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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カインは なぜ・どこが わるかったのか?)

カインの心の闇とは?

hakobuluの回答

  • hakobulu
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回答No.22

#20です。 >ということは 記憶の倉庫のほかにムイシキの領域があるのですか?  : そうですね。 たとえば、倉庫地下の穴倉にでも眠っているような在庫というほどの意味です。 なかなか日の目を見る機会に恵まれないという意味で、それを無意識と名づける。 しかし、ブラジュさんは穴倉と言ったって倉庫には変わりないだろう、とおっしゃっているわけで、つまり呼び名の問題にすぎません。 「なかなか日の目を見る機会に恵まれない記憶がある」という点では同じことでしょう。 > ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう? : いえ、そうですよ。わたしの理解ではですが。 > ★ 「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけ  ☆ の領域があるのでしょう?  : ですから、これはあくまで比喩であることは当然でしょう。 記憶の中で、容易に浮かび上がってこないものを想定する際に(こういった想定をすることの有意性についてはブラジュさんも異論はないはずですが)、それを無意識の領域に格納されている記憶、のように表現するだけですよ。 前意識などという区分けを追加する場合もありますが、特に触れる必要はないでしょう。 > 誰れかが あなたはマザコンだろう? と言われてそれを否定したなら 相手は そのように否定するのは ムイシキ理論のセオリどおりだ 意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはずなのだ と返して来る。これです。 : コンプレックスというのは複合・錯誤などと考えてよいと思いますが、マザーコンプレックスというのは他の女性を母親と勘違いして認識することです。 しかし、母親(あるいは代替的な女性)からの影響が皆無の男児というものは存在しないわけです。 つまり、多かれ少なかれ、成長後も男児というのは恋人や妻などに対して母親の面影を探そうとします。 また、そうでなければおかしいでしょう。 ただ、そのこと(対象の女性を母親と取り違えること)によって現実の生活において不都合が生じるような場合、複合・錯誤であることを認識する必要が出てくるだけです。 つまり、 >意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはず : なのはむしろ当然なのですが、だからといって、それがどうしたというのか、ということになります。 何の不都合も生じていない人間に対して、そういった用語を適用して喜ぶのは子供のやることですが、それにいちいち腹を立てるほうもどうかと思います。 記憶として深く刻まれている「母親から受けた影響」は膨大なものがあるでしょう。 しかし、いちいちそれを意識しているわけではない。 また、思い出そうとしても殆んど思い出せない記憶もある。 それを無意識と呼ぶだけですよ。 無意識という呼び名が無くなったからといってマザコン人間がいなくなるわけではありません。 ただ、程度の大小があるだけで、マザコンの要素を持たない男は誰一人としていないはずです。 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった風情が感じられますが、無意識には何の罪もありません。 ですから、 > これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。  それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? : というのは全く根拠を欠いた推論と言えるでしょう。 歪み、遊離しているとすれば、それを扱う人間の問題にすぎません。 > これを 《そこまでの扱いをする》という見方は おかしいでしょう。ごくふつうのことなのですから。 : いえいえ、ヒラメキや非思考の庭も検証できないと思うのですが。 > ヒラメキは その直感ないし直観じたいにおいてすでに経験的なものごととして得られたなら――それもふつうのことだと思いますが そしてもはやそれを解釈する必要もないわけですから―― 必ずしも非思考の庭に起きたそれ(ヒラメキ)だとは確かに見ないでしょう。ただし たとえば方向性を示す場合とか 同じようなことですが いまおこなっている道筋を変えてみるようにといった指示だとかなら 信仰にかかわるそれだと見なせましょう。 : どうもわかりづらいので端的にお尋ねしますが、 非思考の庭という領域はどのあたりに想定されているのでしょうか。 ヒラメクというのは感覚の作用だと思いますが、「あ!」とヒラメイタ段階ですでにそれは蓄積された記憶に基づく営為でしょう。 方向性を示す、あるいは道筋を変えてみる、というのは、環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。 > しかも ムイシキにかんして問題となるのは あくまでその過去の亡霊のよみがえりが その人に一生付きまとうと見なしているところです。 : 記憶は(取捨選択や上書きなどもあるでしょうから一概には言えませんが)基本的に一生付きまとうと言って良いでしょうが、一生付きまとうことが問題なのではなく、単なる記憶にすぎないものを亡霊とみなしてしまう、という点に問題があるように思います。 単なる記憶ではなく亡霊なのだ、と言う場合には、亡霊とみなさざるを得ない現況があるから、ということになるでしょう。 たとえば街中における車のバックファイヤーがベトナム従軍時の敵の砲声に聞こえてしまう。 この場合、記憶における敵の砲声は亡霊と言えますが、それはバックファイヤーが敵の砲声に聞こえてしまう、という現況を反映したものでしょう。 敵の砲声は過ぎ去った過去のことであり、現在という時制には起こらないことだと認識できると亡霊は記憶に戻るはずです。    

