や親しい友人には「なんであんなこと言ったの?」と確かめることができるけど、例えばお店で店員に言われたり、あまり親しくない人に言われたりすると、夜ひとりでいるとき、そのひとのことをやはりひどく(悪く)考えてしまいます。 そうしたことだけでなく、例えばテレビに出演しているひとに対してひどいことを思ったり、道ですれ違ったひとの容貌についてとんでもないことを考えたりしてしまいます・・。口に出してはいないので、混乱を招くことは無いのですが、それなりに自己嫌悪です。家族や親しい人にこのことを訊くと「親しい間柄でも腹が立つときはあるし、誰だってムシャクシャすることはある」と言います。そのとおりだと思います。 でも頭(理性)でわかっているのなら、どうして「邪念に支配される?」という同じ過ちを繰り返すのでしょうか。人間の感情や感性は複雑なもので、理性では抑えきれないことは確かにあるでしょうが、それでも僕は物心ついて20年以上人生を生きてきました。どうにかして邪念をうまく抑えて(管理?して)なるたけ良念のもとに行動したい。 馬鹿みたいな質問かもしれませんが、『ひとってどう生きれば良い』のでしょうか。『ひとはどう考えるのが望ましい』のでしょうか。 長文になってすみません。

  •  感・理・意・・・など、心の仕組み(?)について。

     人の心は、理性、感性、意志、と言う言葉で表す三つの働きがあるとされていますが、「記憶」と言う働きはどのような位置づけになるのかと、時々考えたりしています。  今日、思ったことは理性、感性、意志、の“性や志”を取り除いて“理・感・意”とした場合、どうなるかと云う事です。  「感」には感覚と感情という言葉がありますが、感覚は物理的な反応としました。  感情は精神的な反応、でよいと思いますがその内容は物理的な“感覚”に反応して起こる「情」と精神的な“刺激(好悪など)”を受けて起こる「情」とがあるように思います。  また、感覚は生理的に、感情は心理的に、とも受け止めてみました。  「理」についてはどうなんでしょう。  理性、と言う言葉に対して理解という言葉を当てるのは適当でしょうか。  理解とは物事を解釈し判断すること、でよいかと思いますが、理性とはそうした能力(働き)の事を言っているように思います。  そう思うと、理性とは物事を理解する働き、と受け止める事になるのですが、これで良いでしょうか。  「意」については辞書では“思い”とありますが、これに「志」が付くと“力(ちから)”を感じます。  この“力”は言い換えれば行動する、と言うことだと思います。今、能動という言葉を思い出しました。     「感」を受動、とすれば「意」は能動、であると。  そして、「記憶」という心の持つ能力です。  生物すべてにあると思われる「記憶」という心の働き、“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・  なんてことを考えてみましたが“回答”いただけますでしょうか。  よろしくお願いいたします。        

  • 「直観」と「直感」の違い、その差って何ですか?

    frauさんという人が、どっちも同じだと言っています。 ふつう哲学では、「直観」という言葉は使いますが、「直感」という言葉はあまり使われません。 「直観」という言葉が哲学で使われるようになったのは、中世の聖アンセルムスからで、アンセルムスは、「直観」を二通りの意味で使っていました。 一つは、直観的認識は、現に目の前にあるものについての知識という意味。 もう一つは、いかなる直観的な認識も先行する認識に限定されていない、論証的な認識の反対という意味。 カントが「直観」という時、後者の意味に使っていました。 要するに推論によらない知識を「直観」と言っていました。 そしてカントは感覚を「感性的直観」といい、そして時間・空間を非感性的「純粋直観」と言って直観的に知られると言っていました。 それを批判したのが、パース。彼は言っています 「私たちは直観する能力を持っているかどうかを直観的に判定する能力を持っていない」、と。 また、「私たちは直観と直観以外の認識とを区別することができない」、と。 そしてパースはカントのいう感覚も、時間・空間も、直観によって知られるのではなく、推論によって知られるものだと言っています。 デカルトは「われ思う・コギト」を直観によって知られると言いましたが、パースによればそれも間違い、推論だと言っています。 「直観」という言葉はひじょうに便利な言葉です。 それを私は「知性(理性)で知った」と言えば「なぜ?」と聞かれますが、それを「直観で知った」と言ったら、「直観か、だったらそれ以上追及してもしようがないな」となります。 だから何でも、それを直観で知ったと言えば、人から批判されるのを防止できます。 改めて、お聞きします、「直観と直感の違い、その差って何ですか?」 そして、そもそも「直観」って何ですか?

  • 人間ではないモノは存在するのか

    カテゴリが合っているかはわかりませんが、失礼します。 ずばり、現世には人間外のモノは存在するのでしょうか? 例えば、河童や天狗などの妖怪、一般的には『存在しない』といわれているモノです。 自分はこのようなものに興味があり、存在を信じています。もちろん、超常現象なども信じています。 ですが、見たことが一度もありません。なので、このような形で質問させていただこうと思いました。 現代では、未確認生物(UFOやツチノコなど)、幽霊などが広く知られていますよね。このようなものは見たことがある、信じている、という方がいますが、妖怪などは信じていない方が多いような気がします。 自分的には、幽霊がいるのなら妖怪などがいてもおかしくないと思うのですが、どうでしょうか? そして疑問に思ったことがあります。『神隠し』という言葉がありますよね? 神隠しに遭うと、その人はどこに行ってしまうのでしょうか? 神隠しに遭った場所の付近や、見覚えのない場所、若しくはその他の場所ということになるのでしょうか? 先ほど述べましたが、自分はそういう存在を信じています。見ることが可能ならば、是非見てみたいし、人間のように『心(理性/知性?)』を持っているのであれば、交友関係も築いてみたいです。 このような存在を信じる、見たことがあるという方は他にもいるのでしょうか?自分は可笑しいでしょうか? 少しややこしい質問ですが、自分が知りたいのは、 1、未確認生物や幽霊がいるのであれば、妖怪などもいるのではないか? 2、『神隠し』に遭った人はどうなるのか、又はどこに行ってしまうのか? 3、妖怪、精霊などの存在を信じている人はいるのか、このようなモノを信じている自分は可笑しいのか?そして、交友関係は築くことができるのか? となります。 みなさんの様々なご意見、ご回答をお待ちしています。