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平安時代の結婚

姉さん女房って普通だったのでしょうか? どちらが年上だとか気にしない風潮だったのでしょうか? 教えてください。 (歴史的観点からでも文学的観点からでも構いません)

みんなの回答

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.3

平安時代も約400年程の期間がありますので、この間に結婚の形態も変化していきます。院政期までは招婿婚が主流あったものが、院政期前後からは嫁をとるような形式に変化します。それと同時に貴族社会も家の家格の固定化が進みます。それ以前ですと摂関の息子であっても多くいた妻は受領階級がほとんどであり、妻同士の上下関係はないのですが(極端に身が低いもの、内親王などの降嫁の場合などは例外になります)、院政期ともなると嫡妻と妾の区別がはっきりとしてきます。公卿の一覧である公卿補任を見ると、平安時代中期頃までは、摂関の息子であっても母の欄が「○○守○○女」と書かれ、受領階級を母に持っていたことが明記されますが、院政期頃から母の欄に「家女房」とする記述が散見されるようになります。この家女房を調べると、多くの場合中期までと同じく受領階級の女(むすめ)の場合が多く、上級貴族の結婚相手としての受領階級の女の地位の低下、妾化が進んでいたことがわかります。嫡妻には同じ家格の家から嫁をとる形になります。財産についても、招婿婚では財産の継承、婿への経済的後見、子供の養育などは妻の実家が面倒を見る母系社会でしたが(社会的地位などは男系)、院政期に入ると財産の継承なども男系に移りだし、男系の家父長(天皇家の場合は治天)の力が高まる傾向になります。 ともかくも招婿婚の時代では男は女のもとに通うわけですが、通うところが一か所とは限らず、力がある者ほど多くの女のもとに通う傾向がありました。最愛の妻への愛から三条天皇の内親王の降嫁の話を拒絶していた息子藤原頼道に対して、父親の藤原道長は、男が妻一人だけでどうするのだと言いているほどです。逆に幾人もいる妻の方でも嫉妬や愛がうつろうのでないかと悩むことも多かったようです。藤原兼家(道長の父)の妻の一人の道綱の母の蜻蛉日記は、その気持ちの記録のようなところがあります。しかし、妻の実家が財力をなくし、婿の後見ができなくなると、結婚が解消されることも多かったのです。伊勢物語の筒井筒の段にはこのような事情を次のように書いています。「さて年ごろ経るほどに、女、親なくたよりなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国高安の郡にいきかよふ所出できにけり。」 ともかくも、妻の実家の後見は財力の面だけではなく、政治的・社会的な面にも及び、道長も「男は妻(め)がらなり」と言っているほどです。 さて、姉さん女房の件ですが、天皇の后妃を見ていくと(天皇の后妃以外の女性は生年が分からない例が多いので)、ほとんどが天皇より年下となっています。年上も少なくない例があるのですが、多くは内親王や摂関の子女など政治的理由によるものと考えられます。有名な清和天皇皇后の藤原高子は8歳上、一条天皇の中宮定子は3歳上など、摂関や有力公卿に適齢期の子女が存在しないためと考えられます。それ以外で平城天皇の薬子や、花山天皇の中務など正式の后妃ではありませんが、天皇が愛した相当年上の女性はいました。 公卿でも藤原道長の妻の源倫子は2歳、源明子は1歳年上とされています。さらに同時代の道長のイトコの大納言左大将藤原朝光(関白兼通の息子-閑院の大将)は親子ほども年の違う妻を持ったことで有名でした。大鏡の兼通伝の中に次のような記述があります。 この閑院(かんゐん)の大将殿は、後(のち)にはこの君達(きんだち)の母をばさりて、枇杷(びは)の大納言延光(のぶみつ)の卿のうせたまひにし後(のち)、その上(うへ)の、年老いて、かたちなどわろくおはしけるにや、ことなること聞えたまはざりしをぞ住みたまひし。徳(とく)につきたまへるとぞ世の人申しし。さて、世覚(よおぼ)えもおとりたまひにしぞかし。 もとの上、御かたちもいとうつくしく、人のほどもやむごとなくおはしまししかど、不合(ふがふ)におはすとて、かかる今北の方をまうけて、さりたまひにしぞかし。この今の上の御もとには、女房(にようばう)三十人ばかり、裳(も)・唐衣(からぎぬ)着せて、えもいはずさうぞきて、すゑ並べて、しつらひ有様よりはじめて、めでたくしたてて、かしづききこゆることかぎりなし。大将歩(あり)きて帰りたまふ折は、冬は火おほらかに埋(うづ)みて、薫物(たきもの)多きにつくりて、伏籠(ふせご)うち置きて、褻(け)に着たまふ御衣(おんぞ)をば、暖かにてぞ着せたてまつりたまふ。炭櫃(すびつ)に銀(しろかね)の提子(ひさげ)二十ばかりを据ゑて、さまざまの薬を置き並べてまゐりたまふ。また、寝たまふ畳(たたみ)の上筵(うはむしろ)に、綿入れてぞ敷(し)かせたてまつらせたまふ。