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ブッダ以外で悟りを開いた人はいますか?

もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください) 大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか? いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか? この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

悟りを開くと云う事が、如何いうものかを書いてそれから、説明してみます。悟りを開く事を他の言葉で言うなら『見性』です。自分の性を見るという意味ですが、その意味を科学的な文献から解き明かしたいと思います。 人間には二つの人格が備わっていますので、科学的な文献を載せてから説明します。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この研究はその後余り進んでいないように見えますので、残念と思います。 右脳の人格は左脳に存在する『自我意識』にはかなり分かり難くなっています。全く判らない場合に『健常者』と言う風に呼んでいます。 右脳の人格は『命そのものを働かせている者』です。人間の命の働きは、ある程度細分化出来ますので、もし細分化をするなら、概略三つに区分けする事が出来ます。 それは人間の、『身体に対する命の働きと、行動に対する命の働きと、心に対する命の働き』と言う風にですが、本当の意味ではそれらの三つには境目が在りませんから、全ての大元では共通点が在ります。 その共通点とは『心の矛盾』です、心が騒がしく争っていると言う意味です。具体的な言い方をするなら『生き難い想い』或は『一切皆苦』或は『漠然とした不安や、何処から押し寄せているのか分らない正体不明の心的な圧迫感』です。 人間の命は命として芽生えた瞬間から『働き始めています。』初めての働き始めが細胞分裂ですが、この働きを働き始める事を知っている働きが『命そのものの働き』です。 生まれてからは、誰も教えなくとも、安心する事も、不安になる事も、更に云うならば恐怖する事さえ知っている働きです。心臓の打つ数も、呼吸する数もホルモンや消化系等や排便する事も全て承知している働きです。 暑い時には汗が出る仕組みそのものや、心的には涼しい所や、水の在りかを探すように『自我意識に』指示さえ出している働きです。ですが健常者の場合では、今書いたシステムに何の疑いも持つ事が在りません、この疑いがない姿を聖書では『天国に住んでいる』と形容しています。 人間の脳の機能が大人になる頃から『人間は全てを疑う場合があります。』この現象を『失楽園』と形容しています。 二つの脳の機能が上手く同調出来ている場合の事です。天国に一番近い存在は『幼子』と言われる由縁は、脳の機能分化が進んでいないために、未だ一つのものとして働いているからです。 脳の機能分化の完成を待って始めて『人間は天国から追放される事』を意味します。この意味は『心が二つの機能になることで、争いがはじまるという意味です。』 つまり知恵が付いたために天国から追放されると言う意味は、『心が分裂をしたり矛盾を起したり、対立する事』を意味します。おもに思春期頃の事です。 人生がなんであるのか?や、自分は何者か?と言う疑問が湧き始めるころの事です。この疑問を抱き始める事によって『失楽園』と言う表現方法を取っています。 この疑問の解消方法が『悟り』を意味します。それは自分自身に疑問を抱かせていた者の正体を知る、と言う意味になります。つまり自分自身の感情を湧きあがらせていた者の正体が『自分自身であった事を知る』と言う意味です。 もっと具体的な表現方法を取るなら『死に対する恐怖感』と言う書き方をすると分かり易いと思いますので、この線で書いてみます。 普通の状態で『死』を意識した場合に、恐怖感が湧き上がります。この恐怖感の正体が何であったかを知る事が『見性』と言う意味です。 人間の心に不安や恐怖感が湧き上がる場合では『二つの意識が戦っていたり、矛盾を起しています』この意味は、『意識の根底で二つの意識は、脳梁を介して情報交換をしています』この情報交換に、ある場面で『自我意識が、感情が湧き上がる情報の受取りを拒否する場合です。』 もっと平たく言うなら『死に対する不安や恐怖心が芽生える場合では』人間の心は『永遠の命を希求しています』この事実が、心の矛盾です。 自我意識は有限の身ですが、右脳の人格は永遠の存在だからです。有限の身である自我意識は『永遠の存在である右脳の意識=仏性や神としての存在によって、』永遠を希求させられています。 右脳の働きは分り難いので、実際に右脳の人格を体感している動画が在りますので、載せてみます、その後でもう一度説明します。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この動画から汲取っていただきたい事は、『自我意識が全てではない事』です。もう一つの意識によって、自我意識は支えられている事です。 貴方が質問している事にお答えしたいと思います。 『いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか? この辺の事情についてお詳しい方お願いします。』 禅宗の記録を読んでください、禅宗では、悟りを開く事がその修行の全てに近い事を示しているからです。死の恐怖に怯える事からの開放を示しているからです。 禅宗では、見性した場合では『生死の問題が解決した』と言う表現方法を取っています。その意味は『死に怯えていた自我意識は、永遠の存在である右脳の働き、命そのものの働きに出会う事によって、有限のこの身の存在が、朽ち果てたとしても、自分は元々永遠の存在であった事を身を持って知る事を意味します。』 この永遠の存在との出会いを見性=悟りを開くと表現しています。そうして自我意識が二度と、右脳の人格の前にでしゃばらなくなると言う意味です。 キリスト教であっても同じ事を違う表現で言っています。『神と和解して、神の僕となる』と言う表現です。 釈迦の悟りは禅宗では、連綿と伝えられています。そのテキストの価値を書いて終わりにします。 右脳の意識は『言葉を持っていない事が特徴です。』右脳の意識を引き出す事が出来れば『見性』出来ることを意味します。 そのためのテキストとは『禅問答』です。禅問答は左脳の自我意識では、歯が立ちません、これは脳の機能的な問題です。 その理由は禅問答は右脳の人格としての機能が出て来ないと解けないように仕組まれているからです。 鬱と言う場合でも、神経症としての強迫行為も恐怖症も、自律神経失調症としての症状も、『心の矛盾』を症状として感じています。正に意識地獄の状態です。一切皆苦になっていますので、その症状を起こしている意識との出会いで『完治する事』を意味します。 それは『意識が発生する丁度、正にその時の事です。』その体験以後では『心の矛盾が解消しますので』もう二度と心同士が争う事がなくなりますので、寛解ではなくて、完治した事を意味します。 言葉にするなら、右脳と左脳の間にホットラインが開通する事によって、いつも心が静まり返っている事を意味します。仏教的な表現方法では『涅槃』です。

