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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カインは なぜ・どこが わるかったのか?)

カインの心の闇とは?

hakobuluの回答

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.25

#23です。 些細な表現に拘って建設的方向性を見失ってもなんですから要点を絞りたいと思います。 >非思考というのは ヒラメキになれば 知覚をともないますから それにつれて心理作用も帯びて来ますが 心理などというのは大海の波風であるに過ぎません。心ないし精神が 大海です。そこに知覚もおこります。その前にイメージのごとき混沌としたヒラメキが起こり得ます。 : ヒラメキは非思考の庭から突如天啓のごとく生じる、ということでしょうか。 > ですが 人間存在という拠り所は けっきょく果敢無くうつろいゆくものであると知っている人間は 《考える》という言葉では表わし得ない人の《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知ってそれを 《信じる》と呼んだのです。 : 「《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知って」と言う場合ですが、 この「知って」という状態になるための契機といったものはあるものでしょうか。 >人間存在の拠り所を 非経験の場に置くことは 人間存在としての自己を活かすためであり その自己に立って 信じるのです。めちゃくちゃです。 : 「人間存在の拠り所を 非経験の場に置くこと」が「人間存在としての自己を活かすため」であることの根拠はなんでしょうか。 >人からさとられないように隠すということですか? だったら さとられないようにするというハカラヒ(計らひ)があります。これを隠す。なら 記憶に残るのは必然です。  つまり その隠す場所が どこであるか そんなことは どうでもよいはずです。記憶の中に残ることは 変わりないのです。どこであろうと 関係ないはずです。まさか 隠し場所を脳にわたしが指示して どこそこに仕舞っておいてくれと言うのでしょうか? めちゃくちゃです。 : 人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。 隠すというのはいわゆる抑圧のことで、これは自我の防衛機制の代表格ですね。 また、場所や領域という表現にあまり拘る必要はありません。 記憶の中に残るが、しかし、なかなか意識に浮上してこないもの、これを無意識と呼ぶだけです。 それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。 > ★ 完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。  ☆ だとしたら この《根を張っている》ということは 事実ではないということになります。それで《思い込み》と規定しているとも言えるのですが それだけでは話が済みません。《思い込み》も《根を張っている》ということも すべて錯覚であり幻想である。こう明言しなければならないはずです。 : 実際問題として、思い込んでいる人に、錯覚だ幻想だと言っても納得しないでしょう。 まず、なんらかの思いに苦しむ人がいる、ということが前提的事実としてあるわけです。 それは「思い」ではなく「思い込み」であり、なぜそのように思い込むのかといえば、その根は無意識領域にある、ということ。 その場合にも、無意識領域という想定が有効になると思います。 そういった領域があるわけではありませんが、このように比喩として表現することでわかりやすくなるでしょう。 このようにして、自分で抑圧していた感覚があることに気づくことによって、その感覚は白日の元にさらされて砕け、あたかも堰き止められていた土砂が取り除かれた川のように再び元の流れを取り戻すことが可能になります。 > ★ ~~~~~  「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」  に関しても、  「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」  に関しても、  その根拠が示されていない。  ~~~~~~~  ☆ ふざけてはいけません。ムイシキは いくら理論として実際に使ってもそれの検証が出来ないものだと言っているぢゃないですか。検証のできない事柄を示して理論どおりだと言っても 根拠がない。ゆえにそういう理論を用いて人についての判断をおこなうのは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離なのです。 : 一般的に心や精神の問題は検証が難しいものでしょう。 脳科学の発達で大分解明されている部分もあるようですが、まだほんのわずかです。こういった問題に関して、 >検証のできない事柄 : だというだけの理由で >人間性のゆがみであり 人間性からの遊離 : と断定するのはどうなのか、ということを申し上げました。 つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。 神の検証はできるのですか。 私見を差し挟めば、無意識に関しては、繰り返しになりますが、記憶しているはずなのに思い出せない記憶があることは誰もが理解できるのではないでしょうか。 場所を特定しろと言われれば現段階では無理でしょうが。 とはいえ、件の回答者さんもブラジュさんが「男根主義者であるようです」という理由で無意識の存在が確認できた、と言っているのに、男根主義者であるという根拠を明らかにしていません。 この意味で、「無意識の存在が確認できる」というには根拠に乏しい。 どっちもどっちだと言ったまでで、ふざけたわけではありません。   