寝たまふ時には、大きなる熨斗(のし)持ちたる女房三四人(みたりよたり)ばかり出で来(き)て、かの大殿籠(おほとのごも)る筵(むしろ)をば、暖かにのしなでてぞ寝させたてまつりたまふ。あまりなる御用意なりしかは。 おほかたのしつらひ・有様、女房の装束(さうぞく)などはめでたけれども、この北の方は、練色(ねりいろ)の衣(きぬ)の綿厚き二つばかりに、白袴(しろばかま)うち着てぞおはしける。年四十余(よそぢあまり)ばかりなる人の、大将には親ばかりにぞおはしける。色黒くて、額(ひたひ)に花がたうち付きて、髪ちぢけたるにぞおはしける。御かたちのほどを思ひ知りて、さまにあひたる装束と思(おぼ)しけるにや、まことにその御装束こそ、かたちに合ひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の姫君、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)の御腹、やむごとなき人と申しながら、かたち・有様めでたくおはしけるに、かかる人に思しうつりて、さりたてまつらせたまひけむほど思ひはべるに、ただ徳(とく)のありて、かくもてかしづききこゆるに、思ひのおはしけるにや。やむごとなき人だにこそかくはおはしけれ。あはれ、翁(おきな)らが心にだに、いみじき宝(たから)を降(ふ)らしてあつかはむといふ人ありとも、年頃(としごろ)の女(をんな)どもをうち捨ててまからむは、いとほしかりぬべきに、さばかりにやむごとなくおはします人は、不合(ふがふ)におはすといふとも、翁らが宿(やど)りのやうに侍らむやは。この今北の方のことにより、世の人にも軽(かろ)く思はれ、世覚(よおぼ)えもおとりたまひにし、いと口惜(くちを)しきことに侍りや。さばかりのこと思しわかぬやう侍るべしや。あやしの翁らが心におとらせたまはむやは、と思ひたまふれど、口惜しく思ひたまふることなりしかば、申すぞや」とて、ほほゑむけしき、はづかしげなり。 世継「さばかりの人だにかくおはしましければ、それより次々の人のいかなる振舞(ふるまひ)もせむ、ことわりなりや。翁らがここらの年頃、あやしの宿(やど)りに、わりなき世を念(ねん)じ過して侍りつるこそ、ありがたくおぼえはべりつれ」 快(こころよ)くうちすみたりし顔けしきこそいとをかしかりしか。 (http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/txt_ookagami.TXTより) 大鏡は院政期に成立したと考えられますが、その当時の朝廷の周辺にいた人物により書かれたと考えられ、「あはれ、翁らが」以下は当時の人々の考えが現れた部分で、当時も結婚相手には「年頃」が求められたと考えられます。 現代もそうですが、結婚相手の多くは年下の女性であったと思われます。時に年上の女性があったという感じではないでしょうか。ですから、姉さん女房が普通ではなかったと思いますし、例外はあるにしても年上ということは気にしていたと思います。 *男性の元服の時に添臥(そいぶし)ということがあり、年上の女性(多くは母方の女性)が性体験を教えるとされ、同種の習慣は庶民まであったとされます。中宮定子は一条天皇の添臥との説もあるように、添臥から天皇の后妃となることもあり、このことが天皇の后妃に年上が少なからずいる理由の一つと考えられます。 *妻問婚で「交際の作法として、まず、男性は女性に和歌を添えた手紙を送り」とあるわけですが、ある程度の身分の者では実際上、両親か後見人の承諾を必要としたと考えられます。それは、兼家は道綱の母に和歌を贈る前に、道綱の母の父親の藤原倫寧に直接話を通していますし、道長の妻倫子の場合は、倫子の父親の源雅信と母親の藤原穆子の意見が分かれ、母親の意見で結婚が決まったとされています。また、もう一人の妻の明子の場合は、明子の父親である源高明はなくなり、道長の姉の一条天皇の母親の東三条院詮子もとにいたようですが、道長の兄の道隆などが求婚してもいたのにも拘らず、東三条院の意向で道長と結婚したとされているからです。天皇に限らず公卿層及び子息でも結婚は政治性を帯びると考えられます。 長くなり、蛇足も多いのですが、参考まで。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

平安期の上流貴族で、嫁にするというのは、嫁の実家が男のスポンサーとして支援するという意味です。 なので、年齢差なんて関係ない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E5%95%8F%E5%A9%9A

  • siege7898
  • ベストアンサー率21% (191/888)
回答No.1

平安時代、特に貴族の場合は、女性が住む家に男性が何度も通って愛を深めた後結婚という流れが多かったようです。しかも家督の相続は女性でしたので男性は家を得る為にも必死だったようです。 もちろん姉さん女房などは普通でした。

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