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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カインは なぜ・どこが わるかったのか?)

カインの心の闇とは?

noname#148937の回答

noname#148937
noname#148937
回答No.10

前に随分と落ち込ませてしまったようですから、お詫びを兼ねて、投稿してみることにしました。一応、あなたをご満足させようと、調べてまいりましたよ。 まずアベルとカインのお話しに触れた一節は、新約聖書で、六ケ所あるそうですね。念のために列挙しておきましょう。マタイ福音書23、ルカ福音書11、へブル書11と12、ユダ書、ヨハネ第一書。これらが、旧約聖書のアベルとカインの箇所を解釈する上での手掛かりになると、従来は思われてきました。まず新約聖書に沿った先行研究をまとめることから始めましょう。 注目するべきは、マタイ・ルカでは、アベルの扱いは「義人アベルAbel tou dikaiou」となっていることです。この義人dikaiosはユダヤ教の文脈で出てくる義人saddiqとは異なる意味だそうです。 キッテル新約聖書神学辞典の「義」の項目によれば、Saddiqが「神の裁定により己の権利を擁護されたもの」であるのに対し、dikaiosは「己の義務を神に対して果たす一方……神の要求に答えて、神の御前で義人と認められるにふさわしき正しさを自ら保有する者」であるそうです。どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。 だが、ここからが、実は思案のしどころです。上記はあくまで、新約聖書の記述であり、後世の者による一解釈であるとも言えます。すなわちマタイ・ルカ・「へブル人の手紙」の成立時期を考慮すると、どうやらこれは、ローマの迫害にあったキリスト教徒らが信仰を固める必要に迫られていた時期に書かれたことが明らかになります。義人アベル像を一つの比喩として、信仰を失う危機にあったものに対し、忠告するという意図があったようです(シュトラートマンの説)。 以上のように時系列を整理して考えると、いくら新約聖書であると言ったところで、一解釈に過ぎず、あまり新約聖書の記述に引きずられてしまってはどうしようもないことになります。結局、義人―アベルvs非・義人―カインという構図にしかなりません。そして、もっとも極端な例では、シュナイダーのように、カインは本質的に悪であり、当初から神に憎まれていた、などという単純な解釈に落ち着いてしまいます。いやはや、これでは世界には、生まれおちてから、神に嫌われる絶対的な悪がいることになってしまいます(というより、シュナイダーはユダヤ教的な解釈に行ってしまったと言える?)。それでは、カインがあまりにも不憫というものでしょう。新約聖書の記載にだけ頼った先行研究は、新約聖書の解釈の偏りを、図らずも、明らかにしてしまったと言えるのです。 おそらく、あなたはそういうことはご存じなのでしょうね。だが、それではよいと思わない。そこで、また別のモノの見方を求めているわけです。以下、私の分析を書いてみることにします。 すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。 まず、正しさを決めるのは、神ではないのか?神ではなく、カインが決めてもよいことなのか?という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます(※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。 こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか? 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。 もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。 アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。ちなみに私自身は、この問題について、特に信条はありません。グノーシス的な見解は、あくまで「分析」であり、私自身の意見とは異なりますので、ご留意ください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 前に随分と落ち込ませてしまったようですから  ☆ 昨年までなら やり取りが途中で切れても(つまりは 相手が途中でとんずらしても) まだ起こり得る事態であると受け止めていました。局面が変わったのです。そこへ 以前と同じ事態が現われた。このことに出遭って《落ち込んだ》のです。じゅうぶん分かるはずである説明をしているのにこれが伝わらなかった。この非力に蒼ざめたのです。それ以外に問題はありません。  言いかえると 今回つまりこの今のご投稿から見れば前回のやり取りの断絶については 途中での切れが しかもブロックされるという事態であったこと これも 予想していないことゆえだからです。  今回は おかしな動きがあれば ただちに断ち切ります。草鞋の底の埃をもきれいに払って 引きます。押し売りではないのですから。    さて何はともあれ ご回答に感謝もうしあげます。  全体として 残念ながら 批判を内容とするこちらからのお応えになります。  § 1 《信仰》の定義が 必要です。  ★ アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。  ☆ この《信仰の問題》とは何であるか? これが必ずしも明確ではないと受け取らざるを得ないからです。  むろん ご自身のそれがどうであるとか そういうことではなく哲学としての定義です。