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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カインは なぜ・どこが わるかったのか?)

カインの心の闇とは?

hakobuluの回答

  • hakobulu
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回答No.26

#25です。 >  では このヒラメキは どこからくるのか?   いまは 過去の学習経験や思考の蓄積から来るものは 別としています。言いかえると 経験や自分の意志から来るヒラメキではないヒラメキがある。こうわたしは 思っているという意味です。  つまりは それは すでに経験を超えていると見るからには 非経験の場であり これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭が成ると見るわけです。  したがって いま扱っているヒラメキは この非思考の庭に起きる。と見ますし ということは 非経験の場なるナゾの何ものかから来ている。と――想定上―― 見るというかたちです。 : ヒラメキというものは否定しませんが、 >過去の学習経験や思考の蓄積から来るもの : があくまで土台になっているはずという認識なので、それを >別としています : というご見解であれば、根本的な認識の相違があるものと解釈したほうが良さそうですね。 >   ● ヒラメキは わが心の非思考の庭に 或る日或る時 ふと どこからか確かに啓示のごとく 起きる。  こうなると考えます。 : これは全くそのとおりなのですが(というのは、そう感じられるからこそヒラメキという言葉で表現されるわけですが)、「ふと」と感じるのはあくまで意識上の感覚であって、実は無意識領域においては「ふと」ではなく、「なぜなら」という論理的な理由があらかじめ格納済みなわけです。 しかし、無意識である以上「なぜなら」をその時点で感覚することはできず、結果として「ふと」という感覚になるだけです。 脳科学の発展とともに、いずれその脳内メカニズムは解明されるものと考えますが。 重要なのは、 >啓示のごとく : であって、「啓示(と同質)である」ではないという点なのでしょう。 ですから、「啓示のごとく」ヒラメイタというのであれば、それはわかるのです。 しかし、(信仰というものの要素としてですが)それを「啓示である」と解釈してしまう(解釈させようとする)点に問題がありはしませんか。 > したがって ここには いわゆる大自然に対する畏敬の念を生む素地があるでしょうし その心をすでに《非思考の庭》と見るなら そこには《ナゾの何ものかへの きよらかなおそれ》をいだいているという己れの姿を人は見い出すと思います。 : 古代人が神を信じるのはわかります。 「考える」のキャパを超えたものは全て神として崇め、崇めることによって自身に(考えの及ばぬ現象が起きても安心して良いのだと)納得させたわけでしょう。 しかし、今は(たとえばですが)雷の仕組みも解明されていますよね。 「きよらかなおそれ」という表現はどうなんでしょうか。 本気でこのような表現をなさっているのでしょうか。 それと、《非思考の庭》というのは良く言えば無垢、そうでないとすれば無知と言い換えて良さそうですね。 > そのように ただ経験世界に閉じこもるというのでなく そうではなく この世をも超えた世界を想定したならば――つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持ったならば―― その《閉じていない》というところが 《心の明けであり心の伸び》だと見ます。 : 全く論理になっていませんね。 >この世をも超えた世界を想定 : することが、なぜ、 >つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持った : ことになるのでしょうか。因果関係は見出せません。 >《心の明けであり心の伸び》 : という表現で言いたいことはわかるような気がしますが、それは信仰のみがもたらすものではないでしょう。 >そこから 神という言葉があるのを知って この神に――なぜなら 超経験なら 相対の世界を超えているその絶対に――拠り所を見い出す。(あるいは そのとき いや そうではない わたしは けっきょくその超経験の場も それは《無い神》だと思うと言って 無神論という信仰を持つ場合もあると見ます)。 : これは詭弁としか言いようがありません。 神という言葉を前提にすることを一方的に押し付けていますよね。 相対の世界を超えているものがあるぐらい小学生でも感じていますよ。 宇宙の法則と言ってもいいでしょうし、自然の摂理と言ってもいいでしょう。 わざわざ《無い神》などという発想までに及ぶ必要性はありません。 ですから、 > つまり 拠り所であるなら このいまの自分を活かすためであると考えて不都合はないと思います。 : というご見解は、占い師のそれとなんら変わるところがありません。 > ★ それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。  ☆ と一応は言えても この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。 : 「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。 > ☆ ムイシキの領域が特別にあるわけではないという認識が重要だと ここで 成ります。すべての《思いこみ》も《思い》も みな記憶の中に《根を張っている》ことに間違いないからです。 : 《思いこみ》と《思い》の違いの重要性について、若干無頓着のように思われます。 すなわち、 > どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動だとかの見方があるので それに影響を受けて ムイシキを特別視しようとするクセが 人びとについてしまった。ただそれだけだと見ます。 : ということではなくて、 ムイシキとして特別視せざるを得ないような現象が発生するために、 >どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動 : という捉え方をせざるを得ない、ということでしょう。 > ☆ 記憶から過去のいやな思い出をよみがえらせたのですね? と問えば それで済むことです。 : 本当に済みますか? 検証されていますか? >それによって悩んでいるなら その過去の事件をあらためて分析し心に納得ゆくようなまとめを得るようにする。これだけのことです。ムイシキだからこう そうでないからどう といった捉え方は 要らないはずです。 : なぜ「要らない」のですか? >これだけのことです。 : とおっしゃる割には根拠が全く示されていません。 検証されているかなどと野暮なことは申しませんが、せめてアウトラインだけでも示すべきでしょう。 無意識の根拠についてはわたしはすでに何度も申し上げていますのであえて繰り返しませんが。 >納得ゆくようなまとめを得るようにする : ための無意識という概念だとわたしは言っているわけですが、そうではないという根拠はどこにありますか? > ★ 無意識領域という想定が有効になると思います。  ☆ いいえ。記憶とその想起があるだけです。眠っていたものは すべてムイシキだったものだというだけです。 : 繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。 それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。 > ★ つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。  ☆ だから 他人に対して その人となりなどについてこれこれだと ムイシキ理論を用いて 判断しそのことを言って その中身が かならず当たっているのだぞと言い放っても自由だという意味ですか?  《検証できない根拠にもとづく判断を 他人におしつけても 〈否定する根拠もないから〉 大丈夫だ》という意味ですか? : まあ、お互いに似たようなことをやっているんじゃないですか。 その意味では。 ご自分は常に、検証できる事柄のみを前提にして見解を述べていると思っていらっしゃるのでしょうか。 たとえそうだとしても『件の遣り取りを拝見した範疇においては』お互い様ではないのか、と言っています。 > ★ 神の検証はできるのですか。  ☆ ふたつあります。ひとつは すでに述べて来たように 経験事象との対応を――想定のかぎりでですが――おこなって どこまで経験科学の検証に耐えられるか これを見ようとして来ています。ところが ムイシキ理論は ついぞ行なえないのです。 : 神の検証という難しいところをお答えいただいたと思いますが、全く説得力がありません。 また、ムイシキが(検証されていないとおっしゃるのであれば)なぜ >経験科学の検証に耐えられるか これを見ようと : する対象であってはいけないのか、という根拠も示されておらず、曖昧性に終始したご返答と判断せざるを得ません。 また、一般的な感覚として、無意識の検証があえて必要なほど理解されていないものだとは到底思われません。 >他人に対して当てはめた診断を 言いっ放しであり 押しつけたままになります。これは 人間性が問われなければならない問題です。 : ですから、それは言う側の人間の能力や人間性の問題であるか、または、受けとる側の勘違いや被害妄想にすぎません。 無意識が存在するという事実自体とは何の関係もないことは明白でしょう。 > もうひとつに ムイシキは 経験事象に属するので 神の問題が いわゆる公理として良心・信教の自由にもとづき 信仰として持たれているという現実と異なっていることです。 : 無意識は信仰の問題とは違うと言われればそのとおりですが、 >経験事象に属する : にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。   