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさん 前々回では 口角泡を飛ばしていましたが 前回は ののしっています。これにめげずにご回答を寄せていただきまことにありがとうございます。  ★ ヒラメキは非思考の庭から突如天啓のごとく生じる、ということでしょうか。  ☆ 精確に言いますと:   ○(ヒラメキとは) ~~~~    もっとも非経験の場に近いと思われるもの(と言っても 感覚的なことですが)は 単なるイメージがひらめいたという直感です。まだ海のものとも山のものとも分からない状態であり得ます。  そこからでも 人はいわゆるアイディアを見い出すことがあると見ます。    次には 直観が ヒラメキのひとつとして 来ます。これは むしろすでに概念が固まっているかたちだと言ってよいと思います。すでにモノゴトの本質をも見抜いたというような内容を持ち得ると。  いづれのヒラメキにしても そこから 言葉化して今度はその言葉いっぱいに思考の世界において中身を取り扱います。取捨選択 練りあげ 磨き上げといった整理作業や論理の展開などが行なわれて行きます。     では このヒラメキは どこからくるのか?   いまは 過去の学習経験や思考の蓄積から来るものは 別としています。言いかえると 経験や自分の意志から来るヒラメキではないヒラメキがある。こうわたしは 思っているという意味です。  つまりは それは すでに経験を超えていると見るからには 非経験の場であり これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭が成ると見るわけです。  したがって いま扱っているヒラメキは この非思考の庭に起きる。と見ますし ということは 非経験の場なるナゾの何ものかから来ている。と――想定上―― 見るというかたちです。    ● ヒラメキは わが心の非思考の庭に 或る日或る時 ふと どこからか確かに啓示のごとく 起きる。  こうなると考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~  「《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知って」と言う場合ですが、  この「知って」という状態になるための契機といったものはあるものでしょうか。  ~~~~~~  ☆ 古代人は お日さんをアマテラスというごとく 神と呼んだでしょうし 嵐をもスサノヲ(スサは 荒ぶのスサと言います)と呼んで これも神と言えば神々のひとはしらとしたようです。(古代インドでは スールヤ神が 太陽神のようですし インドラ神は 日本での帝釈天のことですが 雷霆神だそうです)。  自然界の中にさらに超自然を捉えて とにかく《かみ》と呼んだようです。つまりはこれがすでに 非経験の場のことだと見ます。雷を《神鳴り》というごとくにです。  言いかえると その日輪や雨風の自然現象そのものが 神であるというのでなく それの仮りの姿という意味で偶像だと――厳格には――捉えたと思います。神々は 非経験の場そのものとしての《かみ》の言わば分身であろうと。  したがって ここには いわゆる大自然に対する畏敬の念を生む素地があるでしょうし その心をすでに《非思考の庭》と見るなら そこには《ナゾの何ものかへの きよらかなおそれ》をいだいているという己れの姿を人は見い出すと思います。  そのように ただ経験世界に閉じこもるというのでなく そうではなく この世をも超えた世界を想定したならば――つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持ったならば―― その《閉じていない》というところが 《心の明けであり心の伸び》だと見ます。これは 一般に《信仰》と呼ばれるのだと。  大海に比される心の中に そのきっかけの時点では 心の中から出た思いとして起こるというのではなく まして心の表面で感情が起こりそれをめぐって心理があれこれはたらくというのでもなく 心を超えた場とのかかわりと捉えているのだと見ます。  ★ 「人間存在の拠り所を 非経験の場に置くこと」が「人間存在としての自己を活かすため」であることの根拠はなんでしょうか。  ☆ この世の経験的なものごとは 無常であり果敢無いと知ったあとの知性においては 拠り所は まづ 無いと見ると思います。そこから 神という言葉があるのを知って この神に――なぜなら 超経験なら 相対の世界を超えているその絶対に――拠り所を見い出す。(あるいは そのとき いや そうではない わたしは けっきょくその超経験の場も それは《無い神》だと思うと言って 無神論という信仰を持つ場合もあると見ます)。  つまり 拠り所であるなら このいまの自分を活かすためであると考えて不都合はないと思います。  ★ ~~~~  人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。  隠すというのはいわゆる抑圧のことで、これは自我の防衛機制の代表格ですね。  ~~~~~~  ☆ でしたら この《抑圧》について・つまり隠したし抑圧したというコトについてわたしは 記憶しているということだと思います。つまり 知っているという意味です。普段は 無意識だとしても 基本的にわたしは記憶において知っていることだと見ます。   つまりその《わたし》の内部で   ★ 自我の防衛機制  ☆ という作用があったとしても すべては《わたしが 記憶において――そのコトもそれを隠したことも――すべてを知っている》というのが ふつうの現実だと見ます。  