議論をすすめるための作業仮説でもいいわけですから 明らかにしておかないと 空回りの部分が出て来ましょう。    さらにつまりは あなたが《単なる信仰の問題であるという以上に》とか《新約聖書の解釈の世界から外へ出る》とかいうときに そこで捉えられている内容が わたしの見方からすれば やはり信仰の問題であったということがあり得るからです。  § 2 前章の言い分について 例証します。  § 2-1  ★ 神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは  ☆ これは グノーシス主義が問題になる以前の問題です。そもそも  ★ 神を超える  ☆ という概念が 分かりません。おそらくそのように言えると思って疑わないのであれば こうでしょう。すなわち そのように超えられ得る神というのは 誰れか人間が想像し思考し作り上げた《神にかんする観念 ないし 観念の神》であるということです。(そして このことは グノーシス主義に確かに当てはまります)。これなら いくらでも よりすぐれた内容の観念神が作られ得るかも知れないからです。  § 2-2 そもそも 神についての説明はこうです。    ○ (神についての一つの説明)~~~~~   神は――神と想定されたならば―― 《絶対》です。《無限》です。   その上も下もなく(超える超えないということは あり得ず) 並び立つものもなく ひとり満ち足りている存在です。   正義や慈愛や遍在や不可変性や全知全能などなどの言わば属性が添えられるのは この《絶対ないし無限》についての――人間の思考における――派生です。  ~~~~~~~  § 2-3 あるいはさらに反証として  《義 ツァディーク ディカイオス》なる言葉をめぐってですが:  ★ ~~~~~~  どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。  ~~~~~~~~  ☆ これは この説について承知した上でではありませんが・それでも言えることには もともと旧約聖書について 新約聖書の出る前にギリシャ語訳(セプトゥアギンタ)が出ていますから そこでは 上の言葉は そのように互いに呼応しているということがあるからです。  言いかえると ギリシャ語には ヘブル語のツァディークの意味を忠実に伝える言葉がなかった。ただそれだけのことであるはずです。当てた言葉がやがて外延として 同じ意味を持つことはあり得ます。日本語には 渇愛とか愛欲といった意味での愛という言葉しかその昔にはなかったのが 別の意味に用いられるようになっています。そのようにです。  ちなみに キッテル新約聖書神学辞典を疑うわけではありませんが 次のような情報もあります。  ● ( dikaios ) ~~~~   http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=G1342&t=KJV1)  righteous, observing divine laws  : in a wide sense, upright, righteous, virtuous, keeping the commands of God  1) of those who seem to themselves to be righteous, who pride themselves to be righteous, who pride themselves in their virtues, whether real or imagined  2) innocent, faultless, guiltless  3) used of him whose way of thinking, feeling, and acting is wholly conformed to the will of God, and who therefore needs no rectification in the heart or life  3-a) only Christ truly  4) approved of or acceptable of God  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり最後のほうで ヘブル語の意味に合わせたかたちになっているということだと見ればよいはずです。  § 2-5 カインは 信仰がなかったのではなく それがゆがんでいたのだ。  ★ 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。  ☆ 同じく回答No.1へのお礼欄にて このことは触れました。文面には書いてないのですが カインにしたところで 神への信仰の中にあった。神の声が聞ける境地にあった。ただし反抗し遠ざかろうとしていた。だけなのだと。単純に言って 滅ぼされなかったからである。  § 2-6 上記§ 2-3 の引用文についてあらためて問う。  ★ すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。  ☆ 人が《信仰を持っている》ということは 事実としてあり得ますので 間違いではありませんが それだけでは 信仰を取り間違えます。    ○ (信仰とは 定義の二) ~~~   信仰は あくまで神からあたえられるものです。   あたえられたものを受け取るのは 人の意志行為であり 経験行為ですが ――もし神秘になってもよいとのゆるしが得られればと断った上で言いますが――この意志行為として受け取るという経験行為も じつは あたえられるものだと見ているのが 信仰である。  人間の思考や判断など一切の経験行為はもとより その存在じたいも 神に先行することはない。  神がすべてに先行する力でありハタラキであると見るのが 信仰である。    