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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カナシミヲイヤス)

悲しみへの立ち向かい方とは?

このQ&Aのポイント
  • どのような真理も、誠実さも、強さも、優しさも、その哀しみを癒すことはできない。
  • 悲しみに立ち向かうにはどうしたらよいのか、何も役立たないのならどうすればいいのか。
  • 哲学的な観点から悲しみに向き合う方法を探求しています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.4

喜びは夢であり、怒りは夢であり、 哀しみは夢であり、楽しみも夢であり 人生もまた夢である。 全てが夢であり得るとき、 目の前に、静かに現実のみが見えてくる。

latipes
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 すべてが夢ならば、それがいいかもしれません。 すべてが夢であり得る時に、 目の前に、静かに現実のみが見えてきたら 余計にくるしいかもしれません。 とても、深く、心にとまる言葉ですね。 Tefu_Tefuさんの言葉でしょうか・・・・。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (7)

noname#156094
noname#156094
回答No.8

繰り返しやってくる悲しみや涙は 人間の証明のようなものではないでしょうか。 その証明と向かい合わねばならない時が、誰にでも幾度かはあるはずです。 そして、そこから生まれてくるのは、次の時間があるという確信なのでしょう。 悲しみと共に、人間としての生を与えられたという諦観が 次の悲しみに耐えうる力をもたらしてくれるのではないでしょうか。 悲しみとは、そこでは終わらない、終わってはいけない人間性の自覚をもたらしてくれるのだと思います。 >悲しみには・・・何が役立つのだろう・・・。 悲しみという感情の現実から逃げられない事が、自分という人間と向き合うことになるはずです。 何も役立たないほどの悲しみを知ることが、人間の証明を手にすることなのだとすれば少々重い感じもしますが・・・ 三回泣かなければ一人前にはなれない、という譬えもありますが 誰でも一生のうちに三回は泣かなければならない、悲しみのない人生はない、といった意味なのだと思います。 悲しみと共に喜びもまたある、というような感情との付き合いが冷静にできるようになってくるのでしょう。 たかが喜怒哀楽、されど喜怒哀楽・・・なのでしょう。 感情を見つめる働きが増えたといえばそれだけの事かもしれませんし 感情に流されない知恵を手に入れたといっても、元々あったとすればそれも自然だからと片付けられます。 悲しみが次にやってくる悲しみには役に立たない・・・ そんなことはないような気がします。

latipes
質問者

お礼

悲しみとは、そこでは終わらない、終わってはいけない人間性の自覚を もたらしてくれるのだと思います。 悲しみという感情の現実から逃げられない事が、自分という人間と向き 合うことになるはずです。 何も役立たないほどの悲しみを知ることが、人間の証明を手にすること なるほど。。。 そうした視点で考えたことがありませんでした。 回答ありがとうございました。

回答No.7

>悲しみに立ち向かうにはどうしたらよいのだろう・・・・。  その 悲しみ はあなたが作ったのだから もともと あなた次第  悲しみ は 周りや環境や病気や老いが作ったんじゃなくて あなたが 悲しみ を選んで作ったってこと  作るも作らないも あなたは 自由      悲しみ 作ったのは 悲しむ ことが正しいから  存分に 悲しみを お楽しみ下さりませ    それが如何に 悲惨な悲しみで あっても・・    ここはワンダーランド  深い悲しみ 悲惨さ 恐怖 憤激 そして 優美 笑い 極上のエクスタシ 全て 丸ごと ご堪能あれ

latipes
質問者

お礼

悲しみは自分で作ったもの・・・。 なるほど・・・。 否定する気持ちが文章を読んではじめに浮かびましたが、 視点を変えると、たしかにそういえますね・・・・。 いろんな意味で、ハッとなる回答ありがとうございました。

回答No.6

「哀しみ」「哀しみ」の箇所にたとえば「空腹」を代入してみてください。 どのような「真理」も「誠実さ」も「やさしさ」も「強さ」も、 「哀しみ=空腹」を「癒せ」はしません(当然ですが)。 「悲しさ=空腹」から「何かを学びとり」、それを次の「悲しみ=空腹」に役立てるというのは、ほとんど意味不明です。 ―「時」はなしで、何かありましたら… というのは「悲しみを癒すのは時しかない」との返答を拒否なさっていると思われます。 最愛の妹の病死を看取った賢治の哀しみ(慟哭)に、「癒す」などという発想じたいが「ぶしつけ」というか、 論理学でいうカテゴリー・エラーみたいなもの。 妹の最期の願いで庭の雪をとりにいく賢治のその、しどろもどろの足取りこそ、賢治の救いなのだと思われます。 哀しみも空腹も人間にとって何かが欠けたという事態を告げるものです。 哀しみはただ、人間の生の底にある有限性へさらされる経験と思われ、根源的な「悲」に触れることでしょうから、それ自体「かなしい」ことではないかもしれません。 参考になれば。

latipes
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 このカテゴリーで質問したのは、 柔軟で広い視野で回答がもらえるかもしれないと考えたからでした。 ありがとうございました。