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その他の回答 (18)

回答No.8

 ★(No.6お礼欄) ~~~~  ここには、つまり「悟り」の意味や解釈・その重要性について、「ブッダ」と「私たち」の間に差があるのは明らかです。もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、その一人一人が仏教と同じような世界宗教を構築できたはずです(が実際にはそうなっていないので)。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりと宗教とは 互いに違いますよ。宗教とは すでに教義を守るべき至上課題としているなら さとりとは似ても似つかないものです。ただ群れているだけです。  1. さとりを得ているということは   ★ 「悟り」の意味や解釈・その重要性  ☆ は 何の意味もありません。それらを知っていることは せいぜい金儲けか名誉を得たいがための行動に利用するだけです。ただし そうは言っても 知らないわけでもありません。さとっているのですから。  2. ★ 「ブッダ」と「私たち」の間に差があるのは明らかです。  ☆ そのあと 《もし差がなかったら》とも議論はつづいていますが そうではなくもし《差があるのは明らか》であるなら その《私たち》は 《ブッダ》が得たさとりやその解釈・その重要性についても分かっているということを意味します。そうでなければ《差がある》とは分かりませんし言えません。  3. ★ もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、  ☆ ですから すでに第 n 番目のブッダも次から次へと現われて来ていると申し上げています。ただし このさとりと 宗教とはまるで別物です。  4. ★ もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、その一人一人が仏教と同じような世界宗教を構築できたはずです(が実際にはそうなっていないので)。  ☆ 《構築》すべき観念体系は 要らないと言うべきです さとりにとっては。  仮りに構築するのだと見た場合 その構築は延々と研究されつづけている過程として為されているのではありませんか? すなわち  ★ ブッダは悟りを開いてその教えを弟子が引き継ぎ、2000年以上経った現在でもその教えは残っています。  ☆ ゆえに。  5. ゴータマ・ブッダも あやまちますよ。  【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】というのがあります。伝承ではありますが どこかおかしいと感じさせられます。自分になされた求愛の断わり方を間違ったようです。悲惨な事件をのちのちまで引き起こしました。