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  ヒラメキというものは否定しませんが、  >過去の学習経験や思考の蓄積から来るもの  :  があくまで土台になっているはずという認識なので、それを  >別としています  :  というご見解であれば、根本的な認識の相違があるものと解釈したほうが良さそうですね。  ~~~~~~  ☆ 経験にかかわって起きるヒラメキもある。けれども そうではないとしか考えられないヒラメキもある。それは わが暗き心が 科学の光や人の暖かさによって照らされ明るくなる場合とは違って そうではなく わが心の燈心が・燈心じたいが 灯されるという場合があり この種のヒラメキが いちばん分かりやすいとすでに述べました。次のごとくです。  ☆☆(No.22お礼欄) ~~~   孤りいるということや 人生のむなしさ・はかなさを身に染みて感じるときの闇のような・わが心の暗い世界を 偉人の英知や人びとのなさけや思いが癒してくれることはありますが そしてその闇に光を投じてくれることもあります。ありますが そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。  科学による事実認識が世界を照らすこともあり得ますし 人びとの思いが 互いに自分たちの心をやわらがせることもあり得ます。要するに落ち込んだとき その凹みをあたたかくつつむこと これは 人間わざでもありえます。  ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。  ~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~  重要なのは、  >啓示のごとく  :  であって、「啓示(と同質)である」ではないという点なのでしょう。  ~~~~~~  ☆ ここでわたしが《ごとく》というふうに言って直接に《啓示》となぜ言わなかったかと言えば それは 《啓示として》と言えば あまりにも宗教の教義のようであると思い これを避けたからです。要は わが過去の経験の中からだとは思えないヒラメキだというところにあります。啓示と言ってもいいですよ。なぜなら 啓示と見る主観はこの場合 それとしてならふつうのコミュニケーションに出してもいいと 一般に保証されていましょうから。  ★ 「考える」のキャパを超えたものは全て神として崇め  ☆ これは 思考能力の限界を 時代とともに どこに置くかの問題だと思われますから 微妙に定義の仕方が違って来ています。そもそもとして 非経験の場を想定するわけですから。この場が わが心に非思考の庭として成るなら それは 《神を崇める》といったこととは まづ初発の状態において違います。  想定した神と言わばわたしは 対面するわけです。想定上ですが。その上で 確かにわたしは この神を受け容れるという場合と いやそうではなく こんなものをおれは受け容れない 無い神として受け容れるという場合とがあります。単純に《あがめる》とか《単に寄り掛かる》というような意味で身をゆだねるのではないわけです。自己を活かすためにあるという心の納得があるものと考えます。それゆえ受け容れようとするのだと。  ★ 《非思考の庭》というのは良く言えば無垢、そうでないとすれば無知と言い換えて良さそうですね。  ☆ 無垢・有垢の問題ではありません。なにしろ非思考であり非経験とのかかわりの庭なのですから。無垢というのは 思考がからんでいます。《無知》というよりは 《非知》でしょうね。  ★ ~~~~  >この世をも超えた世界を想定  :  することが、なぜ、  >つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持った  :  ことになるのでしょうか。因果関係は見出せません。  ~~~~~~~~  ☆ 因果関係の問題ではありません。ふたつは 同じことだと言っています。《言葉として カミやシンジルを持つということは その厳密な意味においては 非経験の場が想定されたということになる》 こういう意味です。  ★ ~~~~  >《心の明けであり心の伸び》  :  という表現で言いたいことはわかるような気がしますが、それは信仰のみがもたらすものではないでしょう。  ~~~~~~~  ☆ それは・つまり《信仰のための専一的な用語》というのは 無理です。人間の言葉は つねに比喩などをつうじて別の意味を派生させます。(意味が変化しもします)。  ★ ~~~~  相対の世界を超えているものがあるぐらい小学生でも感じていますよ。  宇宙の法則と言ってもいいでしょうし、自然の摂理と言ってもいいでしょう。  ~~~~~~  ☆ まづ第一文の内容が聞けて よかったと思います。いままで非経験の場を言っても いったい通じているのかどうか あやふやだったのですから。  ただしこれを《宇宙の法則》とか《自然の摂理》と言いかえるのは 初めの非経験の場から第二次的に派生した言い方になります。   