latipes
質問者

補足

携帯で見ていたので、 空腹と空虚を見間違えてなるほど!!なんて思っていましたが・・・。 空虚だとなんとなく、しっくりきましたが、空腹だったのですね。 たとえば、空腹ですが・・・。 『時』はなしで というのは、悲しみが癒える、悲しみを癒すに 『時』しか思いつかなかったからで、拒否しているわけではないのです。 自分がわかっている答えを聞いても仕方がないから なしで・・・としたのでした。 説明不足でしたね。申し訳ありません。 “最愛の妹の病死を看取った賢治の哀しみ(慟哭)に、「癒す」などという発想じたいが「ぶしつけ」というか、 論理学でいうカテゴリー・エラーみたいなもの。” たしかに、そうですね。 でも、上記のように するならば、その哀しみ(慟哭)を空腹と置き換えることに違和感があり、 悲しみと空腹は置き換えられず、 空腹は、食べ物で癒すことができ、 悲しみを癒すこととやはり置き換えられないように感じました。 引用した文章に代入することを限定、空腹をたとえばとしても、やはり、 違和感がありました。 “哀しみも空腹も何かが欠けたという事態を告げるもの”だとしても、 二つの事柄は、全く異なっているように感じます。 “賢治の哀しみ(慟哭)に、「癒す」などという発想じたいが「ぶしつけ」というか、” たしかに“賢治の哀しみ”に『癒す』という発想はぶしつけかもしれませんが、 質問としては、悲しみに立ち向かう、悲しみを癒す、悲しみが癒えるには 時以外でなにがありますか?ということでした。 誰かの(または賢治の)悲しみを癒すとか癒したいとか、誰かの悲しみが癒えることをおたずねしているのではありませんでした。 あいまいな質問ですみませんでした。

回答No.5

 こんにちは。  ただ虚構の中のひとりの登場人物つまりはひとつの立ち場に立った考えを作者は 表現してみせたにすぎないと考えます。  ★ ~~~~  我々はその哀しみを哀しみ抜いて、  そこから何かを学びとることしかできない。  そして学び取った何かも、  次にやってくる悲しみには何の役にも立たないのだ。  ~~~~~~  ☆ ひとつに《哀しみについてまなび摂ること》は出来ると言っているわけです。  もうひとつに そのことが《あたらしい悲しみ》とは別だと言っているわけですが ただ漢字を入れ替えただけのようです。それ以上の意味は出なくともよいかたちの意見として作者は そこでは表現してみせているだけでしょう。  哲学としての命題をきちんと述べているわけのものではないと考えます。  (1) じじつ過去にまなんだ経験は その後の人生に役に立つことがあります。  (2) 漢字を入れ替えたことについて くわしく説明してありますか? なければただのおあそびです。  (3) 《どのような真理も》と言っていますが 《真理》が定義抜きにそのままのかたちで哲学の議論に耐えるとも思いません。  (4) 《誠実さ・強さ――あるいは 次の心のあり方に似通うものとしての よわさ・しなやかさ――優しさ》 これらのかたちとしてのその人の自己表現に いま上で定義をしないままに放っておいた《真理》が姿を垣間見せることはあり得ますか? その真理とは どんなヒラメキなのでしょう?  (5) 作者は おおむね・もしくは往々にして 読者をみづから(村上)のモヤモヤ・ワールドの中へ手を引いてまでみちびこうとしていますか?

latipes
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 定義、命題はなされていません。 哲学の議論に耐えられませんね。 ただ、哀しみの渦中にいる時に、 役立つものが『時』しか思いつかず、 それ以外になにかあったら知りたかったのでした。 このカテゴリーにしたのは、 ハッとさせられるような何かが見つかるかもしれないと思ったからなのでした。 回答いただいて、哀しみの中からも学び取れるという部分が自分の中で クローズアップされました。 学んでも役立たないという部分が大きかったので・・・。 ありがとうございました。

回答No.3

自分以外の人を含めた、全ての人のために生きれば、哀しむ事はない。 誰かが哀しんでも、自分さえ投入した身には、同じく投入すべき哀しみに過ぎない(「他人のため」と「自分を含む全ての人のため」の違い)。 「全ての人」は永遠の未来に続く『全て』であり、全ての努力を飲み込む=無限の喜びの源泉であり得る(他我=愛において)。

latipes
質問者

お礼

『すべて』とは難しいですね。 『すべての人』の中の誰かを失って、残されたすべての人のために生きても 悲しみはあるように思うのですが・・・。 私自身が、書いていただいたことを 読み取れていない部分があり、理解がたりないようです。。。 回答、ありがとうございました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.2

事実を、複数の思慮深い他者たちに支えられながら見つめ、事実に向き合い、事実を見つめる自己にもまた向き合うことだと思います。

latipes
質問者

お礼

複数の思慮深い他者たちに支えられながら というところが重要な気がしました。 そして、事実を見つめる自己にもまた向き合うこと なかなか難しいことですね。 回答ありがとうございました。

回答No.1

悲しみを知らない者は本当の喜びも楽しみも怒りも知らない 全ての感情が引き立て合って今の自分がいるのではないかと思います。 て感じでだめですかね。

latipes
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 悲しみを知らない者は、本当の喜びも、楽しみも怒りも知らないけれど、 案外生きていけたりしますよね・・・(笑)。 いろいろあり、今の自分ですね!! ありがとうございました!!

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