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回答No.7

 ブッダと言うのは、目覚めた人と言う意味ですので  その意味では、そういう人は、  釈迦没後2500年間で  東洋にも西洋にもごろごろ出現しています。  ここ二百年ぐらいの日本にもごろごろいます。  釈迦在世当時もごろごろいたでしょう。    ところが、ブッダを「釈迦」本人だととらえると  ことはそう簡単ではありません。  なぜなら、釈迦は単なる宗教的(直観的)  覚醒者であるというだけでなく  凡夫が陥る「理性」ゆえの迷いについて  どこまでもその原因を分析し  解明していくと言う「思弁的哲学者」でも  あるからです。  そのふたつを兼ね備えた存在と言うと?  そう簡単には見当たりません。  たとえば、ラーマクリシュナは  宗教的直観のみが突出しているような印象を受けますし  その弟子のビベーカーナンダなどは  かなり哲学的思弁性を持ってはいますが  やや純情可憐で、スケールと言う意味で  釈迦には届かないような気がします。  例として挙げられた  ナーガルジュナなどは、やや学者に傾いているような  気がします。    したがって、  釈迦が説いた「誰しもブッダになれる」という教えは、  (最初に述べたように  ブッダ的存在はごろごろいるわけですから)  間違っているわけではありません。    ところが、釈迦的存在は釈迦没後2500年は  あまり見当たらりませんから  質問者さんが言われるように  第二のブッダ(釈迦本人的存在)はいないとも  言えます。  釈迦自身はこの両方の事情を見ぬいていて  自分のような存在は2500年ぐらいして  再来する → その間は再来しない  と言ったようです。              

lugal
質問者

お礼

なるほど、いろいろ勉強になります。 強引かもしれませんが一言でまとめますと、ブッダはほかの人には真似できないほどの天才だった、ということでよろしいでしょうか。 仏教は素人の私にはなかなか概念を捉えるのが複雑で(ただの勉強不足ですが)、そもそもブッダ自身は哲学者なのか?宗教の開祖なのか?、仏教における神様とは一体誰を指すのか?、仏教徒においてブッダは神様なのか? そういう位置づけがなかなか複雑に感じます。

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回答No.6

 こんにちは。  おそらく誰れもが 自分はさとりを得たと思っていましょう。  ただ 軽率だとみられるのを嫌って言わないだけです。  たぶん たとえば悪人の親玉だって 自分はすでにさとっていると思っていましょう。  三十歳代から四十歳代にかけて そういう自信がついて来ていると 人びとはそれぞれ内心では思っているでしょう。  と思います。  もしそうでないとすれば たしかにおっしゃるように ブッダは 詐欺師だということになります。

lugal
質問者

お礼

仮に誰もが悟りを開いていると思っていたとしても、ブッダだけが特別な理由が説明できません。 ブッダは悟りを開いてその教えを弟子が引き継ぎ、2000年以上経った現在でもその教えは残っています。 ここには、つまり「悟り」の意味や解釈・その重要性について、「ブッダ」と「私たち」の間に差があるのは明らかです。もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、その一人一人が仏教と同じような世界宗教を構築できたはずです(が実際にはそうなっていないので)。

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noname#181697
noname#181697
回答No.5