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  納得できません。少しづつ微妙に焦点がずれていると考えます。  ★ 敵の砲声は過ぎ去った過去のことであり、現在という時制には起こらないことだと認識できると亡霊は記憶に戻るはずです。  ☆ こういう事実認識のことではなく 問題は トラウマならトラウマと呼ぶ症状になって現われるということ しかもこの症状は 一生なおらない(完治はしない)ということを言っている。これは けしからんという物言いです。  ★ ~~~~~~  非思考の庭という領域はどのあたりに想定されているのでしょうか。  ヒラメクというのは感覚の作用だと思いますが、「あ!」とヒラメイタ段階ですでにそれは蓄積された記憶に基づく営為でしょう。  方向性を示す、あるいは道筋を変えてみる、というのは、環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。  ~~~~~~~~  ☆ 直感ないし直観 これが ヒラメキであり 欧米で言うインスピレーションのことです。単なるイメージであって ほとんどその意味が分からない(あるいは 混沌とした状態である)場合さえあるはずです。そして 少しは概念として捉えることのできるイメージやさらには直観(これは かなり理論化したいわゆる本質的な内容を伴なうものであると思います)としてのヒラメキもある。こういう事情ですが・・・  こういう事情ですが まづ 直感とかイメージとか言う以上は 知覚においてそれは現われます。むろん 経験的な事象です。  問題は それが どこから来たかです。  いちばんの(という意味は けっきょく一生に一度の わが人生を決めるところの)ヒラメキは わが心の燈心を点(とも)す力のあったそれです。これは どう考えても わが身と心の中から現われたとは思えません。わが身と心に――知覚をとおして――現われるのですが 人間としての持ち分の中からは この着火するハタラキは出て来ないと考えるのです。  孤りいるということや 人生のむなしさ・はかなさを身に染みて感じるときの闇のような・わが心の暗い世界を 偉人の英知や人びとのなさけや思いが癒してくれることはありますが そしてその闇に光を投じてくれることもあります。ありますが そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。  科学による事実認識が世界を照らすこともあり得ますし 人びとの思いが 互いに自分たちの心をやわらがせることもあり得ます。要するに落ち込んだとき その凹みをあたたかくつつむこと これは 人間わざでもありえます。  ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。    もしこの心の燈心に火をともすといったヒラメキが あくまでどこまでも経験事象であり そのハタラキも人間わざの範囲におさまるというのなら それはそれでかまわない。言いかえると わざわざ神や信じるといった表現を当てなくても そのヒラメキが起こるのであれば それでよいわけです。  言いかえると もはや 人間の持つ言葉から 神や信じるという語は消えてなくなるという意味です。そうなるまでは――これは 良心および信教の自由に属す事柄であるのですから―― わたしは《わが心に非思考の庭が成った》 それが 信仰の成立でありそのまま信仰の動態であると説明しているわけです。  いまは この説明がいちばん説得力がある。こう思ってのことです。  言いかえると  ★ 環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。  ☆ これでは 納得が行かないというただただその感覚に 根拠を――つまり無根拠という根拠を――見い出すというところです。つまりもし おっしゃるように 経験的な心的現象として《わが心の燈心に火をともす》ヒラメキが起きるのであれば それこそ トラウマは人間であるかぎり直るでしょう。完治すると断言しているべきでしょう。  ★ いえいえ、ヒラメキや非思考の庭も検証できないと思うのですが。  ☆ これは 非経験の場とのかかわりですが そのかかわるときには 知覚が起こりますから 経験現象となります。したがって その現象にかんするかぎり――自然科学者でさえ ヒラメキが事実であり現実であると認めているからには―― やがて脳内活動としても細胞組織の動きとして解明されるようになりましょう。  と言えるのです ヒラメキの場合には。  ところが ムイシキになると まるで そんな気配はないのです。その想定がおこなわれているのみです。  ★ ~~~~~~  たとえば、倉庫地下の穴倉にでも眠っているような在庫というほどの意味です。  なかなか日の目を見る機会に恵まれないという意味で、それを無意識と名づける。  しかし、ブラジュさんは穴倉と言ったって倉庫には変わりないだろう、とおっしゃっているわけで、つまり呼び名の問題にすぎません。  「なかなか日の目を見る機会に恵まれない記憶がある」という点では同じことでしょう。  ~~~~~~~~  ☆ もしほんとうにこうであるならば ムイシキの領域という呼び方は まづいでしょう。なぜ《地下の穴倉》は 独自の領域と見なされるのか? これに答えなければなりません。それも ままならないはずです。  ならば ただの記憶のことです。  ★ ~~~~~~~   > ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう?  :  いえ、そうですよ。わたしの理解ではですが。  ~~~~~~~~~  ☆ でしたら 次の命題について そのムイシキは 何ら特別の意味はなく ただ記憶の一分野だということになります。  ★★(回答No.17)~~~~~~  にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。  イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。  思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。  ~~~~~~~~  ☆ そして いかにムイシキと呼びたいひとつの記憶領域に《根を張っている思い込み》があるとしても それは 症状を呈することとは 関係ないということ。ここまでをしっかりとはっきりと明らかにしていなければならないでしょう。ですから仮りに《トラウマ》という用語さえをもただの呼び方の問題に過ぎないとして受け容れるとしても このトラウマは 過去のいまいましい記憶がよみがえったことによるただの一時的な現象であるに過ぎない。こうきちんと言っていなくてはなりません。そういう問題です いま扱っている問題は。  ですから マザコン等々のコンプレックスにしても 問題は事実認識のあり方を超えて起こります。  この場合は 直らないという問題であるよりも 検証ができないのにムイシキが活動していると言い張るところにあります。ムイシキの無意識の内なる活動によって そのコンプレックスは起こっているのだという説明 これは 簡単に人が盗用できる理論であり論理なのです。包丁の悪用・誤用の問題どころではなく まさに理論どおりに応用しているとさえ言わねばならない事態です。  その事例をお示しします。わたしが最近受けた事例です。  ●(【Q:われわれは 魂が去勢されていましょうか?】回答No.9)~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7277186.html     精神分析的な話し方が、対話として不毛であるという指摘がありましたが、私はどうだか知りません。結局お書きになっているのは、無意識の存在を否定したというだけのことで、その理由も、統計も示されていません。したがって、何ら説得性をもつものではありません。  しかし、傍から見れば、あなたは自覚なさっていないが、(すでに私が述べたように)非常な男根主義者であるようです。ところが、あなたは違うと否定なさっている。この事例で、私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした。無意識である以上、当人は自覚することができず、「え?そんなことはない、おまえの深読みだ」と否定するものです。あなたの反応はセオリー通りです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ ~~~~  これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。  それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか?  ~~~~~~~~

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    イザヤ書53:1-7  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《アース役の最後の人》という主題および《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 《屠り場に牽かれていく小羊のように・・・》

     『イザヤ書』 53章:1-7節です。  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。  ◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《誰にとってものアース役で そのアース役の最後の人》という主題は読み取れますか?  この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とともに やがて消えて行くと読み取れますか?  《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?  これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?