言いかえると その全体としての現実が 現実であるゆえに  ★ ~~~~  また、場所や領域という表現にあまり拘る必要はありません。  記憶の中に残るが、しかし、なかなか意識に浮上してこないもの、これを無意識と呼ぶだけです。  ~~~~~~  ☆ ということが きわめて煮詰めた言い方では どうでもよい。となります。すなわち  ★ それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。  ☆ と一応は言えても この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。その区別に さして意味がないと見ます。したがって 領域を特別視する謂われもない。こう見ます。  記憶の中で眠っているものは すべてムイシキの状態にあります。それだけだと見るという意味です。  このことが大事なのは 次の場合です。  ★ ~~~~  まず、なんらかの思いに苦しむ人がいる、ということが前提的事実としてあるわけです。  それは「思い」ではなく「思い込み」であり、なぜそのように思い込むのかといえば、その根は無意識領域にある、ということ。  ~~~~~~  ☆ ムイシキの領域が特別にあるわけではないという認識が重要だと ここで 成ります。すべての《思いこみ》も《思い》も みな記憶の中に《根を張っている》ことに間違いないからです。  どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動だとかの見方があるので それに影響を受けて ムイシキを特別視しようとするクセが 人びとについてしまった。ただそれだけだと見ます。  ★ 実際問題として、思い込んでいる人に、錯覚だ幻想だと言っても納得しないでしょう。  ☆ 記憶から過去のいやな思い出をよみがえらせたのですね? と問えば それで済むことです。それによって悩んでいるなら その過去の事件をあらためて分析し心に納得ゆくようなまとめを得るようにする。これだけのことです。ムイシキだからこう そうでないからどう といった捉え方は 要らないはずです。  精神分析の手法は ここまででも 要りません。  ★ 無意識領域という想定が有効になると思います。  ☆ いいえ。記憶とその想起があるだけです。眠っていたものは すべてムイシキだったものだというだけです。  次の事態は 上で述べた《過去の事件の分析と納得のゆく整理》という作業の中にぜんぶ含まれます。   ★ このようにして、自分で抑圧していた感覚があることに気づくことによって、その感覚は白日の元にさらされて砕け、あたかも堰き止められていた土砂が取り除かれた川のように再び元の流れを取り戻すことが可能になります。    ★ つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。  ☆ だから 他人に対して その人となりなどについてこれこれだと ムイシキ理論を用いて 判断しそのことを言って その中身が かならず当たっているのだぞと言い放っても自由だという意味ですか?  《検証できない根拠にもとづく判断を 他人におしつけても 〈否定する根拠もないから〉 大丈夫だ》という意味ですか?  ★ 神の検証はできるのですか。  ☆ ふたつあります。ひとつは すでに述べて来たように 経験事象との対応を――想定のかぎりでですが――おこなって どこまで経験科学の検証に耐えられるか これを見ようとして来ています。ところが ムイシキ理論は ついぞ行なえないのです。他人に対して当てはめた診断を 言いっ放しであり 押しつけたままになります。これは 人間性が問われなければならない問題です。  もうひとつに ムイシキは 経験事象に属するので 神の問題が いわゆる公理として良心・信教の自由にもとづき 信仰として持たれているという現実と異なっていることです。言いかえると 信仰について この主観の内面の問題だという基本からさらにコミュニケーションの場に出て 経験合理性で何とか納得しうる説明を求めているし その成果を発表している。というところです。

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    イザヤ書53:1-7  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《アース役の最後の人》という主題および《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 《屠り場に牽かれていく小羊のように・・・》

     『イザヤ書』 53章:1-7節です。  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。  ◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《誰にとってものアース役で そのアース役の最後の人》という主題は読み取れますか?  この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とともに やがて消えて行くと読み取れますか?  《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?  これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?