順番はムチャクチャだけど有名な所で、舎利子、目蓮、迦葉、老子、荘子、達磨、臨済、道元、雲門、趙州、南泉、無門、無難、桃水、風外、一休、良寛、白隠、雪渓、雪担、無明庵回小、ダンテス・ダイジ、バグワン・シュリ・ラジニーシ、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシ、アジズ・クリストフ、フーマン・エマミ、マイスター・エックハルト、ガンガジ、ラーマクリシュナ・パラマハンサ、バーナデッド・ロバーツなどなど。名前を挙げそこねている有名人や、無名の禅師、無師独悟の人も含めたら、結構な数になると思います。 彼らはそれぞれ言い回しは違えど、全員が全員、釈迦世尊と同じ事を言っているのですが、それはブッダの教えが正しいと言う事の証明になりませんか?

lugal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 つまりブッダの教えというのは、周りの人が悟りを開くこと=第二のブッダになる、ということでしょうか? 人によって千差万別の道のりから悟りを開いたとしても、行き着くゴールは全てただ一人ブッダの考え方とイコールになるという意味なのでしょうか?

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回答No.4

仏教は判りませんがヒンズー教で自他ともに悟ったと認められる人物は歴史上に人物に限らずそこらじゅうにぞろぞろいるそうです。

lugal
質問者

お礼

ブッダ的に言わせると、悟りを開くというのは至高の境地に達したというニュアンスだと思うのですが、その悟りを開いた人たちがブッダやその教えと同じような影響力を周りに及ぼせなかったのはどうしてでしょうか。

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noname#174259
noname#174259
回答No.3

私もそんなに詳しいわけでは無いですが、おっしゃるとおりのような気がします。 2500年だか、2600年だか忘れましたが、こんだけ期間があれば、何百人もブッダがいてもいいですもんね。 釈迦は悟ったと思っていましたが、本当だろうか?と10年くらい前から思っています。 ある坊さんだと思ったのですが、悟ったと言ったもん勝ちというようなことをいっていました。 確かに釈迦がどういう悟りを得たかなんて、本人にしか分かりませんもんね。 死んだあとどうなるかも、言いませんでしたし、本当はなんにもわかっていなかったのかもしれませんね。 多くの仏典が中国で作られたと本の中で書いてありました。 お坊さんが困る仏教の話ー村井幸三という本の中で色々書かれていました。 でも、この本を否定してる人もいます。 また、仏典を訳した人なら中村元さんですが、スッタニパータとか読んでも、訳がわかりませんし。 ニルヴァーナってどんな状態?ッテ感じもしますし。 禅の話では、悟っても悟らなくっても、人間としてやることは同じー食べたり、寝たり、トイレに行ったり、働いたり。。。 なので、もしかすると、悟った人は周りから見ても分からないのかもしれません。

lugal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに言ったもん勝ちだとしても、ブッダが悟りを開いたことによって彼の教えは二千年以上たった今でも残っています。 仮に自分は悟りを開いたと言う人がいて、それが言ったもん勝ちだとしても、その人が第二のブッダになれなかったのは悟りの意味も絡めた理由があるはずです。その違いについて、ブッダが天才的にズバ抜けていた哲学者だったという優秀さに根拠を求めるとしたら、この話の主題が悟りを開くというよりも才能の優劣の話になってしまいます。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.2

そもそも悟るとは何かがわかっていなければ 悟った人間の数を数えるのは無理な話だ。

lugal
質問者

お礼

私が思っているのはブッダと同じ考えの持ち主になることだと思っているのですがどうでしょうか。

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回答No.1

周利槃特(しゅりはんどく)は悟ったといわれています。  ある日、釈迦は、大衆を前にしてこう言いました。 「悟りを開くということはたくさん覚えることでは決してない。たとえわずかなことでも、徹底しさえすればそれでよいのである。見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/hanasi/shurihandoku.htm

lugal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 この場合周利槃特の悟りというのがどういう意味なのか難しいですね。 悟り=ブッダと同一になる、とは違う意味のようですが、第二のブッダになる以外にも悟りを開いた状態というのはあるのでしょうか。

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