これは 恩恵(恩寵・賜物・めぐみ)と言われますが むろんそれは 《ただで(無料で gratis )》という意味から来ています。《絶対》〔との関係〕とは 人間にとってそういうことであり 言わば《無根拠》である。  ゆえに 《神の前で信仰を持っている》と言ったところで・あるいはそれが まぎれもないその人の真実であったとしても なお信仰は 神に先行しない。という信仰でなければいけない。こう言えると思います。  それゆえに むしろ《神に好かれている》といった表現のほうが 信仰をあらわすのにふさわしいと考えられます。  ~~~~~~~~~~  一たん休みましょう。このあとは 補足欄につなげるつもりです。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづきます。  § 3 あなたご自身の分析をわたしが分析します。  § 3-1 神は失態を演じたか? そのことを間抜けのごとく書かせたのか?  ★ ~~~~~~~  すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。  ~~~~~~~~~  ☆ 次の考え方を導入すれば その《不思議なこと》を見てみる前に 疑いは晴れましょう。  ▲ (コリント前書 1:25) ~~~   神の愚かさは人〔の賢さ〕よりも賢く、   神の弱さは人〔の強さ〕よりも強いからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 3-2 ★ 《正しさを決めるのは、神ではないのか?》  ★ まず、正しさを決めるのは、神ではないのか? 神ではなく、カインが決めてもよいことなのか? という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。  ☆ これは 表現の問題です。文学の手法が入っているとして読むべきです。  どういうことか? たとえば次のように神がアダムやエワに問いかけるとき 神はその答えを知らないわけではない。いえ じゅうぶん知っていて尋ねています。そういう手法です。そうして 人間に対して あやまちうる判断でよいから自分で考えて決めなさいと言っているのかも分かりません。  ▲ (創世記 3:9-13) ~~~~  主なる神はアダムを呼ばれた。    「どこにいるのか。」  彼は答えた。    「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れて    おります。わたしは裸ですから。」    神は言われた。    「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じ    た木から食べたのか。」  アダムは答えた。    「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から    取って与えたので、食べました。」  主なる神は女に向かって言われた。       「何ということをしたのか。」  女は答えた。    「蛇がだましたので、食べてしまいました。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 3-3 神は失態を演じたか?  ★ ~~~~~~~~~  (あ) 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。  (い) 結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。  (う) これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。  (え) (※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。  ~~~~~~~~~~  ☆ (え)は おもしろいですが ならば もっと先へすすんで欲しい。組織宗教の自己解体を勧めるというまでにです。  (い)の《精霊》は 聖書の神としては――《神の意志・愛》に相当するものとしては――《聖霊》と呼びそう書きます。(年寄りゆえの物言いでしょうが)。  ○ 〔(い)を厳密な表現に言い直すとしたら〕 ~~~  聖書はあくまで 人間が書いたものです。聖書記者が ヒラメキ(インスピレーション)を得て書きました。ヒラメキは 神の聖霊のしわざだと見る場合があります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う)の《メッセージ》は もしそうであるならば  ★ あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。  ☆ というふうに遠慮せずに さらに進めたほうがよいと考えます。この経験世界に起こる現象としてはすべて いかに神につなげられて捉えられるとしても その現象じたいは 仮りの姿であると。神そのものとして受け取ってはならないと。  《失態》かどうかは すでに前二節において基本的な見方を明らかにしました。  あるいはまた その時代その地域の人びとの信仰をめぐる境地のあり方に従って 神の言葉や振る舞いが 記者によって書き記されたと考えられます。境地が低ければ それに合わせて語ったり振る舞ったりする姿が描かれることになります。(これは 旧約の範囲にとどまると言うべきでしょうか)。  § 4 ★ 《結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?》  一挙に引用します。  ★ ~~~~~~  (お) こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?  (か) 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。  (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。  (く) しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。  (け) だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。  ~~~~~~~~~  ☆ (け)の《神を超える》問題は すでに§ 2-1および§ 2-2で述べました。ありえないという立ち場です。神を超えたら そこも神の領域です。そういう想定です。これで(く)にも応えました。    (お)から(き)までの三つの事項では カインの信仰に対する態度は如何に? という問いを発してその答えからおのづと解決策が出て来る問いだと考えます。  現代人なら 一たん神とは切り離されていると考えます。たぶん宗教改革のころにおいて 少なくとも教会の説く神とは切り離されたのだと。非キリスト教圏に住む人びとにとっては もともと〔聖書の神と特定したかたちにおいては〕結ばれていないでしょう。  どういうことかと言えば ここでカインは まだ――まだです まだ――神と結ばれていたと見るという意味です。と同時に 神から離れたい・あるいは神に反抗したいと思っていたのではないでしょうか?  けれども あろうことか 弟のアベルをころすまではそのことの是非について分からなかった。そのあと 神との結びつきに目覚めた。(ここは 議論の分かれるところかも知れません)。  ですから 現代人のごとくに神を一たん別の場所に置いて(もしくは 放ったらかしにしておいて) 《どう振る舞うべきか》というような問い方は カインは しないのではないか?  ★ (か) 神によろこんでもらうこと  ☆ なら いまのまだ曲りなりにも保っている神との結びつきに従って生きればよいということくらいは 知っている。それが ――主観の問題でもありましょうが――《ただしいこと》だとも知っている。ですから むしろこの神の道から離れたかった。  ★ (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります。  ☆ の《判断する力》は 別の意味になります。つまり 神との結びつきを解くための思惟および判断のことです。そもそも基本的に神に逆らうということについては 父親母親の事例で知っているはずなのですが。そしてその楽園から追われた状態については すでに受け継いでいると思われますが さらに神に《造反》するには どうすればよいかを考えていたかも知れません。  § 5 『ユダの手紙』は カインを全否定しているか?  ★ ~~~~  もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。  ~~~~~~  ☆ ユダ書簡は 《さばき》について書いています。それは 神のおこなうことです。ほんとうのところは 聖書記者としてのユダにとっても分からない。《警告》のような役目を持つ書簡だと見ます。  その《異端者たち》あるいは《神のさばきを受けるはずの不信心な者たち》は 《カインの道をたどる》と言うのでしょう? ですから 上に見たようにそれは 神の道から外れることを考えているということだと思います。  外れないなら 神の道であり もしそうならば《絶対的な正義の存在》は そこに初めからあったし いまもこれからもありつづけ どこへも行かず 移ろいゆくものでもない。こう考えられます。  《神を超えたものの存在の措定》は なぜ必要か まだ納得が行きません。  荒削りもあったかとおそれますが。  

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    ユダヤ教的解釈または議論では人間心理は対象とされるのでしょうか? されるとすれば、以下の解釈は適切でしょうか? また、人間洞察をテーマにしたヘブライ聖書の書籍などの情報を知りたいです。 よろしくお願いします。 ”カインは農作物、アベルは子羊を一匹殺して捧げたところ、神様はアベルの貢物の方が良いと言ってカインを馬鹿にしたのでカインは怒って弟のアベルを殺した。” 弟を殺した兄の心のうちはなんだったのかを自らに問うと ・兄特有の我慢と弟特有の自由さ ・農作物を得るための地道な労働を否定された ・尊敬する神の不当な評価(≒可愛さ余って憎さ百倍)に対する憤り

  • 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

  • イザヤ書53:1-7

    イザヤ書53:1-7  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《アース役の最後の人》という主題および《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 《屠り場に牽かれていく小羊のように・・・》

     『イザヤ書』 53章:1-7節です。  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。  ◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《誰にとってものアース役で そのアース役の最後の人》という主題は読み取れますか?  この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とともに やがて消えて行くと読み取れますか?  《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?  これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?