非経験の場〔なるナゾの何ものか〕:絶対・無限・不可変性・永遠   →真理・至高の善・正義・慈愛・全知全能   →〔擬人化〕絶対者 →神(あるいは 無い神)   →絶対者たる神=創造主   →宇宙の法則・自然の摂理・宇宙の霊魂(プシュケー・コスムー)・世界霊魂(アニマ・ムンディ)  こういった派生的な規定が――想定上 ただし 人間の思考をつうじて――得られます。  ★ わざわざ《無い神》などという発想までに及ぶ必要性はありません。  ☆ 意味が捉えられません。《有る・無い》は 経験世界の規定です。非経験の場ではこれらを超えています。《有る無い》を超えた場を 超えていない人間の言葉で表わそうとすれば 《有る》つまり有神論か 《無い》つまり無神論か いづれかひとつにならざるを得ない。ということです。《有る神》と《無い神》とは 互いに同等であり 名前が違うだけで同一です。  ★ ~~~~~  この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。  :  「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。  ~~~~~~~  ☆ 《わたしは》と言っています。意味が分かりません。  ★ ムイシキとして特別視せざるを得ないような現象が発生するために  ☆ ですから 記憶の中に眠っていたものが目覚めたら それはムイシキだったものだと すべてについて言えます。《特別視》はありません。  あるいは 過去の記憶が よい・たのしい思い出であって 心がちからづけられるというようなムイシキの意識化もあり得ます。どうしても 暗い闇のほうへ持って行こうとしていませんか?  ★ ~~~  >納得ゆくようなまとめを得るようにする  :  ための無意識という概念だとわたしは言っているわけですが、そうではないという根拠はどこにありますか?  ~~~~~  ☆ 眠っていたものが起きたら それはすべて例外なく《ムイシキだった記憶》のことです。いいことも わるいことも 納得ゆくように総括しまとめて再び記憶へと返します。それだけのことです。  ★ ~~~  繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。  それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。  ~~~~  ☆ これが まさしく何もないのに何かあるという――ムイシキ理論の――《思い込み》です。  ★ ご自分は常に、検証できる事柄のみを前提にして見解を述べていると思っていらっしゃるのでしょうか。  ☆ あなたは たとえばコロンをお使いです。これは 深層心理から行けば ふたつの乳房です。よほど乳房に思い入れがお有りのようです。つまりはもっと単純に言えば マザコンのことです。――と言われて あなたが それを そんなことはありません。特別にそんなことになっていることはありません。と答え返したとすると こう返答が来ます。そうでしょう。そのように否定なさるところが まさにムイシキ理論のセオリどおりなのですから やはり意識では分からなくても ムイシキにおいては 実相なのですよ。と。  こんなことは わたしは言いません。  《検証できない内容にもとづく理論を振りかざして 相手に応用してしまい その診断結果を おしつける。あとは いくら違うと言っても 耳を貸さない。ほかの人にも言いふらす》  そういう問題です。筋が違います。  ★ ~~~~  >経験事象に属する  :  にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。  ~~~~~  ☆ これを 山師と言います。ペテン師のことです。自分ひとりの仮説を超えてほかの人に当てはめるなら そうなります。

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     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

  • イザヤ書53:1-7

    イザヤ書53:1-7  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《アース役の最後の人》という主題および《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 《屠り場に牽かれていく小羊のように・・・》

     『イザヤ書』 53章:1-7節です。  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。  ◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《誰にとってものアース役で そのアース役の最後の人》という主題は読み取れますか?  この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とともに やがて消えて行くと読み取れますか?  《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?  これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?